〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ②天英院殿 〜

天英院殿(徳川第六代将軍・家宣公正室)

 私たちが総本山を目指して、大御本尊様に御目通りを願って登山参詣をしたときに、真っ先に目につく建物が朱塗りの三門です。あの勇姿に触れた瞬間、苦しいことや辛いことも即座に消えてしまうから不思議です。そして、命の故郷に帰ったことを実感します。その三門を建立寄進したのが天英院です。

 前回は、徳川幕府第十三代将軍家定の正室であった天璋院篤姫についてお話をいたしました。今月は第六大将軍家宣の正室であった天英院です。徳川幕府三百年の間に、家康以下十五人の将軍がおりました。そして、そのうちの六代将軍と十三代将軍の正室が富士大石寺の信仰をしていた、という事です。しかも、その二方とも将軍家の御台所として他の正室たちとは違って、よい意味で歴史に残る活躍をしております。このことからも、御本尊様を信じる功徳と大きさを確信いたします。
 
 天英院は徳川幕府第六代将軍家宣の正室です。寛文六年(一六六六年)京都の生まれ。父は前の関白・太政大臣近衛基煕(このえもとひろ)、母は第一〇九代後水尾天皇(ごみずのうてんのう)の皇女品宮(常子内親王)です。つまり、天英院は天皇の孫ということになります。近衛家は公家の筆頭格で天皇を補佐する役を担っており、朝廷の中ばかりではなく世間的にも重要な位置にありました。

 天英院は幼名を熙子(ひろこ)と称し、熙姫あるいは豊姫と呼ばれておりました。天英院の乳母の子供が常泉寺第七代住職を勤められた日顕贈上人という方でした。そのようなことから日蓮正宗に縁を深く結ばれたと伝えられております。

 この日顕贈上人は、もとは西山本門寺の僧侶でした。しかし、後に日蓮正宗に帰伏し常泉寺の住職になられたのです。

 西山本門寺は、日興上人の弟子で日代という方の開かれたお寺です。ご承知のように、日興上人は、大聖人様の六老僧の例にならって本六(日目上人・日華・日秀・日禅・日仙・日乗)と新六(日道上人・日代・日澄・日妙・日豪・日助)の方々を定められました。日代は新六といわれる中の一人です。残念ながら西山本門寺は現在は日蓮正宗から離れております。

 この西山本門寺の記録によりますと、近衛家の日蓮大聖人様への信仰については、天英院の母である品宮が、近習の中務卿の勧めにより西山本門寺に帰依したことになっております。延宝三年(一六七五年)です。この時天英院は十歳でした。

 常泉寺史には
「(常泉寺)第七代の日顕贈上人は元西山本門寺末の京上行院の住僧(日衆)であったが、後に江戸上行寺に移住、更に改宗して常泉寺に入住した。後水尾帝の皇女級宮の息女天英院(将軍家宣公室)の乳母が日顕贈上人の母であったことなどの関係により親交があり、その帰依を受け、天英院の資援により伽藍寺域の荘厳を極めた。当寺は日顕贈上人滅後も天英院との深縁により三千四百余坪の広大な境内地を有するに至り、また江戸城本丸の客殿等の寄進をうけ寺運の発展をみた。日顕贈上人の門に入った栄存(日宥上人)は、天英院の猶子となるなどの縁によって、後に日宥上人が大石寺二十五世となり三門建立の折には天英院より巨額の資援を得た。尚、寛保元年天英院死去の折、その遺言により弘安四年日仙授与の大聖人真筆ご本尊が当寺に奉納されたことは特筆すべきことである」
と記されています。

 延宝七年(一六七九年)、甲府藩主松平綱豊(後の徳川幕府六代将軍家宣・三代将軍家光の孫)との婚儀が整って、十二月十八日に輿入れし桜田門にあった甲府藩邸に住むことになりました。天英院十四歳、夫綱豊は十七歳でした。その三十年後、綱豊は四十七歳で第六代将軍家宣になります。

 天英院は夫が将軍となったことにより、徳川家の御台所として江戸城の本丸に入り、以来寛保元年(一七四一年)に亡くなるまで三十数年の間、徳川幕府を裏方で支えました。

 総本山に伝えられる『続家中抄』には、総本山二十五世御法主日宥上人を外護した天英院のことが次のように記されています。

①正徳二年壬辰年の夏、三門造営に就いて、公儀より金子及び富士山の材木御寄進下し置かるるなり。

 これは、現在の総本山にある三門の建立のことに付いて記されたものです。公儀とは幕府のことで、将軍を指します。三門建立の御供養として、黄金で一二〇〇両と記録にあります。現在の貨幣価値に直すといくらぐらいになるのでしょうか。一両が十万円とも二十万円ともいわれておりさだかではありませんが、公儀としても決して少ない額ではないでしょう。しかも当時の幕府経済は豊ではありませんでした。これ以外にも、富士山で伐採された大木を七十本も御供養されております。

 このような貴い御供養があったからこそ、二百九十六年後の今日にあっても、天英院が御供養された富士山の大木が山門に姿を変え、私たちを迎えてくれるのです。こんどお山に行ったときに、三門の柱にそっと触れてみて下さい。天英院の護法の精神が肌を通して命の中に染み通ってきます。そして、天英院の総本山を御護りし、未来の法華講衆の道しるべに山門を建立御供養しよう、という貴い精神が伝わってくるはずです。この天英院の真心からの御供養が、私たちを励まし、大御本尊様に導いて下さるのです。ゆえに、天英院の護法の精神を手本として、信心に励めば大きな功徳を受けることができます。

▼三門須弥壇の徳川家並びに近衛家家紋の彫刻(三門二階御宝前)

 

 総本山案内には三門について次のようにあります。
「三門は朱塗りの木造建築で、その美しさは東海道随一のものと称されています。第二十五世日宥上人の発願により、徳川幕府第六代将軍家宣公と、その御台所・天英院の寄進を受け、六年の歳月をかけて享保二年(一七一七)八月に完成しました。 昭和四十一年(一九六六)に静岡県の有形文化財に指定されています」

②一、独礼席御免許の事
富士大石寺
向後独礼坐仰せ付けられ候間明六日より独礼坐にて御礼申し上ぐべく候
 寅正月五日                                毛利讃岐守役人
駿州大石寺

③一位様付き堀山城守書状
兼ねて願い上げられ候今六日独礼の席に於て御礼申し上げ度きの旨、数年中絶致し寺社奉行衆取り上げ申されず、然れ共貴僧儀は御台様に従い若年の時分より御取り立ての出家、今又大石寺入院の儀も思し召しに依り右の仕合わせ、彼是れ御由緒を以て独礼の儀、間部越前守迄仰せ出され御老中へ右の旨申し渡され手柄に存知候。右の旨御台様にも御気色の御事に思し召され候。御礼の旨宜しく御沙汰申し上ぐべく候。                     恐々謹言。
 正月六日                                  堀山城守正勝判
大石寺日宥上人 

 独礼席を許可される、ということは、将軍と単独で面会をすることのできるようになった、ということです。つまり、日蓮正宗大石寺の御法主上人は、徳川幕府から、特別の地位が認められた、ということです。当時の江戸城では、「数年中絶致し寺社奉行衆取り上げ申されず」とあるように、独礼席は事実上廃止されていたようです。したがって、寺社奉行が困惑している様子が記されています。しかし、天英院の強い希望があって独礼席が復活したようです。破格の扱い、といってもよいでしょう。もちろん、私たちの信心の上からは、征夷大将軍であっても、未だ日蓮大聖人様の信仰をしていない限りは折伏をする相手です。ですから独礼席を許されたからと言って喜んではいられません。しかし、天英院からすれば、大聖人様より唯授一人の血脈を御所時遊ばされる御法主上人が、その他大勢の中にあって将軍に相対するのは申し訳ないと思ったのです。ですから、途絶えていた独礼席を復活させ、城中に御法主上人をお迎えするように取り計らったのです。このことからも、天英院の深い信心がうかがえます。

 

▼徳川家宣公御夫妻が資金建立を御供養された、大石寺五重の塔にも徳川家・近衛家の家紋が施されております。