〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ③敬台院殿 〜

敬台院(阿波蜂須賀家二代藩主至鎮公正室)
 
 今回は総本山の御影堂を建立御供養された敬台院です。天璋院は薩摩の島津家、天英院は京都の近衛家でした。敬台院は徳川家の人です。

 御影堂には、御本尊様と共に第六世日時上人の代から伝わる日蓮大聖人様等身の御影様が安置されています。現在の建物は寛永九年(一六三二年)、第十七世日精上人の代に、敬台院の御供養で再建造営され、昭和四十一年(一九六六年)には静岡県の有形文化財に指定されています。

 御影堂では、宗祖日蓮大聖人様の御命日にあたる十三日には、鎌倉御出現の日蓮大聖人様の御魂が常住遊ばされているとの意義を込め、御在世のときと同じような心持ちで、御法主上人御自ら御給仕申し上げ御報恩を尽くします。七日の日興上人の御命日、十五日の日目上人の御命日にも、御法主上人が御出仕されて御報恩御講が奉修されます。

 また、本宗の二大行事である虫払法要や御大会(ごたいえ)をはじめ、総本山での各種の年中行事もこの御影堂を中心として奉修されます。

 この御影堂を建立御供養された敬台院は、文禄元年(一五九二年)下総古河藩主小笠原秀政と登久の長女として生まれました。父の秀政は信濃の守護職大名であった小笠原氏の末裔で、母登久(とく)は徳川家康の長男・信康と織田信長の長女・徳姫の間に生まれました。つまり、敬台院は信長と家康の直系の曾孫にあたります。その後、慶長五年(一六〇〇年)に曾祖父であった家康の養女となり、阿波徳島藩主であった蜂須賀至鎮(よししげ)に嫁ぎました。

 日蓮正宗の信仰をするようになったのは、総本山十七世日精上人から直接の折伏を受けたからである、と伝えられております。『敬台寺三百三十年史』によれば、能筆で知られていた日精上人に、法華経の書写を敬台院が願い出た折に、日精上人から直々に折伏されたことが記されています。

 嫁ぎ先の蜂須賀家は元来が富士門流の京都要法寺の信徒でした。そのような縁から、日蓮大聖人様の仏法を蜂須賀家に嫁いでから学なび、法華経の写経を日精上人に願い出ることになったと思われます。そして、日精上人から、本門戒壇の大御本尊様と、大聖人様以来の唯授一人の血脈を御所持遊ばされる代々の御法主上人のもとで信心をすることが成仏の唯一の道であると破折され、日蓮正宗富士大石寺の正しい信仰を持つようになったのです。

 入信されてよりは、純粋に大聖人様の教えを守り、日蓮正宗の外護に勤めました。そのなかでも特筆されることは、御影堂を建立御供養したことです。

 また、御法主上人が江戸城に登城するにあたっては、駕籠に乗ったままでの登城を許可するように幕府に申し出てそれを認めさせています。このことは、自らが信ずる日蓮正宗の代々の御法主上人は特別なお方である、と思う強い信心のあらわれです。先月の天英院が『独礼席』のことを申し出たのと同じです。二方ともに、大聖人様以来の唯授一人の血脈を御所持遊ばされる御当代上人を、大聖人様の如く敬っていた証拠であり、私たちもこのような信仰を受け継ぎ、後世に伝えることが大切です。

 歴史を学ぶことは、歴史上の人たちの信心の行動を通して、私たちの信仰のあり方を学ぶことだと思います。天璋院も天英院も本日の敬台院も高い地位にありながら、深く日蓮大聖人様の信仰に帰依し、強い信心で生涯変わることなく富士の立義を貫き、行動で私たちに外護の姿を示してくださいました。将軍の正室といえば、現代風にいえばファーストレディーです。多くの侍女たちにかしずかれ、何不自由なく過ごすことが出来る恵まれた身分でした。しかし、そのような地位にあっても、おごることなく、純粋に日蓮正宗の信仰に励んだのは、凡夫の心を満たすのは、真実の幸福は、お金や地位ではなく御本尊様の仏力であり法力であることを、この方々が身をもって示してくれているのだと思います。そして、「私たちの信心の後輩である平成の法華講衆の皆さま。折伏で、社会的・経済的に恵まれ、満ち足りた生活をしているような人に対したとき、私のような者の話を聞いてくれるだろうか、などと不安になることがあるかもしれません。その時には私たちを思い出してください。どんな相手であろうと、人としての心は同じなのです。親子や兄弟や色々なことで悩んでいるのです。ですから、遠慮なく正しい教えを説き折伏をして、その人を真実の幸福に導いてあげることが第一です」と自らが手本となり、折伏の勇気を与えて下さっているのです。

 私たちには名誉もお金もありませんが、世界一の宝物である御本尊様があります。この境界こそ最高絶対の境界であり来世に持って行くことの出来る唯一のものであることを自覚し、自信と誇りをもって折伏の修行に励みましょう。そして今世に御本尊様に縁が叶った自身の福徳に感謝しようではありませんか。