〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ④南部信順公 〜

南部八戸藩・九代藩主南部信順公

 南部信順(なんぶのぶゆき)は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しまずしげひで)の十三男として、一八一四年(文化十一年)に生まれました。兄姉には三女の茂姫(一七七三年・安永二年)がおります。この茂姫さんは徳川十一代将軍・家斉(いえなり)の正室になり、広大院と呼ばれております。したがって、将軍の家斉さんと信順さんは義理の兄弟ということになります。

 一八三八年(天保九年)に八戸藩に養子として迎えられ、四年後の一八四二年(天保十三目年)に八戸藩第九代藩主となり家督を継いでおります。

 信順さんが藩主になった翌年の天保十四年、日蓮正宗・仏眼寺僧侶の玄妙房日成師(げんみょうぼうにちじょうし)が弘教のために八戸を訪れ、阿部喜七宅に滞在しました。仏眼寺は仙台にある日蓮正宗の寺院で、伊達家とも深い縁があります。前後しますが、信順さんは藩主になったとはいえ、未だ江戸の藩邸におり、国元では義父の南部信真(なんぶのぶまさ)が実権を握っておりました。

 さて、喜七さんは日蓮宗の本寿寺の檀家でしたが、玄妙房の説く、日蓮正宗富士大石寺の信仰こそが本当の日蓮大聖人様の御教えであることを知り、先祖代々続いてきた日蓮宗の教えを改めて富士大石寺の信徒となりました。そして、
「須く心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」(『持妙法華問答抄』御書三〇〇頁)
との日蓮大聖人様の教えを素直に実践しました。真実の日蓮大聖人の教えを伝える富士大石寺の御法門の前では、身延派をはじめとする日蓮宗の教えは無いに等しく、次から次へと論破され、富士大石寺の信徒が続々と八戸に誕生することになりました。

 ところが、信徒が改宗してしまった本寿寺では、自らの誤りは棚に上げて、富士大石寺の信仰を「切支丹類似の富士門流」として、藩庁に訴えたのです。藩では、信仰の正邪を判断するのではなく、改宗を禁止した国法に背くことは許されない、として富士大石寺の信仰を捨てることを命じました。しかし、正しい教えのあることを知った八戸の法華講衆は一歩も引きませんでした。そして、ついに入牢や所払いの刑を受け、総本山富士大石寺から御下附頂いた、御影様や御本尊様も藩に取り上げられてしまったのです。これが「八戸法難」といわれるものです。

 そのころ江戸藩邸にいた信順さんは、出入りの高野周助という常泉寺の信徒に折伏を受けておりました。同時に、周助さんは藩邸に勤めていた侍女・喜佐野も折伏をしておりました。どちらが先に入信をされたのか分かりませんが、二人とも富士大石寺の信仰に入りました。

 ここで思い出していただきたいのですが、以前にお話をしました天璋院篤姫は、重豪さんの曾孫でしたね。ですから、篤姫さんからみれば、信順さんはお祖父さんの弟、ということになります。現在の感覚からすれば、このように申し上げると、ずいぶん年が離れているように思うかもしれません。しかし実際のところは、篤姫さんと信順さんは二十二歳違いです。ちょっと年の離れたお兄さん、といったところでしょうか。信順さんたちが入信したこのころ、薩摩から将軍家へお嫁に行くために篤姫さんが江戸に登ってきました。そして、将軍家の御台所になる篤姫さんに、正しい信仰を持って嫁入りすることが幕府のため、日本のため、ひいては国民のため、と立正安国論の精神を説いて折伏をしたことは想像に難くないところです。信順さんから折伏を受け篤姫さんはたいそう聡明な女性でした。ですから、素直に日蓮大聖人様のお弟子となることが叶い、富士大石寺の信徒として徳川十三代将軍・家定の正室として嫁入りし、その後の活躍は周知の通りです。

 次ぎにあげる手紙は、総本山五十一世日英上人が嘉永六年(一八五三年)九月一日に、青森県八戸のご信徒、渡辺重兵衛さんに宛ててお出しになったものです。現在は八戸市玄中寺(げんちゅうじ)に所蔵されています。

 信順さんや喜佐野さんの信心、また周助さんたちのことが記されております。

「日英上人お手紙」
「扨て度々有り難き事は遠江守様え高野周助より種々法義筋申し上げ、当春御入国に付き、色々手段相廻し、折能く喜佐野と申す御老女、周助教化致し、今春幸ひ御供にて御国え参り候に付き、先年法難の節、御取り上げに相成り候尊像御三体、御本尊廿一幅、大石寺へ下し置かれ候様、喜佐野殿へ程能く願い含め置き候処、折こそ有り、右喜佐野今年卅七歳、大厄年の処、当夏中、大病相煩い、先々大切にも及ぶべき処、兼ねて周助より願ひにて愚老(日英上人)より遣はし置く御秘符頂戴致し、七日立たざる内、本復致し、殿様も奇代に思し召される処え、右喜佐野より闕処蔵入りの尊像・御本尊等の儀願い上げ候処、即時に御取り出しに相成り、六月中より殿様御居間に御安置、日々、御膳等上り、喜佐野殿等御題目修行候由、喜佐野より周助へ申し参り候旨、此の程周助より申し越し候」(諸記録第九部四十五)

【現代語訳】
 さて、常に有り難くまた不思議に思うことは、南部信順さんに、高野周助さんより富士大石寺の法門を種々申し上げ入信に導かれたことです。その結果として、今年の春、八戸にお帰りの時に、手を尽くして下さることとなりました。
 折よく、喜佐野さんという侍女の責任者も周助さんより教化を受け入信をしており、今年の春に信順さんが八戸にお帰りの時にお供をすることができました。その時に、喜佐野さんに、前の法難で藩に取り上げられていた、日蓮大聖人様の御影様三体、御本尊様二十一幅を、大石寺に返していただくように折を見てお願いして下さい、と頼んでおりました。喜佐野さんは三十七歳の大厄の年であり、夏のころに大病を患いました。命にも及ぶような病気でした。しかし、喜佐野さんの病気のことを案じていた周助さんが、私に御秘符を願い出ておりました。喜佐野さんがその御秘符を頂戴したところ、七日たたないうちに病気が良くなりました。その姿を見た殿様も、御本尊様の不思議なお力である、とより強く日蓮正宗の信仰に励むようになりました。そのようなことがありましたので、喜佐野さんは、以前の八戸法難の時に、藩から取り上げられ、蔵に納められている御影様と御本尊様等のことをお話しいたしましたところ、殿様はすぐさま蔵からお取り出しになられ、六月の中頃より殿様の居間に、法難で取り上げた御本尊様や御影様を御安置になりました。そして、毎日お膳などもお供え申し上げ、喜佐野さん達も勤行や唱題をして、修行に励んでいる、とのことです。このことを、喜佐野さんより周助さんに連絡がありました。さらにこの度、周助さんより私に連絡があったものです。 

 このお手紙から、
①南部八戸藩・第九代藩主南部信順(のぶゆき)さんが日蓮正宗富士大石寺の信仰をされていたこと。
②南部信順さんを折伏したのは、高野周助さんという人であったこと。
③高野周助さんは、喜佐野(きさの)さんという侍女の責任者(老女)も折伏したこと。
④喜佐野さんが三十七の大厄の年、大病を患ったが、日英上人より御下附された御秘符を戴き、七日もたたないうちに全快したこと。
⑤その功徳の現証を見て、南部信順さんが自身の居間に御本尊を御安置して信心に励んだこと。
⑥先に、法難の時に取り上げられていた御影様や御本尊様が返されたこと。
などが分かります。

 南部信順さんを折伏した高野周助さんは、常泉寺の法華講員です。南部信順さんの実家である薩摩藩出入りの商人でした。商人といっても、高野という苗字を名乗ることができたのですから、一角の人物でした。また、藩主を折伏をするのですから、信心の面からいえば、「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(一一〇九頁)と仰せにあるような、勇気のある信仰生活でした。

 また、出入りの商人から、日蓮正宗の話を聞き、入信する殿様も素敵な兼識の方だといえます。身分制度の厳しい時代ですからなおさらです。臆することなく勇気を出して折伏をする人、その法門を聞いて素直に入信をする人。日蓮正宗富士大石寺の信仰は、社会的地位や名誉、また財産などを超越して存在することを南部信順さんや喜佐野さん、さらに高野周助さんの関係で学ぶことができます。

 私たちの周囲にも、地位や財産には恵まれていても、心が空洞の人が大勢います。そのような空洞を埋めるのが正しい教えです。相手を思う素直な心になって、周助さんのように御本尊様のお使いとして、真実の教えである富士大石寺の南無妙法蓮華経を伝えてまいりましょう。

 日蓮大聖人様のお使いをすることにより、篤姫さんや信順さんの後輩といって胸を張ることができるのです。なお、南部信順さんは、一八六一年(文久元年)に八戸に、自らの住していた館を移築して、玄中寺を建立御供養いたしました。正墓は総本山富士大石寺にあり、朝な夕な大御本尊様の功徳に浴しています。

 戒名は 玄中寺殿信順仁翁日義大居士(げんちゅうじでんしんじゅんじんおうにちぎだいこじ)です。明治五年二月二〇日五十九歳で亡くなりました。