御報恩御講(令和6年4月)

 令和六年四月度 御報恩御講

 『諫暁八幡抄』(かんぎょうはちまんしょう)         弘安三年十二月   五十九歳

 今(いま)日蓮は去(い)ぬる建長(けんちょう)五(ご)年(ねん) 癸(丑) 四月廿八日(しがつにじゅうはちにち)より、今(いま)弘安(こうあん)三年(さんねん) 太歳(庚辰) 十二月(じゅうにがつ)にいたるまで二十八年(にじゅうはちねん)が間(あいだ)又(また)他事(たじ)なし。只(ただ)妙法蓮華経の七(しち)字(じ)五字(ごじ)を日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生の(いっさいしゅじょう)口(くち)に入(い)れんとはげむ計(ばか)りなり。此(これ)即(すなわ)ち母(はは)の赤(あか)子(ご)の口(くち)に乳(ちち)を入(い)れんとはげむ慈悲(じひ)なり。(御書一五三九㌻八行目~一〇行目)

 今月拝読の御書は、『諫暁八幡抄』であります。
本抄は、弘安三年(一二八〇)十二月、大聖人様が五十九歳の時に、身延でお認(したた)めになられた御書であります。御真蹟は総本山大石寺に格護され、毎年春の御霊宝虫払大法会の御真翰巻返しの儀において、御法主上人猊下より御披露される長編の御消息です。総本山に格護される御真蹟は、全四十七紙のうち、第十六紙から最後の四十七紙の全部で三十三紙が現存しています。第一紙から十五紙までは散失したか、或いは平成新編御書に「身延曽存」とありますから、明治八年正月十日の身延の大火災によって、『開目抄』など多くの御真蹟と共に灰燼(かいじん)に帰したものと思われます。誠に残念なことであります。本抄の対告(たいごう)衆(しゅ)は明らかではありませんが、末文に「各々我が弟子等はげませ給へ」(御書一五四三㌻)とあることから、大聖人門下の弟子檀那一同に対して与えられた御書と拝してよいと思います。

 本抄が認められた背景について少々申し上げますと、この年、弘安三年の十一月十四日、鎌倉の鶴岡八幡宮が火災によって焼失しました。この原因について本抄では、本来法華経の行者を守護すべき八幡大菩薩が、謗法の人々を守護したことによる報いであると示されています。そもそも八幡大菩薩とは、大梵天・帝釈天・天照太神等とともに法華経並びに法華経の行者を守護する諸天善神とされています。大聖人様は、八幡大菩薩の本地について「月氏にては釈尊と顕はれて法華経を説き給ひ、日本国にしては八幡大菩薩と示現」された、(『智妙房御返事』御書一五二六)と仰せられています。このように八幡大菩薩は、霊山において正法の行者を守護する誓願を立てていることから、日本国を妙法によって救おうとする大聖人様をはじめ、門下を守護しなければ、自らの誓願に背いてしまうことになります。国のため、民のため、法のため、速やかに為政者の謗法を罰して、末法の法華経の行者を守護せよと、厳しく諌暁(諫め諭された)されたのが此の『諫暁八幡抄』であります。

 御法主日顕上人は、昭和五十七年の御霊宝虫払大法会の御書講の砌、御真蹟の末尾に、「建武第三丙子(ひのえね)六月六日読誦し奉り畢(おわん)ぬ 日道判」(大日蓮 四三五号) と、日道上人の御筆跡で認められていることを示されたあと、「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基(もとい)として御書の 拝読が種々の形で行われたことを知る証左となる」(同)と御指南なされています。これは『四条金吾許御文』に、「八幡大菩薩の御誓ひは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。而るに去ぬる十一月十四日の子の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひ」(御書一五二四㌻)と仰せになり、八幡大菩薩は、霊山において正法の行者を守護する誓願を立てていることから、日本国を妙法によって救おうとする大聖人様をはじめ、門下を守護しなければ、自らの誓願に背いてしまうことになります。ですから、国のため、民のため、法のため、速やかに為政者の謗法を治罰して、末法の法華経の行者を守護せよと、厳しく諌暁されたのであります。また、八幡大菩薩が謗法の国土を嫌って、天に去られた「神天上の法門」を示され、更に、大聖人様の強折を誤解する一部の弟子に、折伏の慈悲行たる所以を示され、御自身が末法の御本仏たることを密意に示されています。大聖人様が八幡大菩薩を責めるのは、敵だからではなく、諸経論によって、誠の願いが叶わないときは守護神を叱るべき旨を御教示されています。そして、大難を受けても法華経を説いて邪宗邪義を破折するのは一切衆生を救うためである、と仏の大慈悲を述べられ、八幡大菩薩が必ず法華経の行者を守護しなければならないことを説かれています。時は蒙古の再度の襲撃が予想され、人々は不安におののき、幕府も防備に総力を挙げていた、緊迫した社会情勢でした。

 本文を拝しますと、「今(いま)日蓮(にちれん)は去(い)ぬる建長(けんちょう)五(ご)年(ねん) 丑癸 四月廿八日(しがつにじゅうはちにち)より、今(いま) 弘安(こうあん)三年(さんねん) 庚辰太歳 十二月(じゅうにがつ)にいたるまで二十八年(にじゅうはちねん)が間(あいだ)又(また)他事(たじ)なし。」(通釈)「今日蓮は、去る建長五年癸(みずのと)丑(うし)四月二十八日より、つまり宗旨を御建立された日より、今、弘安三年太歳庚(かのえ)辰(たつ)十二月にいたるまでの二十八年間、他の事はまったく無い」。つまり妙法流布を一貫して行ってきたとの仰せであります。「只(ただ)妙法蓮華経の七(しち)字(じ)五字(ごじ)を日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口(くち)に入(い)れんとはげむ計(ばか)りなり。」(通釈)「ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に唱えさせようと励むばかりです」。「此(これ)即(すなわ)ち母(はは)の赤(あか)子(ご)の口(くち)に乳(ちち)を入(い)れんとはげむ慈悲(じひ)なり。(通釈)「この行いは、母親が赤子の口に乳を含ませようと励む慈悲(と同じ)であります。」このように大聖人様は仰せになっています。

 本抄の末段において、「日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」(同一五四三㌻)と仰せの如く、宗旨建立の日から一貫して折伏に励まれた大聖人様のお振る舞いは、やがて日本のみならず世界へとこの仏法が広まっていくことを披瀝なされているのでございます。

 それでは、拝読の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。一つ目は「折伏こそが真の慈悲行」ということです。拝読の御文に、「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」とありますように、大聖人様が様々な法難に敢然と立ち向かい、折伏を行じて人々を救済しようと励まれたのは、ひとえに親が我が子を守り育てようとする大慈悲心によるものだと仰せなのです。御承知の通り、私たちの仏道修行には自行と化他行があり、折伏は他者を教化する化他行になります。化他について、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段二一九㌻)と、御指南なされています。
 本宗の信仰は、御本尊様を信じて、日々の勤行・唱題を基本としさらに他を折伏教化して大聖人様の正しい仏法を弘める、自行化他の修行に邁進することが大切なのです。御指南の「自行満つれば」とは、例えて言えば、コップに水を注いでいくとやがて水がいっぱいになりあふれます。そのコップの水がいっぱいになるまでが自行であり、あふれて水が外に漏れ出すのが化他であるということです。「慈悲」とは、梵語で「マイトレーヤ・カルナー」と申します。マイトレーヤとは、「友」という意味で、これは特定の友では無く、すべての人々に持つ友情の意味で、慈悲の「慈」です。カルナーとは、原意は「呻(うめ)き」で、人生の苦しみに呻(うめ)き声をあげることをいいます。苦しみ悩む人の苦しみに 同感し、その苦しみを癒やすことができる、その同苦の思いやりを「悲」と言います。『新仏教辞典』には、「神の恩顧のように高きから低きに向かうのではなく、常に同じ高さにあるもの同志の心のふれあいを重んずるところに、仏教の慈悲の大きな特徴がある」
と、説明しています。『大智度論』(巻二七)には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く」(大正蔵二五ー二五六)とあり、所謂、「抜苦与楽」を説いています。
 仏教は、キリスト教で言うような愛を嫌います。愛というのは、ひとたび間違うと憎しみに変わり、また、好き嫌いに左右されるから、仏教では愛してはならないと教えているのです。何故かというと、それは自己愛だからなんです。自分の都合で他人を愛し、都合次第で憎しみに変わる。つまり、自分の欲望を満たすために他人を愛する、そのような欲望を梵語では「トリシュナー」と言います。トリシュナーの原義は、「渇き」です。喉が渇くと本能的に水を飲みたくなります。仏典ではそれを「渇愛」と訳しました。渇愛は、充足によっては解決しない。例えば、海を漂流した人が、渇きに耐えかねて海水を飲む状態です。海水を飲めば飲むほど渇きを覚え、際限が無くなります。渇愛とは、そのような状態に在ることを説くのです。ですから、仏教では、相手の境遇に同感し、同情して、一緒に寄り添う慈悲を説くのです。
 御法主日如上人猊下は、「唱題も折伏も一体であり、唱題行が、ただ唱題行だけに終わるのではなくして、その功徳と歓喜をもって折伏を行ずることが最も大事なのであります」(大白法 七八一号)と、自行と化他行は一体不離の修行であると御指南あそばされています。私たちは、大聖人様の仏法を信じる弟子檀那として、まず自分自身が朝夕の勤行と日々の唱題をしっかりと実践し強い確信と相手を思う慈悲の心を持って、多くの人たちを折伏していくことが大切だと思います。
 大聖人様が、宗教の正邪によって人々の幸・不幸、成仏・不成仏が決すると御教示されているのですから、私たちは 慈悲心を旺盛に、心から相手の幸せと成仏を願い、不幸の根源である謗法の恐ろしさを教えていきましょう。 そのような振る舞い、人々を正法に導き帰依せしめていく折伏こそが、真の慈悲行となるのことを確信して戴きたいと思います。

 二つ目は「〝正直〟の南無妙法蓮華経を〝正直〟に実践する」ということです。本抄には、「八幡の御誓願に云はく『正直の人の頂(いただき)を以て栖(すみか)と為し(下略)』」(御書一五四二㌻)とあるように、八幡大菩薩は本来、正直な人の頭に宿り、その人を守護するとされます。この「正直」ということについて、大聖人様は『法門申さるべき様の事』に「法華経計りこそ正直の御経」(同四三四㌻)と仰せでありまた、『下山御消息』には、「経々宗々を抛(なげう)ちて、一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり」(同一一三九㌻)と仰せられています。つまり法華経は、方便を一切交(まじ)えない真実の教えであり、教主釈尊の正直の教えです。 ですから、一切の謗法を捨てて、法華経のみを信じ行ずる者こそ「正直の人」に他ならず、そういう信心をしている人が諸天の加護を受けることができるのです。末法において信じ行ずる法華経とは、大聖人様の説かれた寿量文底下種の南無妙法蓮華経であることはご承知のとおりです。『御義口伝』には、「今末法にして正直の一道を弘むる者は日蓮等の類に非ずや」(同一七三三㌻)とあります。身延日蓮宗をはじめ題目を唱える教団が多いなか、私たち本宗僧俗だけが「正直の一道」である本門戒壇の大御本尊様への信心を正しく弘める使命があるのです。世上混乱の今こそ、正直の教えを正直に実践し、広布に向かって大前進してまいろうではありませんか。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「折伏を行ずるに当たって大事なことは種々説かれておりますが、その根本となるものは慈悲(じひ)であります(中略)御本仏の広大(こうだい)深遠(じんのん)なる大慈大悲を我が身に移し、一途(いちず)に相手の幸せを願う 一念に徹(てっ)して励むことが肝要であります。この一念がないと 「慈無くして詐(いつわ)り親しむは彼が怨なり」の譏(そし)りを受けることになります。」(大白法・平成二十二年一月一日号)と、御指南なされ、慈悲を根本に折伏していく大事を御示しであります。

 「折伏前進の年」も早三カ月半、今月は立宗会の月でもあります。宗旨建立以来、〝一切衆生の口に妙法を入れる〟という大聖人様の大慈大悲のお振る舞いを拝し、私たちも一人でも多くの人に、この妙法を唱えさせるべく折伏に立ち上がりましょう。そして諸天の加護のもと、あらゆる障魔に打ち勝ち必ず誓願を成就していく、これを強く決意いたしましょう。総本山においては、夏期講習会が始まります。講習会ではもったいなくも御法主上人猊下より、直々に甚深の御講義を賜ることができます。これは、私たち法華講員が、真の日蓮正宗の信徒として、信行を磨き、成長できるようにとの大慈悲であると確信いたします。講習会では、一言も聞き漏らすまいとの決意で、勇んで参加してまいりましょう。そして、その成果を折伏・再折伏に存分に発揮し、諸天の御加護を確信し、御報恩謝徳の信心を貫いていこうではありませんか。

□住職より

 新年度を迎え、何かと心機一転して新たなる志のもと、勇猛果敢に精進すべき時を迎えました。しかしながら、未だ新型コロナウイルスをはじめ、あらゆる疫病の災禍や大地震が日本乃至世界各地で頻発し、更に皆様一人ひとりにとっても、大事な節目の時を迎えていることと存じます。どうか万難を排して、あらゆることを好転、善転させて行くべき時であると感じて頂き、大聖人様が『開目抄』に、「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし」との御教示を胸に、朝夕の勤行や不断の唱題行の功徳利益をもって、勇躍前進して頂きたいと願います。
 私たちが日々信心修行に励むなかでも、無始已来の邪宗謗法の罪障消滅のため、宿業打開のため、時にはあらゆる諸難困難の障礙が、私たちの前に厳然として立ちはだかることがあると思います。しかし、この『開目抄』の御文を忘れずに、どこまでも御本尊様の不可思議偉大なる仏力法力を確信して、大聖人様が『弥源太殿御返事』に、「日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を期し給へ。ぜにと云ふものは用にしたがって変ずるなり。法華経も亦復是くの如し。やみには灯となり、渡りには舟となり、或は水ともなり、或は火ともなり給ふなり。若し然らば法華経は現世安隠・後生善処の御経なり(中略)能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあかなくして所願を成就し給へ」との如く、皆様の弛まざる信力行力により、御本尊様が必ず皆様の所願を成就して下さることを肝に銘じて、より一層信行倍増福徳増進に努めて頂きたいと念願してやみません。
 今月は、宗祖日蓮大聖人様が建長五年四月二十八日、清澄寺において南無妙法蓮華経のお題目を唱え始められ、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四箇の格言をもって、全民衆に対して末法唯一無二の正法正義の御化導を開始され、宗旨の建立をされて以来七百七十二年目の月日を迎えます。爾来大聖人様は、邪宗謗法の徒輩による迫害・法難を被りつつも、そのすべてを打ち払い、ただ一心に世の人々の一生成仏、現世安穏・後生善処、そして広宣流布を願われてこられました。
 どうか私たちも、大聖人様の御意に適った信行の実践を心掛け、「広布を願わざる者、大聖人様の弟子檀越に非らず」との気概をもって、いよいよ「折伏前進の年」の残すべき日々を下種・折伏に奔走し、その功徳利益をもって、皆様一人ひとりが大きく境涯を開く一年にして頂きたいとお祈り申し上げます。