〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ⑥貞明皇太后様 〜

貞明皇太后様

折伏行の歓び 長倉日延御尊能化

 皆様こんにちは、お元気にお過ごしの事と存じます。
 今年の桜前線は札幌にも本当に速く到着いたしました。日正寺境内では今を盛りに桜・梅が咲き誇っております。
 さて、私は学生時代、昭和三十四年の暮れから東京オリンピックのあった昭和三十九年の三月まで、東京・池袋の常在寺に在勤しておりました。
 

 その間、私の師匠でもあり、時の住職であった本種院日成上人のお伴をして、信者さんのお宅へお経に伺うことがありました。
 或る日のことであります。都内の松平さんというお宅へお伺いしたことがありました。閑静な住宅街で、玄関口には、たしか笹竹のような植え込みがある、慎ましやかなお家であったことを記憶しております。控えの間に通されまして、お抹茶のご接待を受けました。始めての経験でしたものですから、所作をどうしたらよいものか、解らずに、ただ隣の席の師匠の手順通りに真似て戴きました。とにかく緊張して冷や汗で一杯でした。

 その法要の席に、同席されていたお一人に、白い帽子を被ったご婦人がおりました。その方が、昭和天皇の弟の奥様であった秩父宮妃勢津子様だったのです。お伺いした松平家は、秩父宮妃殿下のご実家だったのであります。

 私は後日、松平家が入信されへ天皇家に及ぶ折伏をされるその発端となったのは、同じ常在寺のご信徒であった市石喜代治さんであると解った時には、〝何でご本人より直接当時の状況をお伺いしなかったのか〟と悔やまれました。

 私がお会いした当時の市石さんは、お寺へよく参詣されており、体のがっしりした少々大柄で何か朴訥ぼくとつな感じのする方であったと記憶しております。

 市石さんは青年時代、神田の書店に勤める店員だったそうです。当時の御住職の御指導のもとに〝何とかして一人でも折伏を〟と店に来るお客をつかまえては、折伏を展開していたそうです。

 偶々たまたま出会った客の一人に、北条彜つね子さんという方がおられました。

「何か為になる宗教の本はありますか」と尋ねたそうであります。すると市石さんは、即座に「本当の宗教を知りたいなら。日蓮正宗の本が一番です。」と答えたそうです。この一言がきっかけとなって、本宗へ入信することができたのです。
 この方は、元貴族員議員であった北条雋八しゅんぱち氏の実姉であります。北条家は大聖人様に敵対した鎌倉北条家の子孫であります。
 或る日、北条さんが常在寺に参詣してこられた折のことであります。
「北条家は大聖人様に敵対した罪障の深い家柄なので、一生懸命信心させて戴いて、罪障消滅させて戴かなければいけないのです。」
と、気さくに所化の私に語って下さいました。

 お話は戻りますが、市石さんはこの北条彜子さんをとうとう折伏したのであります。北条さんは華族の出身で、本宗に入信以来、法華講員としてひたすら御法を求めて熱心に信心をした方であります。

 総本山第六十七世御隠尊日顕上人猊下は『富士の法統』という書物で対談中、お若い頃、常在寺に在勤していた当時の追憶談を述べられておられます。次のような御言葉が掲載されてありました。御案内申し上げます。

「当時、常在寺の御信徒に北条彜子さんという方がいて、この方は創価学会の四代会長であった北条浩氏のおばさんに当たる方でした。北条彜子さんは、当然今の学会のような考え方ではなくて、いろいろと縁のある方を折伏されていました。その中に松平信子さんという方もいらっしやいました。この方は松平宮内大臣の奥様だった人です。因みにこのお二方の戒名は、総本山の大過去帳に入っていて、私が丑寅勤行の時にいつもご回向させていただいております。その他、伊達さん、姉小路さん…(中略)…そのように、女の人が中心でしたが当時の華族の方々が随分と常在寺の信徒として信心をしていまして、これらの方は、みな最初は師匠の所に来ていたのです。これらの方がお参りに来られますと、当然私たちがお茶をお出ししたりするのですが、この北条彜子さんは大変に熱心な方で、お参りに来られると師匠にいろいろと御法門の質問をされていました。」(「富士の法統」一〇頁)

と記されております。

 御隠尊猊下のお言葉にもございますこの松平家は白虎隊で有名な会津藩主であった松平容保かたもり公の御子息である松平恒雄氏のお宅でありました。北条彜子さんは、この松平恒雄氏の奥様である松平信子さんを折伏されたのであります。
 入信された信子夫人は、正しい信仰を知った喜び押さえがたく、友人や縁者に大聖人の御法を語り、その思いは、大正天皇の后であり、昭和天皇の母君である貞明皇后の入信に及んだのであります。
 何と市石青年の折伏の一言がどんどん発展していって、とうとう天皇家に御本尊様が御安置されることになったのであります。
 総本山第六十二世日恭上人お認したための常住御本尊様が、秩父宮殿下御夫妻と、貞明皇后へ御下附されたのであります。市石青年の折伏により入信された北条彜子さん、そして北条さんの折伏による松平信子さんお二方の信仰体験談が残されておりますので御紹介致します。

 最初に北条彜子さんは 「私がたまたま宗教の門に入りまして以来顧みますれば、種々なる邪教にふみ迷い、最後身延の日蓮宗一致派に入信しました。爾来じらい私は、信仰上一抹の疑念を抱きながらも、ひたすら題目を続けて来ました結果、遂に大きな罰をうけ、身心共に大不幸の境遇に陥りました。然るに鳴呼ああ何たる幸さいわいなるかな其際そのさい日蓮正宗の一信徒より熱烈なる折伏をうけ大聖人御出世の本懐たる三大秘法の南無妙法蓮華経の大御本尊にまみえ奉り、我が身の本来の真相をはっきり知ることが出来まして、今迄いままで永い間の迷いの根本が、天日の下に氷解ひょうかいして以来、感激の日々を送ると共に邪宗折伏に専念して居ます。かくて私はかかる広大な仏恩に報い奉るは、此この大白法を皇室におすゝめする一事にありと思って居りました処、ある御縁で。故貞明皇后様へ本宗の常住御本尊を総本山より常在寺を経て御感得になりまして爾来皇太后様は本宗の余宗に最もすぐれて居る点を御信じになり、日夜皇室の御爲に厚き信仰を御持ちになり昨年崩御の時まで御精進遊ばされたのであります。今や本尊流布の時に当たって私は信徒一統と共に異体同心、国の謗法を退治して、立正安国の聖意実現の日近かれと只管ひたすら折伏教化の使命に邁進して居ります」と談話をされています。

 それでは次に松平信子さんの体験談には「宗祖日蓮大聖人立宗七百年にあたる本年に、吾国わがくに独立といふ二つの記念すべき事は何か大いに意義深い事に思はれます。信仰の道を歩む我々は常以上の大奮発と決心をひるがえすべき時と存じます。抑そもそも大聖人の御教みおしえに、人と生まれて国王の大恩、父母の重恩に奉謝するこそ日本仏法の本義であると仰おおせられました。この謝徳の心を朝夕に忘れぬ人こそ信仰そのものと思ひます。信仰は理屈ではない、誠の心そのものであります。とかく信仰と生活とは、はなれたものの如く考える人がありますが、それは宗教の根本を知らぬ人の考え方であります。又よく解わかったならば信仰しましようといふ人がありますが、これは学問に重きをおく人であって、信じようと精進するこそ信仰生活の態度であると思ひます。人生百年足らずの間、苦楽の波にのせられ戦いつづけるのがあたりまえで、その時々に不満不平は、はてしなく実に恥ずかしい姿さえあらはすものであります。その時に忍べよ。磨けよ、喜べよと教えて下さる大聖人の御慈悲の尊さをうけ入れらるる身こそ信仰の生活であって、その時に人生の幸福を感じ得るのであると思います。信ずるのは、何もむづかしい事ではなく、丁度赤ん坊が母の乳にすがるその心で、つまり疑はず安然と信じるその心であります。信仰に上下の差別は絶対ありません。よく御題目を唱える事をはばかる人さえ見えますが、これは食べずぎらいの感があって知らぬものこそ気の毒の外ありません。昨年崩御になりました貞明皇后は、常に宮中の御儀式をかたく守られたかたわら、戦時中特別に御本山大石寺より御感得になりました御本尊に対し、日々両陛下御始め御直宮じきみや方の御爲に御信仰になりました事は真に親心のおうつ美くしさを示された事で正宗の信者として、此上の心強さはない事と有難く思います。今やこの偉大なる正法を信ずる我々は感恩報恩の心を以て宗祖大聖人の御本懐広宣流布の御手伝いをいたさねばならぬと思ひます」とございます。
 以上、法華講員皆様の先輩であるお二方の信仰体験を、ご紹介させて戴きました。

 宗祖日蓮大聖人は、『種々御振舞御書』に、
法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし。 と仰せでございます。「本当の宗教を知りたいのなら日蓮正宗の本が一番です。」と答えた青年店員の一言が北条彜子さんの入信そして学友である松平信子さんへの入信となり、大正天皇の后であり、昭和天皇の母君である貞明皇后の入信へと御縁が結ばれたのであります。

 総本山第六十二世日恭上人より常住御本尊を下附された貞明皇后は戦争の最中、常に読経唱題して、日本国民の安泰と、わが子昭和天皇と可愛い孫、現在の天皇陛下である明仁親王の御無事を御祈念されておられたのであります。貞明皇后崩御の後、常住御本尊様は貞明皇后の命により常在寺に松平信子さんより御奉納遊ばされました。

総本山第五十九世日亨上人の御添書によりますと、
「貞明皇后奉安大宮御所の御本尊(日恭上人御写し・昭和十六年八月)御薨去こうきょ後皇后陛下の命に従い奉り松平信子夫人常在寺へ納めらる、又御守おまもり御本尊は皇后陛下の旨に従い皇太子殿下に賜はらる云々 昭和廿六年七月廿五日記之  畑毛 日亨花押」

と認めてあります。ですから貞明皇后が御所持でありました御守御本尊様は御感得の上、現、天皇陛下に賜られたと認められてあります。私達の日頃の折伏行にとって学ぶ点があると存じ、近年における本宗布教活動の歴史の一面としで御紹介申し上げました。