御会式・布教講演②

 皆様、こんにちは。本日は仏寿寺様の御会式奉修、誠におめでとうございます。
 本年『折伏躍進の年』も、残すところあと二ヶ月余りとなり、折伏誓願目標完遂の為、日夜、東奔西走御精進のなか、このように色鮮やかな桜の花々に飾られた御宝前にて、皆様方一人ひとりが、宗祖日蓮大聖人様に御報恩申し上げ、更に本年度の折伏誓願目標成就をお祈り申し上げられたことと存じます。
 さて、本日は御命によりまして、布教講演させて頂くことになり、『新たなる御命題に向かって、今こそ信心の原点回帰を』と題しまして、少々お話をさせて頂きます。
 大聖人様は、『立正安国論』に、「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」と仰せであり、また『阿仏房尼御前御返事』には、「いふといはざるとの重罪免れ難し。云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり」と仰せであります。
 私たちが自行化他の信心に住し、折伏行を実践していくことは、この上ない大慈悲行であり、広宣流布大願成就の為、また大聖人様が『立正安国論』に、「盲瞽(もうこ)の輩、迷惑の人、妄りに邪説を信じて正教を弁へず。故に天下世上諸仏衆経に於て、捨離の心を生じて擁護の志無し。仍って善神聖人国を捨て所を去る。是(ここ)を以て悪鬼外道災を成し難を致すなり」と仰せの如く、天変地夭とも言える自然災害や、各種の事件事故の頻発が年々度を増す、今日の五濁乱漫の様相を呈する社会の浄化矯正の為、そして何よりも、より多くの人々がこの正法に帰依せられ、互いに一人ひとりが合わせ持つ、貪欲・嗔恚・愚癡の三毒を離れ、煩悩即菩提、迷いの無い慈悲深く尊い境界を構築し、与えられた人生を有意義かつ妙法の功徳利益に溢れた日々の生活をお送り頂くことができるよう折伏逆化に精進しなさいとの御遺命として、一天四海皆帰妙法、すなわち広宣流布を願われた大聖人様より私達に課せられた使命であり、また、自らの境界を高め命を磨く私たちの信心修行の一幹でもあります。
 御法主日如上人猊下は、「折伏に当たって我々は、本当に相手を思う慈悲の心を持っているか。また、いかなる悪口罵詈・非難中傷・迫害にも屈せず、いかなる逆境でも乗りきっていく決意を持っているかどうか。一切の執着に執われず、不自惜身命の断固たる決意をもって折伏を実践しているかどうか。もし、折伏が思うようにならないというなら、今一度、この三軌に照らして自らの信心、自行化他の信心の在り方を点検すべきであります」と、法華経法師品に説かれる「衣座室の三軌」を挙げられ、私達が御命題達成に向けて、折伏に臨むべき姿についてを御指南されております。
 この御指南にありますように、折伏を行じていく中で必要なことは、慈悲の心であります。本当に相手を思う慈悲の気持ちがあるでしょうか。こころの底から慈悲の心が湧き起こり、功徳善根を感じ、その実証を毎日の生活に顕すことのできるような真剣な唱題行を日々怠りなく行じ、周囲の方々から慕われ頼りにされ、愛される境界、人格を具えることができているでしょうか。
 平成三十三年の大佳節に向けての二年目の本年、私たちは今一度自らの信心姿勢、日頃の日常生活における身口意三業の行業において、我意我見のない素直で謙虚実直なものであるかどうか、御自身が信心するに至った経緯や今までの信仰生活を省みて頂き、決して簡単ではない新たなる御命題成就へ向けて、自らの信仰の意識改革、原点回帰を行うことが肝要であります。
 また、当然のことながら、末法において唯一無二の正法を受持信行している私たちは、日頃の日常生活における身口意の三業による所作振る舞い発言は、大聖人様の御意にかなった、それ相応のものでなければなりません。
 ですから、全ての物事を信心の上から拝すること、そして信心を中心にした日常の生活を心がけることが大事大切であります。
仏教説話のなかに、「塞翁(さいおう)が馬」という話があります。「塞翁(さいおう)」の「塞」とは、城や城のかべ、とりでのことで、「翁」とは年取った男の人のことあります。
 むかし中国の北の国(こつ)境(きよう)の村に、家族は一人息子と一頭の馬だけの老人が住んでいました。しかし、村人たちはみな、このおじいさんに親切でありましたので、少しも寂(さび)しくはありませんでした。
 そして、村の北にあるとりでの向こうには胡(こ)という国が広がっており、その国は名(めい)馬(ば)の出産地として有名でした。
 ある日のこと、飼っていた馬がさくを乗り越えて逃げ出してしまい、更に国境をこえて胡の国に行ってしまいました。国境を越えてしまっては、さすがにさがしにいくこともできません。馬がいないと農作業をするにも大変で、当然生活も苦しくなってしまいます。
 村人たちは、「このたびは残念なことでしたね。力を落とさず何か困ったことがあったら、できるだけのことはしますから頑(がん)張(は)ってくださいね」とはげましました。
 すると、おじいさんは「なんのなんの、このことが幸せの原因にならないとは限りませんよ」と答えました。
 それからは、息子が馬の分まで必死に働きました。こうして数ヶ月がたったある日、逃げ出した馬が胡の国の立派な馬の群れをつれて戻(もど)って来ました。村人たちは、「よかったね。これで楽になるね」と言いました。
 するとおじいさんは、「なんのなんの、これが不幸の原因にならないとは限りませんよ」と言いました。村人たちは少しうらやましく思っていたので、「素直に喜べばいいのに」と思う人もいました。
 それから一ヶ月もしないうちに、乗馬好きの息子が胡の国からやってきた馬に乗って楽しんでいましたが、馬から落ちて足を折ってしまい、びっこをひいて歩くようになってしまいました。村人たちは「大変な災難だったね。大事にしてくださいよ」とお見舞いに来ました。するとおじいさんは、「なんのなんの、このことで幸せにならないとは限りませんよ」と言いました。村人たちは、おじいさんは、落ち込まないでえらいとか、頑固な人だと思いました。
 息子はびっこをひいても仕事はできます。それに胡の国から来た馬たちのおかげで馬の牧場ができたので、以前にくらべるとずいぶん楽な生活になっていきました。
 それから一年後のこと、突如、となりの胡の国との間で戦争が始まりました。軍人だけでは兵士が足りないので、村の若い人たちは戦争にかり出されました。ところがおじいさんの息子だけは、足が悪いために兵隊にはなりませんでした。兵隊となった、村の若い人たちはみな、戦争で死んでしまいましたが、おじいさんの息子だけは戦死することなく、長生きすることができました。
 おじいさんの言った通り、馬から落ちてケガをしたことが幸いしたのです。
 中国でも日本でも、この話を「人(にん)間(げん)万(ばん)事(じ) 塞(さい)翁(おう)が馬(うま)」と言います。人間とは世の中のことを言っています。この世の中、不幸なことが幸せの原因となり、幸せなことが不幸の原因になるかもしれない、未来の予測とは私たちには簡単にできないということであり、また、本来「塞翁が馬」の話には、幸せも不幸も予測できないものであるから、簡単に喜んだり悲しんだりするものではない、少々のことで、一喜一憂してはいけないという意味もあります。
 私たちの人生には常に喜(よろこ)びや怒(いか)り、哀(かな)しみや楽しみがつきものでありますから、そうしたことにいちいち心が動かされれば、本来目指すべき境界を見失いがちになり、ややもすれば、自ら身を滅ぼしかねないこともあります。
 大聖人さまはこのことを『四(し)条(じよう)金(きん)吾(ご)殿(どの)御(ご)返(へん)事(じ)』に、「賢(けん)人(じん)は八(はつ)風(ぷう)と申して八(やつ)のかぜにをかされぬを賢人とは申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。此の八風におかされぬ人をば必ず天はまほらせ給(たま)ふなり」と仰せになっています。
 「利(うるおい)」とは、あらゆることが自分の思い通りになること。「衰(おとろえ)」とは、物事が思うままにならず、福徳を失うこと。「毀(やぶれ)」とは、知らないところで悪く思われること。「誉(ほまれ)」とは、知らないところで誉められていること。「称(たたえ)」とは、目の前で多くの人から誉め称えられること。「譏(そしり)」とは、目の前で人から悪くいわれること。「苦(くるしみ)」とは、悩み苦しみ、辛くたえがたいこと。「楽(たのしみ)」とは、本来の楽しみを忘れ、目の前の楽しみにおぼれるてしまうことです。
 ですから、この八風に犯されないよう、毎日の勤行、唱題の功徳と、我が身を省みる素直で謙虚で正直な姿が肝要なのであります。
また中国の『鶴(かく)林(りん)玉(ぎよく)露(ろ)』という書物には、『水滴石を穿つ』という話があります。この話を少々申し上げますと、
 中国の宋(そう)の時代に張(ちよう)乖(かい)崖(がい)という崇(すう)陽(よう)県(けん)の県(けん)令がいました。 
 ある日県令が役所の中をみまわっていると、一人の役人が倉庫からでてきました。頭の頭巾を手でおさえ、あたりをキョロキョロとみまわしながら何となく落ち着かない行動に、県令は不審に思いました。県令は「ちょっと待ちなさい。きみ、その頭の頭巾を見せなさい」と役人に言い、「はい、なんでしょうか。ちょっと頭痛がするものですから」と、役人はしかたなく手をはなしました。するとチャリンと一銭玉がこぼれ落ちました。実はこの役人は何回も頭巾に一銭玉を隠して盗んでいたのでした。すぐに役人は捕らえられ、むち打ちの刑に処されます。もう二度と悪いことをしないように百回たたかれました。
 するとその役人は、素直に反省するどころか、逆に開きなおり、「たかが一銭じゃないか。たたくならたたけ。しかし一銭では命まで取ることはできまい」と、ふてぶてしく言ったのです。
 これを聞いた県令は、「一日一銭なら千日で千銭になる。縄(じよう)鋸(きよ)木を断(た)ち、水(すい)滴(てき)石を穿(うが)つと言うではないか」と??(しか)り、役人を死罪の刑に処しました。
 一銭を盗んだだけでは大した罪にはなりませんが、千日盗めば千銭になるわけです。だから県令は反省のない役人を厳しい罰に処したのでした。小さな金額といっても泥(どろ)棒(ぼう)に違(ちが)いはないのです。ですから県令は悪事を続けないように、他の人に対しての戒(いまし)めのためにも、役人をあえて死罪にしました。これは、少しくらいはいいだろうとする悪(あく)事(じ)に対する戒めです。
 さて、「縄(じよう)鋸(きよ)木を断(た)つ」とは、縄(なわ)が鋸(のこぎり)の役目をするということです。若木の枝を縄で強くしばっていると、木は毎年少しずつ大きくなりますが、縄でしばったところだけは成長することなく元の細いままです。そして、数年すると鋸で切らなくても、縄でしばったところは自然と折れてしまうのです。これは、同じところを長い間しばり続けると、そこから先に養分が行かなくなって枯れてしまうからです。
 次に「水(すい)滴(てき)石を穿(うが)つ」というのは、「雨(あま)垂(だ)れ石を穿つ」とも「点(てん)滴(てき)石を穿つ」ともいいます。穿(うが)つとは、穴を開けるということです。
 水滴や雨垂れが同じところに繰(く)り返(かえ)し繰り返し落ち続けることで、硬い大きな石にも穴を開けることができるのです。ポタポタと落ちる水滴は痛くもかゆくもありませんが、長い間の継続の力は、石にまで穴を開けてしまう力があります。
 そして「水滴石を穿つ」というのは、水だけを言うのではなく、その意味は、どんなに小さな力でも、あきらめないで辛抱強く、根気強く努力し続ければ、大事を成すことができる、成功することができるという譬えであり、「継続は力なり」という言葉がありますように、同じ事を何度も繰り返す、やり続けるということが大事なのであります。
 このことは、私たちの信心にも同じことが言えます。今日は二時間唱題したから二、三日はしなくてもいいとか。勤行も朝晩二回するのは大変だから一日一回でいいとか、土日は学校や会社が休みだから勤行も休もうということはありません。
 同じことを毎日繰り返し行うことによって、継続する力と忍耐力、生命力が自然と強くなります。
 決められたことを毎日繰り返して行うことは、決して簡単安易なことではありません。毎日朝晩の勤行をするにも、体が元気な時も疲(つか)れてくたくたな時も、眠たいときでも、休まず毎日続けていくことが、殊に大事大切なのであります。
 ですから、大聖人様は「月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せです。これは、「毎日毎日強い心で行動しなさい。少しでも油断してなまける心があれば、必ず魔のはたらきがあなたの信心の姿をこわし、不幸にされますよ」という意味であります。要するに、毎日の朝晩の勤行と唱題をしっかりと続けていきなさい、と教訓なされているのであります。     御隠尊日顕上人猊下は、「仏教の教えにおいては、特に行ということが示されておりまして、もちろん信ずる心が大切ではありますが、実際その信の姿を自らの身体に表していくというところに、おのずから大きな功徳が存するのであります」と御指南されており、また「皆様方が御承知のとおり、あらゆる宗教のなかで、唯一、我々が救われる道は日蓮正宗に伝わるところの日蓮大聖人様の三大秘法に帰することであります。しかし、この御法は自らが信心するとともに他に向かって説いていくという、自行化他にわたっての行が大事であります。南無妙法蓮華経と唱えることによって、たとえ御法門が解らなくとも、生活のなかに充実した妙法の功徳をおのずと感じてまいります」と仰せであり、また「一つのポイントがあるのです。すなわち、身命を捨てて法のために生きようという信心と決意であります。この中心がはっきりあると、そこからずれていくことがないと思うのですが、このポイントがずれておると、一生懸命やっているつもりでもなかなかうまくいかないし、また、そのうまくいかない原因も判らないのであります。こういうことからも唱題が大事なのです」と仰せになられています。
 この、唱題に唱題を重ね継続することによって、大聖人様が『呵責謗法滅罪抄』に「何なる世の乱れにも、各々をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」、また『本尊供養御書』には「玉泉に入りぬる木は瑠(る)璃(り)と成る。大海に入りぬる水は皆鹹(しおはゆ)し。須弥山に近づく鳥は金色となるなり。阿伽陀薬は毒を薬となす。法華経の不思議も又是くの如し。凡夫を仏に成し給ふ。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり山の芋はうなぎとなる。世間の不思議以て是くの如し。何に況んや法華経の御力をや」と御教示されます通り、今日の世相を憂い厭うならば、その思いを折伏への尊い志に転じ、深い慈悲の境界に至るまで真剣な唱題に励む時、不可思議な折伏の因縁が必ず生ずることを確信して頂きたく存じます。
 そして、こうした信行の実践に励めば自ずとその福徳により崇高な境界を築き、無始已来の罪障を消滅し、宿業転換していく大きな功徳利益の実証があり、世間の垢に染まることの無い、尊い価値ある人生を全うすることができるのであります。
 最後に、大聖人様の「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」との御金言を深く心肝に染め、ただ偏に、冥の照覧と諸天の御加護を確信し、皆さまには、本年『折伏躍進の年』の折伏戦に必ず勝利し、平成三十三年宗祖日蓮大聖人御聖誕八〇〇年の大佳節に向けて、仏寿寺様の更なる御興隆御発展と、皆様方の更なる御精進と御健勝をお祈り申し上げ、本日の話とさせて頂きます。 
 御静聴、誠にありがとうございました。