御会式・布教講演③

 皆さんこんにちは。妙眞寺の平山信憲でございます。本日は、宗祖日蓮大聖人御会式奉修、誠におめでとうございます。
 本年『勇躍前進の年』も、残すところあと二ヶ月余りとなりました。○○寺支部の皆様には、どうか残りの日々を折伏誓願目標完遂に向かって、全力を傾注した頂きたいと念願致します。
 此の度皆様御承知のとおり、先月、九月二十日、前御法主総本山第六十七世日顕上人が世寿九十六歳の御生涯を全うされ、安祥にして御遷化遊ばされました。日顕上人の二十七年間に亘る御事蹟は、現在の顕正会問題、正信会問題、そして創価学会問題と、数々の問題を厳正に対処され、宗内全僧俗を正しく御教導されてきました。日顕上人の御指南には、「法界の運行は全てが御仏智である。常に御仏智を拝すべし」、「凡(あら)ゆることに拘わってはならない」、「何事も執われないことが大事である。特に自分に対して執着してはならぬ。我執を破せ」とあります。また、日顕上人の御母堂、宗門最後の尼僧であります妙修房日成大徳の御遺訓に、「我に名も無し、位もなし、道の端の雑草に似たれども、踏まれてもまた踏まれても恵みの露と、太陽の幸を受けて、起き上がる生命のありがたさ、妙法の慈愛の中に、我が命を感じぬ」とあります。
 今、私たちは妙法の慈愛の中に我が命を感じつつ、我執を廃し、日顕上人が我々弟子によく御指南遊ばされた「正直であれ」とのお言葉、つまり御授戒文にもあります「不妄語戒」を堅く持ち、日顕上人の御高徳に万分が一でも報恩感謝致すべく、我意我見を捨て去り、心より広布前進を願って折伏弘教に精進して参ることが肝要であります。
 さて本日は、『今こそ信心の原点回帰を』と題しまして、お釈迦様在世の『末利夫人』という方の話をさせて頂きたいと思います。
 お釈迦様御在世当時、インドの舎衛国の首都、舍衞城に、耶若達(やにゃだつ)という大富豪のバラモンがおり、あまりあるほどの財産や、広大な土地をもっておりました。この耶若達には、一人の召し使いがおり、その名を黄頭(おうず)といいました。耶若達は黄頭に末利園(まりおん)という花園を管理させていました。末利とはジャスミンの一種であります。
 ある日、黄頭は「いつかは、この召し使いの身分から解放されたい」と溜め息をつき、独り言をつぶやきながら、いつものように粗末な干し飯の弁当を持って末利園に向かいました。この時、ちょうど末利園の近くをお釈迦様がお通りになりました。黄頭はお釈迦様とは知らず、お釈迦様を見て「私は今、この僧侶に私の弁当を御供養して、その功徳をもって、なんとか召し使いの身分から解放して頂きたいものである」と思って、僧侶に自分の弁当を御供養したのであります。お釈迦様は、その御供養を快く受けられ、滞在している祇園精舎に帰られました。
 この日は丁度、この国の王様である波斯匿王が、お供を連れて狩りに出かけておりました。またこの日は、大変暑く、波斯匿王は非常に疲れ、少々休もうと末利園に向かいました。
 自分の国の国王さえも知らない黄頭は、波斯匿王が末利園に入ってくるのを見て、「とても高貴な方がこちらにいらっしゃる」と思いました。そして、園から外に出て、その高貴な方を出迎え、「どうぞ、こちらにお座り下さい」と言って、自分の着ていた服を一枚脱ぎ、それを敷いて、そこに座ってもらいました。
 黄頭は「足が汚れているようですが、足を洗いましょうか」と尋ねると、波斯匿王は「そうしたい」と言い、黄頭は、温かい水を汲んできて、波斯匿王の足を洗い、きれいに拭いてさしあげました。更に黄頭は、「たいへん汗をかかれたようですが、お顔を洗いましょうか」と尋ねると、「ぜひ洗いたい」と言い、黄頭は再び温かい水を汲んできて顔を洗って頂きました。また、黄頭は「のどが渇いているのではありませんか」と尋ね、波斯匿王は「とても渇いている」と言い、黄頭は冷たい水を汲んできて、差し出し、波斯匿王は喜んで飲み干しました。黄頭は、着ていた服をさらに一枚脱いで、それを敷き「少し横になって休まれたらいかがでしょうか」といいました。すると、波斯匿王は「それでは少し休ませてもうらおう」と言い、横になりました。その間、黄頭は波斯匿王の疲労を取り除くよう、足や関節をもんで差し上げました。
 波斯匿王は「なんとすばらしい女性であろうか。まるで天女のようではないか。このように、私の思っていることを言わないのに、ことごとくかなえてくれる聡明な女性に、今まで巡り値ったことがない」と思いました。
 そして、黄頭に「そなたは、どこの娘であるか」と尋ねました。黄頭は「私は、耶若達様の召し使いであります。耶若達様より、この末利園の管理を任されております」と答えました。
 波斯匿王は、家来に命じて、耶若達を呼びに行かせ、耶若達が来ると、波斯匿王は「この女性を后に迎えたい。そなたはどのように思う」と尋ねました。耶若達は「あの女は召し使いの身分です。そのような女が、大王様のお后様になれるはずがありません」と答えました。波斯匿王は「そのような、身分のことなどは関係ない。この女性の価値を言ってくれ」と言いました。耶若達は「価値は十万両ですが、大王様からお金は頂けません。どうぞ、献上いたします」と言いました。波斯匿王は「私の后に迎えるのだ。どうして、ただで頂けようか」と言って、十万両のお金を与えて黄頭をもらい受け、自分の后として迎え入れたのであります。
 黄頭はこの時、初めて自分の接待していた男性が、波斯匿王であることを知りました。
 黄頭は末利園から来たので、「末利夫人」と呼ばれるようになりました。末利夫人は王妃として恥ずかしくないよう、書画、数学や音楽等、あらゆる学問、所作振る舞いを習い極め、努力の結果、学べるものは全て習い尽くしました。
 そして、ある日「私はどのような因縁があって、召し使いの身分から今のような身分になれたのであろうか」と考えました。
 考えた結果、「波斯匿王にお会いする前に、僧侶に自分の干し飯の弁当を御供養した因縁によって、今の身分になれたのだ」と直感し、末利夫人は自分の家来達に、僧侶の特徴を言って「このような僧侶が、この舍衞城にいらっしゃいますか」と尋ねました。すると家来達は「いらっしゃいます。その方は、お釈迦様です」と答えました。
 末利夫人は、波斯匿王の許可を得てお釈迦様のいらっしゃる祇園精舎へと向かいました。そこで、お釈迦様の立派なお姿を見て、歓喜し合掌礼拝しました。
 そして、末利夫人はお釈迦様に「同じ女性に生まれて、顔の美しい人もいれば、そうではない人もいます。豊かな人もいれば、貧しい人もいます。人から尊敬される人もいれば、軽蔑される人もいます、これは、どういうわけでしょうか」と尋ねました。
 お釈迦様は「女性がいて、瞋りの心を懐き、それを口に出したり、行動に移して、人を悩ませ、苦しめ、喜んだとします。その女性は、顔が醜くなります。瞋りの心を懐かない女性は、顔が美しくなります。女性がいて、僧侶や貧しい人・孤独な人を見て、御供養や人助けをする女性は、豊かな身となりますが、御供養や人助けをしない女性は貧しい人となります。女性がいて、誰かが利益を得たのを見て、嫉妬の心を起こしたとします。その女性は人から軽蔑されます。嫉妬の心を起こさない人は、人から尊敬されます」と答えました。
 末利夫人は、更にお釈迦様の御説法を聞いて非常に歓喜し、仏法僧の三宝に帰依することをお釈迦様にお誓い申し上げ、舍衞城に戻りました。そして、夫の波斯匿王に、熱心に仏法を説き、その結果、この夫婦はお釈迦様の強盛な信徒になったということです。
 末利夫人の妹の韋提希夫人は、インド一の大国、マカダ国の頻婆娑羅王に嫁ぎ、このご夫婦もお釈迦様の強盛な信徒となります。また、娘の勝鬘夫人は、阿踰闍国(あゆじゃ)の友称王に嫁ぎ、このご夫婦もお釈迦様の強盛な信徒になったということであります。
 皆さん、いかがでしょうか。黄頭という女性が、召し使いの身分から波斯匿王の王妃となり、夫婦揃ってお釈迦様に帰依するに到ったわけでありますが、その過程で黄頭の、今の境界を脱しようという一念心と、たとえ粗末な干し飯の弁当であっても、僧侶への真心からの尊い御供養の精神、波斯匿王の為に、三度水を捧げましたが、足を洗うための水、顔を洗うための水、飲むための水は、熱めのものが良いか、ぬるめのものがよいか、冷たいものがよいかをよく理解し、機転をきかせた人をもてなす優しい心根が、波斯匿王の心を感動させ、「この女性こそ、わが后になるべき女性であると」と決断させ、黄頭は自らの人生を大きく変えていったのであります。
 私たちは今、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節に向かい、御命題である八十万人体勢構築の為、日夜、折伏育成に奔走されていることと存じますが、大事なことはまず日頃の真剣な唱題行の功徳をもって、自らの境界を高めた上で、世のため人の為、折伏や育成、法統相続、そして毎日の生活に取り組んで行くことであります。
 そのためにはまず、必要不可欠な尊い人格を構築し、信仰者以前に人として倫理道徳に則った日々の発言や所作振る舞いを行っていくことが大切であり、あらゆる方々からの信頼を得て恥ずべき姿がないよう、宗祖日蓮大聖人様が『崇峻天皇御書』に、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」と仰せの如く、また『観心本尊抄』の「天台の云はく「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛んなるを見て池の深きを知る」等云云。妙楽の云はく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云。天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得可きか」との御金言通りに、日蓮正宗の信徒としての誇りと責任を胸に、末利夫人のような、相手に対するおもてなしの心、相手の心に適う身口意三業の行業を行ずべきことを、よくよく銘記して頂きたいところであります。
 また、思うように折伏が成就しない、日々の生活や人間関係仕事面で悩んだり困ったりすることがあったならば、今一度初心に立ち返り、自分自身の境界を変えていくこと、そして与えられた人生をいかに生きていくか、その為にはどのように毎日の生活を送れば良いのかを深く考えて頂きたいと思います。
 例えば、果たして自分は宗祖日蓮大聖人様の仰せの如くに、信心修行に励んでいるかどうか。朝夕の勤行、唱題を欠かさず行じているかどうか。寺院行事に限らず、時間を作って進んで寺院へ参詣しているかどうか。御本尊様への尊い御供養の精神はあるのかどうか。日蓮正宗では常盆常彼岸と言われておりますが、先祖菩提に対して尊敬や感謝の念をもって、心の及ぶほど先祖供養、塔婆供養をしっかりと実践しているかどうか。報恩感謝の意識を以て総本山への登山を弛まず励行しているかどうか等、我が身の信心がいつしか御座形になっていないかどうかを省みてみましょう。
 そして今の自分の人生・状況を変えたいのなら、折伏を成就したいのなら、一家和楽の信心に住したいのなら、その志をもって唱題行に励み、心清らかに尊い境界に自分自身を変えていく必要があると思います。
 大聖人様は『観心本尊抄』に、「数他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貧り現じ、或時は癡か現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄・貧るは餓鬼・癡かは畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし」と仰せになられております。ですから自らの貪瞋痴の三毒煩悩に犯され、三悪道四悪趣の境界に堕することのないよう、そして我が身を滅ぼすことのないよう、かくありたいものです。
 また大聖人様は「月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せです。これは、「毎日毎日強い心で行動しなさい。少しでも油断してなまける心があれば、必ず魔のはたらきがあなたの信心の姿をこわし、不幸にされますよ」という意味であります。要するに、毎日の朝晩の勤行と唱題をしっかりと続けていきなさい、と教訓なされているのであります。     
 日顕上人は、「仏教の教えにおいては、特に行ということが示されておりまして、もちろん信ずる心が大切ではありますが、実際その信の姿を自らの身体に表していくというところに、おのずから大きな功徳が存するのであります」と御指南されており、更に日顕上人は、「一つのポイントがあるのです。すなわち、身命を捨てて法のために生きようという信心と決意であります。この中心がはっきりあると、そこからずれていくことがないと思うのですが、このポイントがずれておると、一生懸命やっているつもりでもなかなかうまくいかないし、また、そのうまくいかない原因も判らないのであります。こういうことからも唱題が大事なのです」と仰せになられています。
 この、唱題に唱題を重ね継続することによって、大聖人様が『呵責謗法滅罪抄』に「何なる世の乱れにも、各々をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」、と御教示されます通り、今日の世相を憂い厭うならば、その思いを信行の実践への尊い志に転じ、深い慈悲の境界に至るまで真剣な唱題に励む時、不可思議な折伏の因縁も必ず生ずることを確信して頂きたく存じます。
 そして、こうした信行の実践に励めば自ずとその福徳により崇高な境界を築き、無始已来の罪障を消滅し、宿業転換していく大きな功徳利益の実証が顕れ、世間の垢に染まることの無い、尊い価値ある人生を全うすることができることを、深く胸中に刻んで頂きたく存じます。
 最後に、大聖人様の「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」との御金言を深く心肝に染め、ただ偏に、冥の照覧と諸天の御加護を確信し、三障四魔の用きに紛動され、足もとをすくわれることのないよう、万難を排して常に謙虚で正直な姿をもって、信行の実践に励んで頂きたいと念願いたします。
 以上、拙いお話ではありましたが、その意とするところをお汲みいただけることを念願し、皆様の御健勝と更なる御精進、寺支部の益々の御興隆御発展を心よりお祈り申し上げ、本日の話を終わらせていただきます。
 ご静聴誠に有り難うございました。