御会式・布教講演①

 本日は、御会式奉修、誠におめでとうございます。仏祖三宝尊様御照覧のもと、このように盛大かつ厳粛に奉修され、平成二十一年へ向かって、皆様方一人ひとりが、色鮮やかな桜によって荘厳された御宝前の御前にて、それぞれ折伏誓願のお誓いをされたことと存じ上げます。
 さて、御住職様より何か話をするようにとの命がございましたので、僭越ではございますが少々御時間を頂戴したいと思います。
 今宗門は、平成二十一年の大佳節に向かい、異体同心・一致団結して、御命題成就に向かって力強く前進しております。
 こうした時にこそ、自分自身の信仰姿勢を、今一度原点に立ち返り、省みて頂くこともまた一つ大事なことではないかと思い、本日は私の話を通じて、御自身の毎日の信仰生活をそれぞれ振り替えって頂きたく思います。
まず私達日蓮正宗の僧俗にとって、唱題行は仏道修行の根本であり、御本尊様に深い祈りを捧げ、唱題行を真剣に行じていくことにより、「必ず何かが変わる、全てが御仏意のままに正しい道へと進ませて頂ける」と確信することが大切であります。
 特に平穏無事な毎日を送っていると、御本尊様に求める心が多少なりとも薄れてしまうのは、五欲に満ち溢れる煩悩渦巻く凡夫であるが故に、当然ありえることであります。
 しかし、そうした安穏なる日々を送ることが出来る時こそ、我が身の福徳を噛み締め、御自身の現当二世に亘る更なる幸福と、法統相続・子孫繁栄、先祖の追善供養に一層精進し、この妙法の教えを必要としている人が必ずどこかにいるはずだと、心から観じて頂くことが肝要であります。
 また逆に、先の見えないような、悩む苦しむ日々にあっては、決して目の前の現実から目をそらさず、あせらずにこつこつと唱題に唱題を重ねていけば、今日より明日、明日より明後日へ、そして未来へと向かって、必ず良い方向へと変えていくことができると固く信じ、「負けず、逃げず、諦めず」に、粘り強く御本尊様に祈っていく姿こそが、境界を限りなく開いていく鍵となるのであります。
 殊に私達凡夫はついつい結果をすぐに求め、しかも自分の思い通りに事が進むことを望んでしまうのが常であります。
 しかしながら、仏様から見ればそれは所詮、悉くはかない凡夫の浅知恵であり、誤った道へと進む原因となり、特に気をつけなければならないことであります。
 確かに私も諸の祈念を勤行乃至唱題の際に致しますが、まずもって祈念することは、「諸事万端相整えさせ給へ」ということであり、要するに御本尊様に全ておまかせ致しますということであります。
 私自身いくら僧侶といえども、所詮皆様と変わらぬ凡夫であり、我意我見が全くないと言ったら嘘になります。ですからこそ、真剣に毎日の唱題行を怠らず続けることにより、何事もなるようになると確信した上で、様々な祈念をしているところであります。
 次に、仏法には依正不二という御法門があります。これは依報と正報が二にして不二であるということであり、報とは過去の行為の因果の報いの意味で、正報とはこの報を受ける主体である私達衆生のこと、依報とは衆生が拠り所とする環境・国土をいいます。
 そして依正不二とはこの依正が人と自然環境という二つに分かれて一応は区別できるが、本来は決して分離できない一体のものであるということであります。
 それ故に大聖人様は『一生成仏抄』に「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せになられています。
 この依正不二の原理からして、世界各地で起こる地震や津波、今回日本各地で多大な被害をもたらした台風、大地震といった天変地夭とも言える自然現象は、明らかに私達衆生の心が汚れているが故に起こるところの果報であります。
 世間では今日起こる様々な天変地夭によって、多くの命と家々が失われ、農作物や家畜等に影響を及ぼし、それによって人の心が荒廃するという解釈も聞きますが、それは仏法の見地からすれば当然誤った考え方であります。そもそも人心が荒廃することは、本来貪・瞋・痴の三毒強盛の末法の人々が、自分の思うまま好き勝手に毎日を生きること、またあらゆる似非宗教の誤った教えを信じることにより起こる謗法行為が原因であり、特に平成の今日、邪教と化した創価学会による一連の大謗法行為は、人々の良心をことごとく破壊し、世の中を混乱の渦に巻き込む不幸の源と言えます。更に邪宗邪教を信じる人達にもたらす謗法の害毒というのは、私達が考える以上に悲惨な結果をもたらすことを認識しなくてはいけません。
 物事には必ず原因と結果が存在します。ですから悪事をすればそれ相応の悪の果報を受ることは当然ですが、知ると知らずとにかかわらず、誤ったものを信じ行ずれば、これまた不幸の果報を受けることを私達は世の為、人の為に訴えていかなけれななりません。
 また、今巷では益々悪質な犯罪が増え、特に最近子供を巻き込んだ悲惨な事件、事故等には、皆様も深く心を傷められていることと思います。
 こうした時節を鑑み、私が御奉公させて頂いている浄徳寺では、「心奮わす唱題行に万感の思いを込め 勇気と思いやりをすべての人に」との標語を平成二十一年の大佳節、乃至広宣流布へ向かっての、浄徳寺の永遠のスローガンとして決めさせて頂き、各講員がこのスローガンのもとで、より一層精進して頂きたいと申し上げております。
 さてこのスローガンの意味でありますが、心を奮い立たせて頂ける御本尊様への唱題行のお題目一遍一遍に、あらゆる思い、願いを込めて真剣に行じて頂き、功徳の実証が溢れる毎日の生活を送り、善悪あらゆることが起こりゆる未来への生きる勇気と希望、煩悩即菩提の果報により、慈悲心溢れる思いやりの心を御本尊様から頂き、まずもって我が身心を荘厳して頂き、尚かつその徳を世間のあらゆる人に弘め伝えて頂きたい、という自行化他に亘る深い意味が込められています。
 しかし、それは決して一朝一夕で適うことではありません。「継続は力なり」とも言いますように、たとえ五分、十分でも、一時間でも二時間でも、毎日しっかりと継続し行っていくことにより、一週間二週間、一ヶ月二ヶ月と経つうちに、必ず自分自身の心に日々変化が生じ、いつしか功徳に満ち溢れ、輝きを放つ自分へと変わっていきます。それこそが不可思議な妙法のお力であり、そうした日蓮大聖人様の甚深なる有り難い信心を、一人でも多くの人、全世界全ての人に弘め伝えていくことが私達の使命であり、責務であることを、このスローガンから汲み取り、毎日の生活の糧として精進して頂きたいということを、浄徳寺では徹底して全講員に自覚して欲しいとの願いのもと、このような標語を思案した次第であります。
 要は、人心の荒廃とその依正不二の用きによる異常気象が日々悪化する今こそ、我が心に自ら妙法の風を吹き起こし、その風に乗って、有意義な毎日の生活をお送り頂くことが肝要であるということであります。
そして大聖人様は「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」と仰せでありますが、御本尊様にお題目を唱える中において「念ずる」ということが、唱題行においてまた一つ大事なことであります。
 例えば、悩み苦しみが湧き起こり、その解決の為であったり、折伏成就の為、または世事においての所願成就の為といった、目標達成に向けて御本尊様に真剣に唱題し御祈念する姿があると思います。
 そうした場合、ただ唱題しなければと思って唱題するよりも、より真剣に、より必死に懈怠なく行うことができるのではないでしょうか。そして、そこにまた自分自身の境界を大きく開くきっかけが、必ず生まれるわけであります。
 特に大聖人様は「南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」と仰せになられておりますが、唱題することによって、常に心が歓喜に満ち溢れる崇高な境界になれるよう精進して頂きたいと思います。
 なぜならば、私達の生命・境界は因縁によって刹那的に転変し、それぞれの境界によって縁するものも変わっていきます。
 要するに自分自身の境界が低く、濁ったものであったならば、低い次元のものに執われ、そうした類のものに縁することとなり、反対に仏道修行の実践により、自身の命を浄化し磨き上げ境界を高めたならば、それ相応の高い次元のものを求め、自身に縁するもの全てが驚く程変化していくのであります。
 それこそが不可思議な妙法の功徳であります。しかし、世の中には悪縁が四方八方に多く潜んでいます。そうした悪縁に縁し、紛動され、悲惨な結果をもたらさないよう、日頃から真剣に仏道修行の実践を心掛け、自身の命をしっかりと浄化し、より高く尊い境界を開いて頂くことが肝要であります。
 次に、そもそもの仏法の理念、何故、私達は日々仏道修行に精進しなければならないのか、ということについてを考えてみたいと思います。
 特に仏法においては、三世の生命と、原因結果の理法が説かれ、過去からのありとあらゆる原因によって、毎日の生活の中にその実証が顕われてくるのであります。更にその中でも私達の命には、十界の生命のもと、あらゆる迷いや欲望を生み出す煩悩が具わっています。
 私達はややもすれば、煩悩の操り人形の如くに毎日を送り、六道輪廻を繰り返してしまいます。しかしながら、そのような六道輪廻のスパイラルを断ち切る力は、御本尊様への信心、すなわち毎日の弛まぬ仏道修行にあり、それこそ過去からの罪障消滅・宿業打開、現当二世に亘っての安穏なる真の幸せを求めるならば、その思いを自らの信心修行に顕していかなかればなりません。
 御本尊様は私達が信じ求める限り、その広大無辺な功徳力により、世間の垢にまみれ、煩悩渦巻く彷徨える私達の毎日の生活を、勇気と希望、ゆとりとやすらぎに満ちあふれる、限り無き崇高な境界へと導いて下さいます。
 ですからこそ、何事も唱題行を根本に真剣にぶつかっていくこと、何か悩み苦しむことがあったならば、ただ何もしないで悔やみ下を向くのではなく、御本尊様に祈れば必ず何かを変えてくれる、あらゆる問題も必ず然るべき道へと導いて頂けると固く信じて、お題目を唱えて頂くことが肝要であります。
 あとは皆様の信心次第であり、その求道心が眠ったままでは、変わるべきものも決して変わりません。
皆様方も今までにこの信心によって、あらゆる体験をされたことと思います。私自身もこれは、という不可思議な現証を体験致し、色々方から驚くべき現証を耳にしました。
 やはり信心していく上において、その功徳を自身の生活の上に実証していくことは、大聖人様の御金言にも「一切は現証にしかず」と仰せのように大切なことであります。
 また毎月の大白法や宗門で出している書籍において、とても信じられないような体験を数多く目にしていると思います。
 繰り返し申し上げますが、私達の生命は十界乃至一念三千の生命が説かれるのが、大聖人様の教えであり、中でも私達凡夫の命には貪・瞋・癡の三毒溢れる煩悩が巣くい、ありとあらゆる迷いの姿、欲望を満たそうとする働きを活発にさせる力が具わっております。
 このような教えのもと、私達は大聖人様仰せの如くに、毎日の勤行唱題はもとより、この妙法の教えを一人でも多くの人に語り伝え、人々の幸せを心底願える人格を構築させることが肝要であります。
 また大聖人様は『妙一尼御前御消息』に、「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を」と仰せであります。
 この大聖人様の御教示、また御隠尊日顕上人猊下の「一切を開く鍵は唱題行にある」との御指南を深く身に体し、妙法の受持信行の功徳は不可思議にして広大無辺の功徳によって、あらゆる悩みや苦しみを乗り越える力が具わっている、ということを確信することがまずもって大切であります。
 そして先ほども申しましたが、何よりも肝心なことは、たとえ先が見えないような困難が我が身を襲ったとしても、ただ悲壮感に打ちひしがれるのではなく、この状況を如何に乗りきるか、どう解決するかという心根、打開すべく頑張ろうとする信心と精神力をもって、全てを御本尊様に祈りきっていくことであります。
 そうした強い信念と実践により、私達は自分自身の過去からの宿業による現当二世に亘る因縁因果を悉く変え、自身の命を磨き上げる姿を掴み取ることができるのであり、それこそが末法の時代における一切衆生救済を願われた大聖人様の御意であり、この真実の理法を広宣流布し、全世界あらゆる国々の人々がこの教えのもとに、真の世界平和を実現させることが、私達本宗僧俗の使命であり責務であると深く胸に刻んで頂きたいと思います。
最後に、最近は格差社会、拝金主義ということがテレビ等でとり上げられていますが、確かに財産は無いよりも有る方がよいでしょう。しかし、その使い道によって自分自身に具わる徳は大きく変わってきます。
 特に仏様に御供養申し上げることにより、計り知れない徳が我が身に具わることは言うまでもありませんが、自身の欲望充足、見栄と虚栄心の為に湯水の如く財産を使い、また財産を成すことに奔走することほど無意味、無利益なものは無く、貪瞋癡の三毒に満ち溢れた行業の果報により、結局は自ら身を滅ぼすこととなることは仏様の教えの上からも明らかであり、皆様もニュース・雑誌等によって、そうした姿を日々目の当たりにしていることと思います。
 やはりそこは仏法を理解し、大聖人様が『崇峻天皇御書』に仰せの「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」との御指南を拝することにより、私達の人生の上で本当に大切なことは何か。積んでいかなければならないものは何かを、充分に考えて頂くことが肝心であります。
 人はややもすれば、つい自分勝手な考えのもと、世間の流行に流され、また自らの欲望の充足に幸せを感じ、結局「お金があれば何でもできる思想」、いわゆる「拝金主義」に行き着きます。しかし仏様はそこにこそ一切の諸悪の根源が潜んでいると仰せになられているのです。
 私達はおおよそ不幸と考えられます突然の病魔、生活苦、悲惨な事件事故との遭遇等の根本原因である、自分自身の命に刻まれている過去からの罪障・悪業は決してお金では消滅・打開できません。
 とにかく私達一人ひとりが真剣に仏道修行に励むことにのみ、ありとあらゆる不幸に対する解決の糸口が生じてくるのであり、また自ら迷いの道へと突き進むことがないよう、仏法の正しい道理のもと、湧き起こる自らの欲望のエネルギーを、この腐敗した世の中を生き抜く勇気と、未来への希望、そしてあらゆる人への思いやりに転じていくことが信仰の目的であります。
 皆様にはこうした仏教の基本理念をしっかりと胸に刻んで頂き、末法のこの時代における唯一無二の正法を受持信行する法華講衆としての誇りを胸に、世俗の誤った常識、流行に決して染まることのない、気高く尊い存在であって頂きたいと願って止みません。
 要は信仰の功徳により、心が広く豊かになって頂くことが肝要であるということであります。やはり心がゆとりとやすらぎに包まれれば、今迄見えてなかったものが見えるようになり、気づかなかったことに気づくといった、決してお金では買えない大切なものを御本尊様から頂き、然るべき行動をとり充実した毎日を送るようになっていきます。
 更に、日頃何かと私達は数々の選択を迫られる時があるかと思います。そういった時、たいてい正しいものには苦労が伴い、誤ったものには楽で楽しそうに感じられるのが世の常であります。ましてや信仰に励みながら一生を送ることは、正に修行であり容易なことではありません。しかしながら、私達は妙法と共に生きることによって、必ず正しく理の通った人生と、何事にも屈することのない勇気と希望に満ちあふれた人生が開けてくることを確信して頂くことが重要であります、
 先般、私達僧侶の指導会が総本山で行われ、その際御法主日如上人猊下は、「まず唱題をしていかなければ、何も始まらない」、そして「唱題が唱題で終わってしまってはいけない」と御指南され、また八月に行われた少年部広布推進会では、仏心寺支部小学五年生の岡田裕菜さんが、「御隠尊猊下様の「朝は三十分早く起きればよいのです。そして一生懸命にお題目を唱えていく、そこにあなた方のその日の一日の根本的な幸せな姿を建設していく形が現れてくると思います」というお言葉を聞いて、毎朝五時に起きて、勤行と三十分の唱題を続けていこうと決めました。決める前は、勤行するのがやっとで、たまに寝坊してさぼることもありました。そんな私が、お母さんに起こされて、五時に起きるのは、とってもつらかったです。でも、続けていくうちに、その時間に自然に起きられるようになりました。学校の陸上や合唱がある日は、六時半に家を出るので、頑張って四時半に起きて続けました」と発表されました。
 このように未来を担う少年部員が、御隠尊猊下の御指南を頑なに守り、ただでさえ朝起きるのは子供だったら誰しもが辛いことですが、この少年部の子は、親御さんに言われた訳でもなく、猊下の御指南の実践を自分自身で決意し実行しているのであります。
 とにかく私が本日申し上げたいことは、物事全てを唱題行で始め、その功徳をもって諸事万端相整えることができるよう勤め、そして唱題行で締めくくることができるように、日頃からしっかりと心掛けていくことが非常に大切であるということであります。
 ただ御本尊様を信じ、有り難いと思うだけがこの日蓮正宗の信心ではありません。
 本年は特に「行動の年」であります。実践あってこそ大聖人様仰せの信心であり、ましてや様々な事情があるにせよ、唱題はおろか朝夕の勤行すらままならない方が、もしこの中にいらっしゃるとしたら、それは毎日の生活がなかなかうまくいかず、また人生につまづく大きな要因となることを、深く肝に銘じて頂きたいと、このように存じます。
 以上、はなはだ拙いお話ではありましたが、その意とするところをお汲みいただき、平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年の大佳節へ向かって、益々の御精進を念願致し、皆様の御健勝と御活躍、支部法華講御一同様の益々の御繁栄を心よりお祈り申し上げ、本日の話を終わらせていただきます。