お 盆 の 話

 昔、インドのお釈迦様(釈尊)の時代のお話です。お弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじや)という方がおられました。
 修行を積んだ目連は、やがて死後の世界までも見通せる「天眼通(てんげんつう)」という不思議な力を身につけ、先に亡くなられた母親の姿を探してみました。
 「優しい母だったので、さぞや安楽な世界におられるだろう」という目連の期待に反して、大切な母は餓鬼(がき)道(どう)という苦しみの世界に墜(お)ちて、痩(や)せ衰(おとろ)え、飢(う)えに苦しんでいました。
 驚(おどろ)いた目連は早速、神通力(じんつうりき)で御飯を送ります。これを受け取った母は、右手に飯を握り、左手でこれを覆(おお)い隠して口に入れました。もちろん、周囲の同じ餓鬼の人々に分け与えたくなかったからです。しかし、口に入れた筈(はず)の飯は火となって燃え上がり、母は大ヤケドを負います。
 慌(あわ)てた目連は、続いて水を送りますが、それも又油となって母のヤケドを更に大きくします。「我が力、及ばず」と知った目連は、師の釈尊に助けを求めました。
 すると釈尊は「お前の母親は、生前の『物を惜しむ罪』によって餓鬼道に居(い)る。これは天の神の力をもっても救い難い。只一つ道があるとすれば、七月十五日、多くの僧を集め、沢山の飲食をふるまい、供養すれば母の苦を救えるかもしれぬ」と目連に説きました。
 七月十五日は雨期が明け、僧の外出が許される日です。目連は師の教え通りにこれを行ったところ、母は餓鬼道の苦を逃れる事が出来た、という事です。 (仏説盂蘭盆経)
 しかし日蓮大聖人様は、この時の母の救いは、未だ本物ではない、と説かれます。
 何故ならこの時、子息・目連自身がまだ真実の法、法華経を知らず、仏に成っていないからです。自身が成仏せずして、母を仏に導く事は出来ません。よって真実の救いとは、後年、目連が法華経を信受し、それまでの浅い教えを捨て、南無妙法蓮華経と唱えた時、初めて息子と母が同時に仏と成られた、これこそ真の救済である、と大聖人様は仰せになっています。
(盂蘭盆御書一三七六㌻趣意)
 さて、世間一般には、盆や彼岸になると、親・先祖の供養の為として、寺院や墓地に参る人は多くいらっしゃるでしょう。
 しかし、目連尊者の例の如く、真実究極の仏法・南無妙法蓮華経を知らずに行う先祖供養は、その志(こころざし)とは裏腹に故人の苦を増大させてしまうのです。
 我が家には昔から守り伝えてきた宗教があるから、それを踏(とう)襲(しゆう)する事が親孝行である、という考え方には疑問を呈(てい)せざるを得ません。
 今生きているあなたの信仰に、親・先祖の成仏がかかっている、とも言えましょう。
 お盆を機会に、我が家の宗教、私の信仰を考えて下さる方があれば幸いです。