たとえ発心真実ならざる者も

 今年二月の初め、私の住職させて頂く
お寺に、中年の作業服姿の男性が一人で訪ねて来られました。
 「お祓(はら)いをやって頂けますか?」と、遠慮がちに言われるので、私は(建築現場の地鎮式だろう)と推測し、「申し訳ありませんが、我が宗旨は信仰を持っている方のお祈りしかできないのですよ。現場のお祓いですか?」と問い返すと、「いえ、私の個人的な事で、良かったら話だけでも聞いてもらいたいのですが」ということで、控室で話を伺うことになりました。
 お話によれば「自分の左腕に、子供の霊が憑(つ)いていると、霊能力のある友人に言われた。自分でも二週間程前から左半身が重だるく、イヤな感じがしていたのでおそらく本当だ」と言われるのです。
 私は、自分が霊能とは無縁の者であることを明言(めいげん)した上で、「もし何かが憑いているのであれば、お祓いで一時それを除くことは有効とは思えない。何故ならばそのような縁を引き寄せる貴方(あなた)の生き方、考え方にこそ問題がある筈で、肝心の一点を放置して、お祓いに頼っても又同じ事を繰り返すだけです」とお話ししました。
 「なら、どうすれば?」と言われるので、
 「日常の中に正しい信仰を持って下さい。自分でお題目を唱えて、自分の内面を浄化するという気迫があれば、変なものは寄りつきません。必ず仏様も守って下さいます」と答えました。
 すると「ならば私も信仰をやってみます」と言われます。
 総本山大石寺第九世日(にち)有(う)上人の御(み)教(おし)えに、「此(こ)の病(やまい)、御祈(ごき)祷(とう)に依って取り直し候わば御経を持ち申すべき由(よし)、約束の時は祈祷を他宗に憑(たの)まれん事子(し)細(さい)なきか」(『化儀抄』五十四条)とあります。つまり、信仰の約束が出来る人ならば、御祈念を受け入れてもよい、という事です。
 早々に本堂へ案内し、法華経とお題目を唱え、特に南無妙法蓮華経のお題目は、御本人にも大きな声で唱えて頂きました。
 終了後、「どんな気持ちですか?」と尋ねると、「南無妙法蓮華経と唱える途中から、体の重だるさが無くなりました。取れたようです」と、驚きと喜びで顔は輝いています。
 「では近々に、家族と一緒にお邪魔します」と言って、喜んで帰られましたが、その後はまだお見えにはなりません。
 「喉元(のどもと)過ぎれば…」を絵に描いたような話ですが、それでも良いと私は思います。
 たとえ仮りそめのことでも、仏様に手を合わせ大きな声で唱えたお題目、その瞬間には、御本人は一分(いちぶん)の信を発揮したわけです。そして内面に大きな変化を呼んだからこそ体の変化も表れたのです。
 中国の妙(みょう)楽(らく)大(だい)師(し)という方の言葉に、「縦使(たとい)、発心(ほっしん)真実(しんじつ)ならざる者も、正境(しょうきょう)に縁すれば功(く)徳(どく)猶(なお)多し」(弘決会本上・一七五)とある通り、仏様は、小さな仮りそめの縁にも応(こた)えて下さるのです。
 そして今後、もし同様のことが御本人の身に起きた時、「もうあそこへは頼めない」と考えるか、「今度こそ根本から変化を」と考えるのか。
 もちろん後者であって頂きたいと、心から願わずにいられないのです。

仏教コラム

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