い の ち の 重 さ ~尸毘王と帝釈天~

 その昔、インドに尸毘(しび)王(おう)という慈愛あふれる王様がいました。帝釈天はその王様の慈悲心が本物であるかを試す為に、鷹(たか)と鳩(はと)を遣(つか)わしました。
 ある日、尸毘(しび)王(おう)のもとに鷹に追われた鳩が逃げ込んで来て、「助けてください」と懇願(こんがん)しました。けれども、鷹は尸毘王に、「私は数日間何も食べていない、この鳩を食べなければ死んでしまう。あなたは、鳩の命とわたしの命、どちらが大事だと思っているのか」と尋ねました。
 王は鷹の言うことも、もっともだと思い、鳩の肉の代わりに、自分の体の肉を鷹に与えることにし、鳩と同じ重さ分だけ自分の肉を切り取って天秤(てんびん)の上に置いたのです。
 しかし、その天秤は、右足の肉、左足の肉と、どれだけ王の肉を切り取って置いてみても、鳩の重さとつり合うことがありません。そこで王は、とうとう自分の体を全部、天秤にのせ、自らの命を与え、鳩を救おうとしたのです。
 尸毘(しび)王(おう)の慈悲の心を知った帝釈天は、王の傷をもとのように癒(いや)し敬ったということです。『大荘厳論経』(大正蔵四・三二一)
 どんな理由があろうとも、人をはじめ、あらゆる生き物の命を奪うことは罪であります。鳩の命も王様の命も、共に同じ尊い命です。ですから、人を殺(あや)めたりすることは勿論、無駄に殺生(せっしょう)をすることは厳(げん)に慎(つつし)まねばなりません。
 しかし一方で、私達の命は、他の命の犠牲の上に成り立っていることも否定できない事実です。
 毎朝毎夕の食事一つとっても、それは沢山の命を戴(いただ)いて、私達は生かして戴いているのです。ですから、食事の前には、手を合わせ、「いただきます」と言うように親達から教わってきたはずです。
 最近は学校の給食などでも、手を合わせることや「いただきます」が言えない子供がいるそうです。それは手を合わせる習慣がないこと、他の命を戴いているとの実感が足りないこと、「いただきます」に関しては、給食費は払ってるんだから、誰からもご馳走(ちそう)して貰(もら)ってるわけじゃないから、「言う必要は無い」と教わっているという、ウソのような本当の話もあります。
 これでは、他者の命を尊ぶことは出来ません。
 このお話には、「命」そのものは、鳩も鷹も王様(人間)も同じ尊さをもったものだということが示されています。そして、本当の慈悲とは、どのようなことであるかが説かれています。
 私たちが他者を尊ぶ本当の「やさしさ」や「慈悲」を育(はぐく)むためには、日常から仏様のお教えに依り生活することが不可欠です。
 正しい御本尊様に手を合わせ、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えていく時、仏様の慈悲心は私達にも宿(やど)り、他者の痛(いた)みを理解できる慈悲深い人格を形成していくことが出来るのです。そのためにも、正しい信仰が必要なのです。
 お近くの日蓮正宗寺院を尋ねてみて下さい。

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