水滴石を穿(うが)つ (平成27年7月)

きょうは、中国の『鶴林玉露(かくりんぎょくろ)』という書物にのっている、「小さなことも休みなく続ければ大きな力になる」というお話です。

 

中国の宋(そう)の時代に張乖崖(ちょうかいがい)という崇陽県(すうようけん)の県令(けんれい)(県の長官)がいました。 

ある日、県令が役所の中をみまわっていると、1人の役人が倉庫からでてきました。

頭の頭巾を手でおさえ、あたりをキョロキョロとみまわしながら何となく落ち着かない行動に、県令は不審に思いました。

県令は「ちょっと待ちなさい。きみ、その頭の頭巾を見せなさい」と役人に言い、「はい、なんでしょうか。ちょっと頭痛がするものですから」と、役人はしかたなく手をはなしました。

するとチャリンと一銭玉がこぼれ落ちました。
実はこの役人は何回も頭巾に一銭玉を隠して盗んでいたのでした。

すぐに役人は捕らえられ、むち打ちの刑に処されます。
もう二度と悪いことをしないように百回たたかれました。

するとその役人は、素直に反省するどころか、逆に開きなおったのです。

「たかが一銭じゃないか。たたくならたたけ。しかし一銭では命まで取ることはできまい」と、ふてぶてしく言ったのです。

 

これを聞いた県令は、「一日一銭なら千日で千銭になる。縄鋸(じょうきょ)木をち、水滴石を穿(うが)つと言うではないか」と𠮟り、役人を死罪の刑に処しました。

一銭を盗んだだけでは大した罪にはなりません。しかし、千日盗めば千銭になるのです。

だから県令は反省のない役人を厳しい罰に処したのでした。

小さな金額といっても泥棒に違いはないのです。
ですから県令は悪事を続けないように、他の人に対しての戒めのためにも、役人をあえて死罪にしました。

これは、少しくらいはいいだろうとする悪事に対する戒めです。

 

さて、「縄鋸(じょうきょ)木を断つ」とは、縄(なわ)が鋸(のこぎり)の役目をするということです。

若木の枝を縄で強くしばっていると、木は毎年少しずつ大きくなりますが、縄でしばったところだけは成長することなく元の細いままです。

そして、数年すると鋸で切らなくても、縄でしばったところは自然と折れてしまうのです。

これは、同じところを長い間しばり続けると、そこから先に養分が行かなくなって枯れてしまうからです。

 

次に「水滴石を穿(うが)つ」というのは、「雨垂(あまだ)れ石を穿つ」とも「点滴石を穿つ」ともいいます。

穿(うが)つとは、穴を開けるということです。

 

水滴や雨垂れが同じところに繰り返し繰り返し落ち続けることで、硬い大きな石にも穴を開けることができるのです。

ポタポタと落ちる水滴は痛くもかゆくもありませんが、長い間の継続の力は石にまで穴を開けてしまいます。

 

 

そして「水滴石を穿つ」というのは、水だけを言うのではありません。

その意味は、どんなに小さな力でも、あきらめないで辛抱強く、根気強く努力し続ければ、大事を成すことができる、成功することができるという譬(たと)えです。

「継続は力なり」という言葉がありますように、同じ事を何度も繰り返す、やり続けるということが大事なのです。

今日は沢山ご飯を食べたから、明日は食べなくてもいいということはありません。

皆さんは毎日ご飯を食べ、毎日睡眠をとり、毎日学校へ行きますよね。
このことは、私たちの信心にも同じことが言えます。

今日は2時間唱題したから2、3日はしなくてもいいとか、勤行も朝晩2回するのは大変だから1日1回でいいとか、土日は学校が休みだから勤行も休もうということはありません。

同じことを毎日繰り返し行うことによって、継続する力と忍耐力、生命力が自然と強くなります。

 

決められたことを毎日繰り返して行うことは、決して簡単なことではありません。

毎日朝晩の勤行をするにも、体が元気な時も疲れてくたくたな時も、眠たいときでも、休まず毎日続けていくことが大事なのです。

 

日蓮大聖人様は「月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔(ま)たよりをうべし」と仰せです。

これは、「毎日毎日強い心で行動しなさい。少しでも油断してなまける心があれば、必ず魔のはたらきがあなたの信心の姿をこわし、不幸にされますよ」という意味です。

要するに、毎日の朝晩の勤行と唱題をしっかりと続けて、学校の勉強や習い事もなまけずしっかり続けていきなさい、ということです。

どうか、毎日の積み重ねの行動を大事にして、これから立派な大人に成長していくためにも、「日々の努力と継続」ということを忘れないで、毎日を有意義に過ごして下さい。