御報恩御講(令和5年10月)

 令和五年十月度 御報恩御講

 

 『佐渡御書(さどごしょ)』        文永九年三月二十日   五十一歳

 悪王(あくおう)の正法を(しょうぼう)破(やぶ)るに、邪法(じゃほう)の僧(そう)等(ら)が方人(かたうど)をなして智(ち)者(しゃ)を失は(うしな)ん時(とき)は、師子(しし)王(おう)の如(ごと)くなる心を(こころ)もてる者(もの)必(かなら)ず仏に(ほとけ)なるべし。例(れい)せば日蓮が如(ごと)し。これおご(驕)れるにはあらず、正法を(しょうぼう)惜(お)しむ心の(こころ)強盛(ごうじょう)なるべし。おご(驕)る者(もの)は必ず(かなら)強敵(ごうてき)に値(あ)ひておそるゝ心(こころ)出来(しゅったい)するなり。例(れい)せば修(しゅ)羅(ら)のおごり、帝釈に(たいしゃく)せ(攻)められて、無(む)熱(ねっ)池(ち)の蓮の(はちす)中(なか)に小身と(しょうしん)成(な)りて隠(かく)れしが如(ごと)し。正法は(しょうぼう)一(いち)字(じ)一(いっ)句(く)なれども時機(じき)に叶(かな)ひぬれば必ず(かなら)得道(とくどう)な(成)るべし。千経万論を(せんぎょうばんろん)習学(しゅうがく)すれども時機(じき)に相(そう)違(い)すれば叶(かな)ふべからず。
(御書五七九㌻七行目~一一行目)

【通釈】悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧等がそれに味方して智者を滅ぼそうとする時は、師子王のような心を持つ者が必ず仏になるのである。たとえば日蓮のとおりである。これは驕って言うのではなく、正法を惜しむ心が強盛なるがゆえである。驕れる者は強敵に遭うと恐怖心を生じる。たとえば驕った阿修羅が帝釈天に攻められて、無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。正法は一字一句でも、時機に適えば必ず成仏する。千経万論を習学しても、時機に相違すれば成仏は叶わないのである。

□住職より

 宗祖日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、「数他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は癡か現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし」と仰せになられております。
 故に私達は、御先師日顯上人が大日蓮誌上にて、御遷化前最後のお言葉となりました、平成三十一年(令和元年)の『新年之辞』にて、「人の振る舞いには実に様々な段階があります。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界の六道の境界の人が実に多くいます。しかし抜きんでて仏の心で対したとき、自ずと変化があります。但相手の仏性と自分の心の仏性を信じ、妙法という仏心を確信するのみです。この心をもってあらゆる六道の衆生の心に対してみましょう。仏の心とは尊い仏性ですから、自分自身の我見我欲でも自利私欲でもありません。あらゆる六道の意にとらわれる事なく、大きな広さ深さをもってあらゆるところに小さくとらわれた心を救ってゆく。『釈尊出世の本懐は人の振る舞い』(崇峻天皇御書)とは何と尊い教えでありましょう」と御指南遊ばされましたように、人として、更に仏道修行者としてしかるべき姿、身口意三業の行業を示すことができるよう心掛けて行かなければ、せっかくの信行の実践もはかなきものへと散り去り、自ら境界を下げしめ、功徳を積むどころか、逆に罪障を積むようなこととなってしまいます。
 更に日顯上人は私達の信仰上において大事な心構え、指針として『防非止悪』、「悪を止めて善を行ずること」、特に『七仏通誡偈』の「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という偈文を挙げられ、私達にその重要性を御指南されてきました。即ち、「諸の悪を犯すことなく、多くの善行を行じ奉り、自らの心根を浄く持つことが仏さまの教えである」ことを意味し、仏道修行者たる者、この偈文を心に刻み、第二十六世日寛上人様が『六巻抄・当流行事抄』に、「大覚世尊設教の元意は一切衆生をして修行せしめんが為めなり」との仰せの如く、仏様は衆生に対し常に崇高な境界であるよう、信行の実践に励ませるべく教化なされてきたことを御教示されております。
 つまり同抄に、「行者応に知るべし、受け難きを受け値い難きに値う、曇華にも超え浮木にも勝れり、一生空しく過ごさば万劫必ず悔いん、身命を惜まずして須く信行を励むべし」と日寛上人様が仰せのように、有り難くも人として生を受け、正法に帰依することができた以上、俗世間の流れにその身心を汚すことが無きよう、与えられた一生を有意義かつ悔い無き尊い人生を全うすることがいかに大事なことであるか、そして一生成仏の境界を目指し、清く正しい信仰生活を全うする為にも、よくよく我が身を省み、この御教示に則った日々を送ることが如何に大事なことであるかを留意すべきであります。
 そして大聖人様が『顕立正意抄』に、「今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。是を免れんと欲せば各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕へよ。若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云。四悉檀を以て時に適ふのみ。我が弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」との御教示を我が身に体し戒め、仏さまからお叱りを受けるような行体行儀、境界を下げしめる名ばかりの信心、広布への志薄く、向上心のない信心にならぬよう、よくよく己の信心を慎むことが大事大切であります。
 そして、素直に正直に純粋に、大聖人様の御教えに身口意三業をもって信伏随従し、もって福徳増進成し得ることができるよう、時に適った信心、何事にも動じない信心、魔に負けない信心を心掛け、一天四海妙法広布に向かい、一生を通じて自身の役目を果たすことができるよう、我執を破し五欲を断じ、尊い仏恩報謝の日々を前進して頂くことが非常に大事なことであります。記念すべき本年も残り三ヶ月弱となった今、大晦日に至る日々をいかに過ごすか?どうか皆様には、功徳に充ち満ちた尊い信心修行を持って、明年に繋がるような有意義な毎日をお送り頂きたく存じます。