修利槃特(令和5年10月)

修 利 槃 特(すりはんどく)
 
                    令和5年10月 若葉会御講

 昔、舎衛国(しやえいこく)のあるバラモン(司祭者)の家に、二人の男の子がいました。お兄さんは摩訶槃(まかはん)特(どく)いい、大変優(すぐ)れた頭脳(ずのう)の持ち主でした。弟は修利槃特(すりはんどく)といい、大変な頭が悪く、自分の名前も覚えることが出来ず、自分の名前を書いた板を首にかけていたそうです。世間の人たちは、修利槃特のことを「バカの槃特」と呼ぶようになりました。やがて御両親が亡くなり、摩訶槃特・修利槃特の兄弟がのこりました。兄弟二人は大変仲が良く、いつも一緒におりました。
 この兄弟は出家して僧侶となり、お釈迦さまの弟子になりました。兄の摩訶槃特は、一生懸命修行をして、あらゆる煩悩を断ち切り、阿羅漢(あらかん)という悟りの位になりましたが、弟の修利槃特は、そう簡単にはいきません。摩訶槃特は修利槃特に一偈を授け、これを一生懸命暗記するように勧めました。その一偈とは、「守口摂意身莫犯(しゆくしよういしんまくぼん) 如是行者得度(によぜぎようじやとくど)世(せ)」(身と口と心に悪業を造ってはいけない。正しい思いをもって、そして、無益な苦しみから離れなさい)との教えです。修利槃特は、一生懸命この一偈を覚えようとしましたが三年間、結局、覚えることはできませんでした。兄の摩訶槃特は、弟は到底御法文を暗記することも、仏道修行もできないと知って、弟はとても大切な存在だが心を鬼にして、「このバカ、大バカ者。お前は世界一の大バカ者だ。お前が僧侶になって一体どうなるんだ。無駄だから今すぐここから出て行け」と言い渡し、修利槃特は外に追い出され大声で泣きました。
 そのとき、お釈迦さまがそこをお通りになって、泣いている理由を聞きました。すると修利槃特は、「私は生まれついての大バカ者で、今まで一偈も暗記することができません。そして今、ついに兄にまで見放されて泣いているのです」と答えました。お釈迦さまはそれを聞いて、忘れることを「頼もしい」とお褒(ほ)めになりました。人は大事なことは忘れるくせに、つまらないことを覚え過ぎています。場合によっては、忘れることも大事なのです。
 そしてお釈迦さまは修利槃特に、「われ塵(ちり)を払(はら)い、われ垢(あか)を除(のぞ)かん」との二句を授けられました。しかし、修利槃特はこのわずかな二句も覚えることができません。このことを見て、お釈迦さまは修利槃特の過去世からの罪障が実に深いことを知られ、この罪障消滅のために一つの行を授けられました。それは、全ての僧侶の履物(はきもの)を拭(ふ)き清(きよ)めることです。そして、泥を落としながら口に、「われ塵を払い、われ垢を除かん」と唱えさせました。しかし、修利槃特にとっては、このわずかな二句でもなかなか覚えることができません。毎日毎日、たくさんの僧侶の履物の汚れを落とすということは大変なことです。しかし、素直な修利槃特は、少しも嫌がることなく修行に励み、口に「われ塵を払い、われ垢を除かん」と唱え続けました。
 すると、一日一日、修利槃特の過去の罪障が少しずつ消滅してゆき、ある日、ついに悟りを開くに至ったのです。それは、「塵」とか「垢」というのは、単に履物に付いている塵や垢ではなく、人間の心の中の塵や垢である。その心の中の塵や垢は一体何か。それは貪瞋痴(とんじんち)の三毒である。貪(とん)とは、むさぼりの心、けちな心、欲望の心で、瞋(じん)とは、瞋りの心であり、痴とは、愚かな、自分本位、わがままな心のことをいいます。この三つの塵や垢を払い落とすことが大事なんだと悟ったのです。早速、修利槃特はお釈迦さまのもとへ行き、その事を報告しました。すると、お釈迦さまは大変喜ばれ、ついに修利槃特に阿羅漢の位を許されたのです。
 ある時、お釈迦さまの弟子たちが集まって、修利槃特について「槃特尊者(はんどくそんじや)はなぜ、自分の名前も覚えられないほどの世界一の愚か者であったが、一旦、悟りを開くと、あっという間に、舎利(しやり)弗尊者(ほつそんじや)に肩を並べるほどの高弟(こうてい)となられた。これには一体、どういう因縁があるのでしょうか」と尋ねました。するとお釈迦さまは、「昔、迦葉波仏(かしようはぶつ)という仏様がいらっしゃった時に、二万人の御弟子たちがいました。その中で、最も優れて頭が良かったのが、この槃特尊者である。槃特尊者は仏様の教えを全て暗記し、人びとから大法師(だいほつし)として崇(あが)められました。しかし、槃特尊者は次第に慢心を起こし、他の弟子たちをバカにするようになりました。物惜しみの心を起こして、人びとに法を説かなくなったのです。つまり、『自分は頭が良い。他の者はバカだ。そんなバカのために説法したくない』と思い、人に法を説かないという慢心の科(とが)と物惜しみの科(とが)との二つの罪を犯したまま臨終しました。そして、次に生まれ変わった時は、仏様のいらっしゃらない時代で、勿論、仏様の教えもない時代でした。その時、槃特尊者は、猪を殺して、その肉や皮を売って生計を立てる仕事に就きました。数え切れないほどの猪を殺し、しかも『かわいそう』、『申し訳ない』との心を少しも起こすことなく、一円でも多くお金を稼(かせ)ぐことを目的にしていました。ある日、川で溺(おぼ)れた時一人の修行僧に助けられました。槃特尊者は、その修行僧に恩返しをしようと思って、修行僧の住む所に行きましたが、そこには五百人もの修行僧がおりました。槃特尊者は、どの人が自分を助けてくれた修行僧かわからなかったので、その五百人全員にお給仕をして恩返しをしたのです。そして、臨終ののち、今世に生を受けたのである。だから、君たちも、決して法を説くことを慳(おし)んではいけない。きれいな心で、人のために法を説きなさい。そして、全ての生命に愍(あわれ)みの心を持ちなさい」と言われました。
 ある日、お釈迦さまは修利槃特と三百人の僧侶をお供に、波斯匿王(はしのくおう)の城に向かいました。お城には門番がおり、門番はお釈迦さまと三百人の僧侶をお城の中に入れましたが、修利槃特を見るや馬鹿にして、お城の中に入れなかったのです。修利槃特は一人門の外に残され、「今日はお釈迦さまのお給仕をさせて頂くためにお供してきたのに、お釈迦さまとはなればなれにされてしまった。それならば、この門の外でお給仕をさせて頂こう」と思い、お釈迦さまのお姿を思い浮かべ、お給仕の真似(まね)ごとを始めました。それを見ていた門番は、「又、バカの槃特が変なことをやり始めた」と思いました。そのころお城の中では、大変なことが起こっていました。お釈迦さまがお城に着くや、水の入ったタライが、空中に浮かんで近づいてきて、よく見ると、そのタライには、人間の手の臂(ひじ)から先が付いていたのです。次は水の入ったコップが、次はきれいな手ぬぐいが空中に浮かんで、お釈迦さまのもとに来て、お釈迦さまもまた、当然のようにそれを使い、手を洗い、口をすすがれたのです。波斯匿王はそれを見て大変驚き、「これは、どういうことでしょうか。この手は、一体どなたの手でしょうか」とお釈迦さまに尋ねました。お釈迦さまは、「この手は、私の弟子の修利槃特の手です。今日、私は修利槃特に給仕をさせる為に連れて来たのですが、門番の人にとがめられて、実は今、門の外にいます。そして、門の外で、私に給仕をしているのです。私と修利槃特は、どんなに離れていても、心が通じているから、こういうことができるのです」と言いました。
 波斯匿王は、慌(あわ)てて門の外の修利槃特をお城の中に招き入れました。そして再び、お釈迦さまに「失礼ですがお釈迦さま、聞くところによりますと、修利槃特は大変頭が悪く、三年経っても一偈も覚えることができず、最近、ようやく二句を暗記することができたそうでございますが、一体どうして、このような立派な御僧侶になられたのでしょうか」と尋ねると、お釈迦さまは、「王よ、お経文をいかにたくさん暗記しようとも、行ずることの方が尊いのであります。たくさんのお経文を暗記しても、その心が判らなかったならば、何の功徳もありません。たった一つのお経文でも、正しく理解し、修行したならば、大きな功徳があるのです」と答えました。この話を聞いて、国王も、婦人も、太子も、大臣も大変喜び、国中の人々は、もう誰も「バカの槃特」と呼ぶ者はいなくなり、「お釈迦さまの弟子、十六羅漢(じゆうろくらかん)の一人、修利槃特尊者」と褒(ほ)め称(たた)えるようになりました。後に、お釈迦さまは『法華経』を説かれ、修利槃特はこの『法華経』を素直に信ずる功徳により、ついにお釈迦さまより「普明如来(ふみようによらい)」の記別(きべつ=仏様が弟子の未来の成仏を御約束されること)を受けられたのでした。
 どうか皆さんも、修利槃特のように「われ塵(ちり)を払(はら)い、われ垢(あか)を除(のぞ)かん」と、御本尊様のいらっしゃるお仏壇やその部屋、家中のあらゆるところをきれいにする事によって、自分の心の中のちりやあかもきれいになっていくんだと思って、できるだけ進んで行っていきましょう。これは行体といって自分の体をつかって行うという事で、それが御本尊さまに通じ、自分の身と心をみがいていく事になります。また、お使いに行ったり、食事のしたくのお手伝い、掃除のお手伝い、これもみんな自分のためになる事です。大人になって一人前の掃除ができない人は、家がゴミ屋敷になってしまいます。修利槃特が当初、頭が悪く悩んでいたように、たとえ勉強や運動が得意でなくても、自分自身に何か誇れることがなかったとしても、決して悩むことはありません。私たちは、御本尊様を心から信じ、毎日勤行や唱題をして、勉強や家のお手伝いを頑張り、お山やお寺に参詣することを、毎日の積み重ねとしてしっかりと行っていく人は、必ず立派な人間に成長していきます。また御本尊様からも誉められる人になります。冥(みよう)の照覧(しようらん)といって、御本尊様は毎日どんな事でも、皆さんのことをちゃんと見ておられます。ですから、未来に向かって何事も一生懸命、前向きに素直に頑張って行きましょう。