画竜点睛(令和5年9月)

画 竜 点 睛(がりようてんせい) 令和5年9月 若葉会御講

 今月は絵に書いた竜が天に向かって飛び立ったという話をします。この話は「歴代(れきだい)名画記(めいがき)七」に載(の)っています。                               

 むかし、中国の南北朝(なんぼくちよう)時代に南朝の梁(りよう)の武帝(ぶてい)の時に右軍(うぐん)の将軍で張僧繇(ちようそうよう)という人がいました。この人は、浙江省(せつこうしよう)の長官も歴任していて、政治家としても、軍人としても優(すぐ)れていましたが、特に絵を描くことにとても優れた才能があり、人間や動物などを本物そっくりに描くことができました。ただそっくりだけなら、写真でも本物と同じように写すことができます。しかし、この人の絵は、まるで魂が入ってるかのように生き生きとしているのです。張僧繇は、官職を退職してからはいつも絵を描いて人を喜ばせていました。                               

 ところで梁の武帝にはたくさんの子供たちがいて、それぞれの国の長官となり、赴任していました。そこで武帝は、子供たちに会いたくなると、張僧繇をその任地へ行かせました。張僧繇は、その地でそれぞれの子供達の肖像画(しようぞうが)を描いて武帝に献上しました。額に入れ、壁に掛けられた子供達の肖像画はまるで生きているようで、武帝はよくその絵に向かって話しかけました。張僧繇は、依頼されれば寺院の壁画(へきが)もよく描きました。江蘇省(こうそしよう)の興国寺(こうこくじ)の本殿の東棟(ひがしとう)には鷹の絵が描かれました。それまではスズメなどの小鳥が巣を作り、本殿にはいつも糞(ふん)がこびりつき、まわりではいつもピーピーうるさく飛び回っていました。しかし、この絵が描かれると、一切の小鳥は一羽も近寄ってこなくなりました。鋭い目と、とがったくちばし、磨かれたような光る爪はとても絵とは思えません。きっと小鳥たちは本物と思い、恐れをなして近寄れなかったのでしょう。このように張僧繇の絵画(かいが)は、生命が吹き込まれた生き物のように迫力がありました。                                  

 次の年のことです。彼は、蘇州(そしゆう)の華厳寺(けごんじ)の客殿に竜を一匹描きました。大きく迫力のある竜の絵が描き終わると、まもなく雲が湧き起こり、大風が吹き起こりました。そして、この竜が壁から離れ、天に昇ろうとガタガタと動き出しました。張僧繇は、急いで竜の体に鎖(くさり)を描き足して竜が壁から離れないようにつなぎ止めました。すると竜は急におとなしくなり、もうそれ以上飛び立とうとすることはありませんでした。この光景を実際に目にした人は、絵に描いた竜が動き出したことを皆信じています。でも、見ていない人はその事をなかなか信じることができませんでした。しかし、うわさだけはどんどん広まっていきました。「百聞(ひやくぶん)は一見(いつけん)にしかず」といいますから、このうわさを聞いた人は、是非自分の目で見たいと思いました。      

 そんな折、その張僧繇によって金陵(きんりよう)の安楽寺(あんらくじ)の壁に竜が描かれるといううわさが広まり、大勢の人が「是非見てみたいものだ」と集まってきました。皆が見ている目の前で四匹の竜の絵が描かれました。壁画は普通何ヶ月もかかるものです。しかし、張僧繇は下絵も描かず、まるで生き物が身体や手足を押し広げていくように胴体が伸び、ひげがはえ、角がはえていきました。人々はあまりの見事な筆さばきに、皆うっとり見とれていました。そして四匹の竜が描かれましたが、まるで本物の竜がそこにいるようで恐ろしいくらいに、今にも動き出しそうです。しかし、四匹の竜には瞳が描かれていません。白目のままです。それなのに張僧繇は「これで完成しました」と言って筆を置いてしまいました。皆は「どうしてですか。まだ瞳が描かれていませんよ。これでは目の見えない竜のようですから、最後まで仕上げてくださいよ」と言いました。すると張僧繇は「瞳は竜の一番大事なポイントです。普通、最後の総仕上げとして瞳を描き入れますが、今日は見物人の方も多いので、危険ですから描き入れません」と言うと、皆は「どうしてですか。私たちはうわさが本当かどうか見たくてわざわざ来たのですから、そんなことを言わずに瞳を描き入れて下さいよ」とお願いしました。張僧繇は、しかたなく二匹の竜の瞳に点を描き入れました。すると、ピカッと稲妻が光り、ゴロゴロと雷が鳴り出しました。空はいつの間にか真っ暗になり、人々は突然の出来事に下を向いて震え上がりました。皆が我に返って壁を見ると、瞳が描かれた竜は天に昇り、瞳の描かれていない二匹の竜だけがそこに残っていました。人々はとうとう天に昇る竜を見ることはできませんでした。この物語は、中国の「宣和画譜(せんながふ)」巻一に「安楽寺に四竜を画く。目睛(もくせい)を点せず。謂(い)う『点せば即ち騰驤(とうじよう)して去らん』と」と記されています。睛とは瞳のことです。つまり、瞳を入れれば竜に魂が入って天に昇っていくから、あえて点を描き入れなかったということです。

 よって「画竜点睛(がりようてんせい)」とは、絵に描いた竜に瞳の点を入れることで物事の急所、最後の仕上げと言う意味で用いられます。逆に「画竜点睛に欠く」という言葉は、物事を達成する時に最後の総仕上げに欠け、魂が入らないことです。物事の一番のポイントがなく、要点に欠け、生命が吹き込まれない形だけのものになります。皆さんは、囲碁や将棋を知っていますか?詰めの一手の決め手に欠けると、それまで優勢であっても逆転されることがあります。勉強でもスポーツでもポイントは何かを見極め、ポイントをはずさないようにしなければなりません。                  

 朝晩の勤行や唱題は、私たちにとって最大のポイントです。皆さんのように毎日しっかり勤行や唱題のできる人は、「画竜点睛を欠く」ということがありませんから、毎日の生活において目標や目的を決めて、素直に正直に正しく前進していけます。しかし、正しい信仰心のない人は、根無し草(ねなしぐさ)のようなものです。根無し草は、根が地面に張っていないから、水の流れにまかせて流れていくように、他の影響を受けながら流されていきます。皆さんも、絵に描かれた竜が天に昇ったように、皆さんの人生を左右する大事なポイントであるお題目をしっかりと真剣に唱えて、皆さん一人ひとりが抱く夢に向かって、また毎日の日常生活の中において、楽しい時もつらい時も、常に皆さんを見守って下さる御本尊様を信じてお題目を唱え続けてことが大事なことです。そして、御本尊様からの不思議なありがたいお力をいただき、楽しい時は感謝の心をもって、悩んだり困ったりすることがあったら、そのことが解決するように、かなえたいことがあったら、そのことがかなえるように努力していきましょう。