荒馬の親子(令和5年8月)

荒 馬 の 親 子(あらうまのおやこ)
                 

 令和5年8月 若葉会御講

 むかしインドのある国に、馬が好きな長者がいました。その長者の屋敷には、数十頭の馬が飼(か)われていました。中でも、毛並(けな)みが良く姿形(すがたかたち)の美しいメスの馬がいました。長者はその馬を大変気に入り、何度か乗馬を楽しもうとしましたが、馬はなぜかとてもイヤがりました。手綱(たづな)もなかなか取らせてくれません。手綱が取れて乗ろうとすると、前足を高く上げて後ろ足で立ち上がります。やっと乗ることが出来ても、前に後ろに右に左に、壁や垣根にぶつかって、何がなんでも振り落としました。長者はそうしたメス馬の行動によってケガをしてしまい、そういうことが何回が続き、長者はとうとうメス馬にお仕置きをしました。
 その日から、メス馬は暗い小屋に押し込められ、外に出してもらえなくなりました。食べ物も水も、腐(くさ)ったものが与えられました。メス馬は、どうして自分がこんな目にあうのかわかりませんし、空腹で我慢できませんでした。馬小屋はとても狭(せま)くて汚(きた)なかったですが、とても頑丈(がんじよう)でした。メス馬が体当たりしてもビクともしません。メス馬は思い切り鳴きましたが、誰も来てくれず、途方(とほう)に暮れて悲しんでいた時、天から「あなたの主人に素直に従えば、あなたの災(わざわ)いはなくなりますよ」と聞こえ、メス馬はハッとしました。メス馬は、「あっ、そうか!思い起こせば、自分は好き勝手なことばかりして来たんだ。怒りたい時は怒り、乗馬の時もわざと乗せなかった。それでこんな目にあったんだ」と、天の声により、ようやく反省することが出来ました。
 明くる日、長者はメス馬の乗馬にもう一度に挑戦しようと思い、馬小屋から馬を外に連れ出しました。すると、昨日までとはうって変わって、メス馬はとても素直に長者の言うことを聞くのです。長者が乗りやすい姿勢をとり、背に乗ってもおとなしくして、長者の言うとおりに走りました。長者の思うとおりにメス馬が行動するので、まるで長者の心とメス馬の心が一体となっているようです。メス馬は、「素直に従うということは、気持ちのいいことなんだ。案外、楽なことなんだ」ということを体験しました。長者は、このメス馬をすっかり気に入り、おいしい食べ物を与え、水も新鮮できれいな水を与え、小屋も広くてすがすがしい所へと変えました。メス馬は、「我(が)を捨てて素直になるって幸せなことなんだ」と、気持ちが晴れ晴れとしました。
 やがてメス馬は立派な駿馬となり、そののち子馬が生まれ母親になりました。子馬は母馬と一緒に、大事に育てられすくすくと成長し、一才を過ぎた頃から乗馬の訓練が始まりました。ところが子馬は、むかし母馬がしたように、さんざん跳ねまわり、長者を寄せ付けませんでした。そして、とうとう手綱を切って逃げ出してしまいました。長者は使用人に命じて、子馬を捕(つか)まえ、母馬の時と同じようにムチで打ち、汚くてせまくて、暗い小屋に押し込められてしまいました。しかし、子馬はどうして自分がこんな目にあうのか、理解することができませんでした。夜になっても誰も助けてくれません。子馬は、「お母さん、ボクを助けて!どうして来てくれないの。ムチで打たれ、腐った食べ物を食べさせられているんだよ。お母さん、どうしてなの?」と、泣き叫びました。それでも返事はありません。そのころ母馬は、離れたところで子馬の悲しみの声を聞いていました。母馬は、「むかしの自分と同じだ。痛みを感じないと、イヤな思いをしないとわからないんだ」と、親子の因縁を痛感(つうかん)していました。
 明くる朝、母馬は子馬に会うことができました。そして、子馬に「お母さんもむかし、そういう経験があるのよ。お前の災いは、すべてお前の行動から来ているのだよ。誰の責任でもないのだよ。御主人様が乗ろうとしたら、素直に乗せてあげればいいのよ。そうしたら、御主人様は、きっとお前を可愛(かあい)がってくれるよ。しかし、反抗すればする分だけ、お前が苦しむし、素直な心と行動によって、お前は幸せになれるんだよ」と言いました。子馬は母馬の言葉を信じて、言われる通りにしました。すると長者は、大変喜んで牢獄(ろうごく)のような小屋から、母馬と同じ広くて明るい部屋に移され、おいしい食べ物やきれいな水を与えられ、大事に育てられました。
 さて、この話は、長者を仏さまとその教えに、母馬や子馬を仏さまの教えによって救われる私たちに譬(たと)えられたものです。私たちの心は、だいたい地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしよう)・修(しゆ)羅(ら)・人間(にんげん)・天上界(てんじようかい)の六道の命に支配されていることが多く、これを六道輪廻(ろくどうりんね)といいます。苦しみや悲しみ、忿(いか)りや欲望(よくぼう)、愚(おろ)かな心が多いので、我見(がけん)というワガママな考えや自分勝手な心が強く、親や人の言葉も素直に聞けないことが多いのです。そして、注意されたり意見を言われると、それに従う心より、ますます反発する心が強くなります。すると、今日の母馬や子馬のように、初めから長者の言う通りに素直に従っていれば、ひもじい思いや悲しく辛い思いをしなくても済むのに、そうしたイヤな思い、痛い目に合わなければ、自分の曲がった心、ワガママな心、反抗する行動に気がつくことができずに、反省することもできません。
 末法の仏さまである宗祖日蓮大聖人(しゆうそにちれんだいしようにん)さまの教えを素直に信じて、朝晩の勤行や唱題をしっかり行い、自分の悪いところを見つけて直したり、友だちにやさしく接したり、お父さんやお母さんの言うことを素直に聞くように心掛けて行くと、馬の親子が長者に可愛がられたように、皆さんの心が清らかになり、幸せな日々を送れるように御本尊さまが皆さんのことを、いつの時も見守って下さいます。ですから、素直に正直に毎日の生活を送って行くことが大切なことなのです。
 広辞苑(こうじえん)という辞書には、「素直」という言葉について、「①ありのままなこと。曲がったりクセがあったりしないこと。②正直で正しいこと③おだやかで逆らわないこと。④滞りのないこと」とあります。自分のクセや何かに執(とら)われる心によって、素直に人の言うことが聞けなかったり、怒るようなことがあると、せっかく毎日の生活を清く正しく、喜びや楽しみ溢れる日々にできる信心を行っていても、そのような有り難い生活を送ることができなくなります。つまり、自分自身でそうした道を塞(ふさ)いでしまい、正しい道からそれていってしまいます。
 御法主日如上人猊下(ごほつすにちによしようにんげいか)さまは、「我々が信心することによって、仏様や菩薩(ぼさつ)や諸天善神が、一人ひとりをしっかりと本当に見届けて、守ってくださるのです。だから、信心は不正直ではなりません。上っ面(うわつつら)の信心ではいけません。やはり心の底から信じている人を、仏様や菩薩はみんな見抜いているのです。正直な信心とは、言葉を換(か)えて言うならば、身口意(しんくい)の三業(さんごう)にわたって信心をしていくということです」と御指南されています。どうか皆さんも毎日、自分から進んで御本尊さまの前に座り、勤行やお題目をしっかり唱えて、自分の悪い面やクセを直し、素直で正直な心になれるように頑張っていきましょう。時には何で友だちはしていないのに、自分だけ信心をしているのだろうと思うことがあるかもしれませんが、第六十七世日顯上人(につけんしようにん)さまは、「世間でも心の正直な人は、必ず敬うべき人や物事を敬います。そして、誰がみていなくても、悪を捨てて善い徳を積みます。この、陰(かげ)の徳(人の目に見えないところでの徳)によって陽報(ようほう)(明らかな徳)があらわれるのです」と教えて下さっています。
 このように、私たちは世の中で一番大切で、敬うべきである御本尊さまに手を合わせ、その御本尊さまを顕された日蓮大聖人さまの教えを、信じて修行できる身であります。そうした有り難い生活を送ることができることに感謝し、お父さんやお母さんと共に、毎日安心して心豊かな生活を送ることができるように頑張りましょう。