日々の指針

 広説寺住職・阿部正教御尊師より、三重県の光徳寺住職・秋山行普御尊師が、自坊の御信徒に発信している「日々の指針」を紹介頂きましたので、総本山第26世日寛上人が本門寿量品について御説法された『寿量品談義』(『富士宗学要集10巻』)の主要な御文(意訳)を以下に列記いたします。

①寺院に足を運んで説法を聴くことが肝要である。もしそうしなければ罪を得ることになる。罪とは「失意罪」といって、心に願うことが一切叶わないことである。(富要10巻127頁)

②寺院に足を運んで説法を聴く功徳は、家から寺院まで歩くとき足の裏についた砂の数ほど罪障を滅することができ、砂の数ほど寿命を延ばし、砂の数ほど生まれ変わっても仏に遇い奉ることができる。(富要10巻127頁)

③説法を聴くために家から一歩出ただけで、何万回、何億回生死を繰り返して積んできた罪障を滅することができる。よって寺院に足を運んで説法を聴くのと聴かないのとでは、その罪障と福徳には天地雲泥の差がある。(富要10巻127頁)

④本門戒壇の大御本尊が在す処はすなわち本門の戒壇である。大御本尊に打ち向かって戒壇の地に留まり南無妙法蓮華経と唱えるときは本門の題目である。志がある人は登山して拝しなさい。(富要10巻131頁)

⑤どのような事があっても、すべての物事を投げ捨て寺院に参詣し説法を聴いてお題目を唱え奉り、宗祖大聖人への報恩謝徳になぞらえることが肝要となる。(富要10巻143頁)

⑥いま幸いにして(日寛上人が)本門寿量品を説き広めているのに、どうして参詣しないのか。どうして夢の中の世間の煩わしいことに強く執着して、信心を励まさないのか。(富要10巻143頁)

⑦法門を聴く度に少しも疑いなく信じていきなさい。もし少しでも疑うならば、ひっくり返した器に水が入らないように、妙法の法水があなたたちの己心に入らないことになるので、信じる心が最も肝要である。(富要10巻146頁)

⑧自身において決して疑ってはいけないというのは、十界は悉く妙法蓮華経の当体の水であるということ。私たちは寒さという悪縁に遭って迷いの凡夫の氷となっている。しかしながら、太陽たる御本尊という浄縁の光に遭い奉れば、そのまま私たちが悪業煩悩の氷が解けて根本の妙法蓮華経の水となり即身成仏できる事がはっきりと定まっているので、このことを自身において少しも疑ってはいけない。(富要10巻146頁)

⑨信とは真実にして偽りを交えず、いつまでも外れないことをいう。もしそうでなくして上辺だけでは信とは認められない。(富要10巻157頁)

⑩朝に夕に本門事行の南無妙法蓮華経と修行する信者となれば、即身成仏は決定している。(富要10巻163頁)

⑪お題目を唱え奉れば、春の後に夏が来なかったとしても、潮の満ち引きがなかったとしても、絶対に成仏は疑いない。(富要10巻169頁)

⑫たとえ同じような説法であったとしても、
信力に任せて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて聴聞すべきである。(富要10巻172頁)

⑬後世を知るとはどういうことか。それは、衣食などの助けによって初めて保たれるこの体は必ず限りがあるため、僅かなこの世界に執着をなさず慢心や偏った考えをやめて、正法正師に遇い奉り、自分に起こる善いことも悪いことも共に未来において成仏の願いを果たすこととなると思う者こそ、後世を知る人である。(富要10巻177頁)

⑭成仏という結果を成就することは、原因となる修行による。その修行を励むことは信じる心による。信心を進むことは法を聞くによる。説法を聞かなければ信心は生ぜず、信心が生じなければ修行を怠る。修行を怠れば未来どんな処に生まれるであろうか。よって寺院に歩みを運んで説法を聴聞することが肝要である。聞く裏に信心を生じており、その間が仏である。一念信心を生ずれば一念の仏、二念信心を生ずれば二念の即仏、一時信心を生ずれば一時の仏、一日信心を生ずれば一日の仏である。信心を生ずることは必ず聞くことによる、もし信心を生じない者がいたとしても聞くことさえすれば功徳は無量である。(富要10巻183頁)