手 を 合 わ せ る    ~合掌について~

あなたの近くに二人連れがいたとします。その一方がもう一方に向かって、「世界で一番愛しています。命がけで愛していきます」と宣言していたら、あなたは「お幸せに」とエールの一つも送りたくなるでしょう。
 しかし、その二人連れは実は初対面で、愛の宣言をしている人は男女も問わず、遇(あ)う人ごとに闇雲(やみくも)に、「愛しています。愛しています」と触(ふ)れ回(まわ)っているとしたらどう思うでしょうか。相手のことは何も知らずに、また知ろうともしないで、但ひたすら「あなたを世界で一番愛しています」と遇う人ごとに連発していたら、誰もその言葉を信用せず、おかしな人だと敬遠(けいえん)することでしょう。
 「あなたが一番」と言いながら、次に遇う人にまた「あなたが一番」といっていれば、その人の言葉は全(すべ)てが嘘(うそ)となるからです。
これは信仰でも全く同じことが言えます。多くの日本人は、仏様や神様と称(しょう)されるものへ「手を合わせること(合掌)」に抵抗(ていこう)は無いようです。しかし、手を合わせることの意味を知っている人はどれだけいるでしょうか。合掌には、「自分は命がけでこの仏様を信じていきます」という意味があるのです。神社仏閣(じんじゃぶっかく)であればどこへでも詣(もう)でて、本尊や教義の違う様々(さまざま)な神仏(と称されるもの)に手を合わせる行為は、誰にたいしても、「愛している」と告げていることと同じで、不誠実な行為となるのです。
 合掌とは、もっとも尊い仏様に向かって清浄な心で行うものです。十指を合わせるのは十界(じっかい)互具(ごぐ)を意味します。
 日蓮大聖人様は合掌について、『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「合掌とは法華経(ほけきょう)の異名(いみょう)なり。向仏(こうぶつ)と は法華経に値(あ)ひ奉(たてまつ)るを云(い)ふなり」
        (御書 一七三四頁)
 「礼拝(らいはい)とは合掌なり、合掌とは法華経 なり。此(これ)即(すなわ)ち一念三千(いちねんさんぜん)なり」
        (御書 一七七八頁)
と、真実の合掌は最高の教(おし)えである「南無妙法蓮華経」の仏様に帰依(きえ)する姿であると説かれています。
 神仏に対して、良(よ)かれと思って手を合わせていても、信仰の上からすれば、とんでもない姿となってしまうのです。他にも似たような事例(じれい)は数多くあるのです。世間のいい加減な常識に惑(まど)わされず、本当の信仰を求めて、日蓮正宗の寺院をお尋ね下さい。