御供養について

   御供養とは、仏法(ぶっぽう)僧(そう)の三宝(さんぼう)に信心の真心をもって奉ずるものです。
 総本山の開基(かいき)檀那(だんな)である南条(なんじょう)時光(ときみつ)殿は、熱原(あつはら)法難の際、外護(げご)の中心となって活躍しましたが、その後、幕府による不当な迫害によって、経済的に困窮した時期がありました。その時の様子は『上野殿御返事』に
「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食とも(乏)しかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へる」 (御書一五二九)
と仰せのように、時光殿は、自分の乗る馬も無く、妻子は着る服にも事(こと)欠(か)く有様(ありさま)で、そのなかを度々(たびたび)大聖人様に御供養をお送り申し上げたのです。
 ここで申し上げたいことは、御供養は、志(こころざし)が大切であるということです。
 ことわざにも「長者(ちょうじゃ)の万灯(まんどう)より貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)」とあります。お金持ちが万の灯火(ともしび)を捧げるよりも、貧者が真心込めて捧げる一灯の方が功徳が大きいということです。
 つまり御供養は、報恩謝徳の誠を尽くすものですから、たとえどのように僅かなものであっても、真心のこもったものは、現当(げんとう)二世(にせ)にわたる福徳となるのです。
 また経文には、土の餅(もち)を供養して阿育(あそか)大王と生まれた徳勝(とくしょう)童子(どうじ)の例をはじめ、半偈(はんげ)を聞くために我が身を捧げた雪山(せっせん)童子(どうじ)、八才の竜女(りゅうにょ)が価(け)値(じき)三千大千世界と言われた宝珠(ほうじゅ)を仏に捧げて、女人として初めて成仏したという例が説かれています。
 これらの尊い振る舞いは、純粋な信心で、ひたすらに自身の持てる力を出し切った御供養のお手本です。
 御供養に全力を尽くすという事は、生活の余裕を御供養するという、漫然(まんぜん)としたものではありません。生活態度を見直し、改めていく中、努力の結実として、信心即生活の御供養が生まれてくるのです。この体験こそ、まことの功徳となっていくのです。
 御本尊様の讃文(さんもん)に
「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」
と認(したた)められているように、御供養の大功徳を信じ、揺るぎない確信をもって大法(だいほう)興隆(こうりゅう)のために励むことが肝要です。