仏教説話 毒矢のたとえ

 『中阿含経(ちゆうあごんきよう)』というお経典に次のようなお話があります。
 お釈迦様が舎衛国(しゃえいこく)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というところにいらした時のことです。そこに鬘童子(まんどうじ)という人がおりました。

 

 鬘童子は人から仏教の信仰を勧められても、「この宇宙は一体どうなっているのか。広さに限りがあるのか、ないのか。永遠なものか、それともいつかは滅びるのか。仏様の命は無くなるのか、無くならないのか、無くなって無くならないのか、無くなるにあらず・無くならないにあらずなのか。これが解るまで自分は仏法を信じないし、仏道修行もしない」と言っていました。
 このような鬘童子に対しお釈迦様は、「ある人が恐ろしい毒矢に射(い)られました。その人は毒のために、もがき苦しんでいます。そこに家族や親類が集まって、急いで医者を呼んで毒矢を抜いて手当をしてもらおうとしました。しかし、その人は〝この矢を抜くのはしばらく待ってくれ。誰がこの矢を射(い)たのか。それが知りたい。男か女か。どのような身分の人か。色の黒い人か、白い人か。矢は東から飛んできたか、南からか。西からか、北からか、それが知りたい。また、弓は柘(つげ)か、桑(くわ)か、槻(つき)か、何かの動物の角(つの)か、それが知りたい。また、矢に付いてる羽根は、鶏(とり)の毛か、鷲(わし)の毛か、鶴(つる)の毛か、それが知りたい。また、弓矢を作った人はどのような人か。それらがわかるまで矢を抜いてはいけない〟と言う。今のあなたはこれと同じである」との譬(たと)え話をしました。

 言うまでもなくこんな質問をしていたら、答えがわからないまま毒が回って死んでしまうでしょう。
 さて、ここで大切なのは、この愚(おろ)かな問いを発する者が、実は我々自身であること、体に回った毒とは、貪(とん)(果てのない欲)瞋(じん)(ひとを許せない怒り)癡(ち)(自己中心の愚かさ)の三毒で、そこから発する苦しみは並大抵(なみたいてい)のものではありません。しかも人としてこの世に在(あ)る期間は限られている。それでも尚、凡夫は「わからなければ信じない」というわけです。 

 けれども、私達現代人は仏様の目から見れば、一人残らず「下根(げこん)・下機(げき)」、つまり出来の良くない者の集まりで、仏教の深い道理を頭で理解する事は出来ません。
 その無数の凡人達を現代の仏、日蓮大聖人様の教えは七百年間救(すく)い続けて来たのであり、それは「やってみないとわからない」のです。
 自分の中の貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)と、しっかりと向き合い、限りある人生を喜んで生きる、それは仏様自身の願いでもあります。
 日蓮大聖人様は「一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代(まつだい)幼稚(ようち)の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ」と仰せです。 

 あなたも日蓮大聖人様の教えに耳を傾(かたむ)けてみませんか?

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