邯鄲の夢(令和6年1月)

邯 鄲 の 夢(かんたんのゆめ)

                     令和6年1月 若葉会御講

 今日は邯鄲(かんたん)の都(みやこ)で一人の青年が見た夢の物語についてお話します。この話は唐(とう)の沈(しん)既(き)済(せい)の「枕中記(ちんちゅうき)」に掲載されています。また、この話は「邯鄲(かんたん)の枕(まくら)」「黄梁一炊(こうりょういっすい)の夢」とも言われています。
 むかし、中国・趙(ちょう)の都の邯鄲(河北省(かほくしよう))に盧生(ろせい)という一人の青年がやってきました。邯鄲は華北(かほく)平原と山西(さんせい)の丘陵地帯を結ぶ交通の要所でしたので、旅人も多く、いろいろな人たちが行きかっていました。盧生は貧乏(びんぼう)な学生でした。でも志(こころざし)だけは人一倍持っていました。その日はもう日も暮れだしたので一軒の宿屋(やどや)に泊まりに入り、そこで呂翁(りょおう)という仙人と知り合いになり、盧生は自分の将来に対しての夢をいろいろ語りはじめました。
 庭では、宿の主人が夕食の粟を炊きはじめ、盧生は自分の気持ちを話終わって心が和(なご)み、ついうとうとと眠くなりました。すると呂翁は、枕を取り出して盧生の頭の下にあててあげました。そこで盧生は気持ちよく眠りにつきました。ここからは盧生の夢の物語です。
 『盧生は一生懸命勉強して二十歳のときに国家試験に合格することができ、国のお役人としての道を歩み始めました。少年の頃からの思いがついに叶ったのです。仕事も真面目に努め、年ごとに行われる昇格試験にも合格し、官位(かんい)も上がり同期では一番最初に役職にもつくことができました。
 彼は素直で礼儀正しい性格でしたので、上司からも評判がよく、数年後には、上司の大臣の娘の崔(さい)氏と結婚しました。崔氏の実家は大富豪であったため、彼は莫大な財産を引き継ぐこととなりました。やがて彼は河北省の長官に任ぜられ、そこで反乱軍を平定しその功績に依って彼は国の本庁に戻り、ついに大臣に就任しました。子供たちも国の官僚の道を進むようになり、彼自身もさらに昇進を続け、五十歳半ばでついに宰相(さいしよう)という高い位まで登りつめました。
 ところが、彼のとんとん拍子の昇進と、恵まれた境涯を心よく思わない先輩や後輩たちは、結束して国王に対し、「盧生宰相は地方の将軍たちと結託して謀叛(むほん)を企てています。彼は王様をこの国から追放しようとしています」と、嘘の告げ口をしました。
 国王はよく調べずこれを信じてしまい、彼は逮捕されてしまいました。妻の実家から引き継いだ莫大な財産も没収されてしまい、昨日まで宰相として国の要職にあった彼は、今日は謀叛を企てた犯罪者となったのです。彼は首かせ、手かせの板をはめられ、縄で縛られて邯鄲の都を引き回され、遠い国に流されて行きました。当然、謀叛は濡れ衣でしたので、盧生はもう死んでしまいたいと思い自殺を計りましたが、それも叶いませんでした。彼と彼の家族は生まれてはじめての屈辱と流罪人(るざいにん)としての苦しみを味わいました。
 ところがこんな苦しみの生活から数年後、嘘の告げ口だったことが発覚し、彼の無実が証明されたのです。彼が没収された土地や建物などの財産は全て返され、再び宰相に任命されました。そして、以前よりももっと大きな権利と権力が与えられた彼は、人生最高の栄耀栄華(えいようえいが)を満喫しました。広い敷地に庭園が広がり、小川も流れ大きな池には大きな鯉が泳いでいます。誰もが夢見てあこがれる豊かな生活がそこにありました。盧生の人生は、まさしく山あり、谷あり、苦あり、楽ありの長い長い激動の五十年間でした』。
 その時です。盧生ははっと我に返りました。そばには枕を貸してくれた仙人の呂翁がニコニコ笑っていました。この長い一生の出来事は全て盧生が見た夢の物語でした。庭では宿の主人が夕食に炊いていた粟が、やっとぐつぐつと煮立ってきました。五十年の栄枯(えいこ)盛(せい)衰(すい)の人生の夢は、粟が煮立つまでのほんの短い出来事だったのです。
 世の中の人々があこがれてやまない栄耀栄華(えいようえいが)も過ぎてしまえば、まさに夢のような単なる一瞬の出来事に過ぎません。大事なことは、
 日蓮大聖人さまは『当体義抄(とうたいぎしよう)』に、「人夢に種々の善悪の業(ごう)を見、夢覚めて後(のち)に之を思へば、我が一心に見る所の夢なるが如し」と、善いことも悪いことも自分の心に見る夢のようなものです。したがって世間のさまざまな迷いを捨てて、仏法による悟りの法性を本分としなければいけませんと仰せです。しかしながら、実際は盧生のように名聞名利や立身出世、お金儲けが人生の目的と思って、はかなく一生を終える人々がほとんどなのです。
 また、大聖人さまは『新池御書(にいけごしよ)』に、「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし」と、人というのは、だいたい命が終わり死して、地獄の世界に堕ちてしまい苦しんでいた時には、今度人間に生まれ変わったら必ず仏道修行をしようと決心したにも関わらず、やっと人間に生まれ変わることができても、世の中の地位や名声といった名聞名利、贅沢(ぜいたく)な生活の魅力(みりよく)にとりつかれ、とうとう仏道修行を持続することもできず、また三悪道(さんあくどう)(地獄、餓鬼、畜生)の苦しみから逃(のが)れることはできないと仰せであります。
 盧生のように世間の立身出世(りつしんしゆつせ)による豊かな財産を得ることや、自分の欲望のままにやりたい事をやりたいようにすることは、ただ一睡(いつすい)、ひとときの夢のようなものであること、人として恥(は)じるべきであることを知って、与えられた限りある人生を正しい信心によって正しく正直に全うし、毎日コツコツと功徳を積ませていただくことが、本来の人生の目的、生き方であることと心に誓い、御本尊さまの有り難いお力を信じそのお力を頂くためにも、毎日の勤行や唱題を行いつつ、やるべきことをしっかり行って行くことが大切なことです。
 そして、自分自信の目標や将来の夢を持って、それを実現できるように努力して行くことがとても大切なことであり、努力に努力を重ね、苦労に苦労を重ね、また周りの人への思いやりの心、感謝の心を忘れずに、特に困っている人のために役立つ大人になれるよう頑張ってください。