師走を迎え、いざ令和六年『折伏前進の年』へ②

彰徳院様のお葬儀を終えて

 此の度、東京都品川区の妙光寺御住職・土居崎日裕東京第二布教区宗務支院長の令夫人・土居崎妙子様には11月20日、安祥として逝去され、彰徳院妙芳日栄大師の尊号を賜り、本通夜・葬儀は24日、25日と、総本山より下向された御法主日如上人猊下の大導師により厳粛に奉修されました。

 私は妙光寺より奥様の訃報の連絡を受け、11月20日午後、身支度を調え葬儀に必要な東京第二布教区の備品等を揃え、妙光寺へと向かいました。そして、妙光寺在勤者や妙光寺在勤OBの御僧侶方と共に、御法主日如上人猊下の御親修に当たり、またお世話になった故大師の菩提の為に、通夜・葬儀と万事遺漏無きよう、諸役僧侶や葬儀全体の時間体等のレジュメの作成や準備を始めつつ、更に必要な什器備品の確認作業と調達を行いました。

 そして、21日より総本山御大会の御出仕を終えられた宝浄寺御住職・舟橋日謙御尊能化総指揮のもと、教区内外の諸役僧侶一丸となって枕経・納棺・仮通夜、24日には本通夜、25日には葬儀・初七日忌法要と、御法主日如上人猊下をお迎え申し上げ、葬儀の一切を滞りなく終えることができました。

 無事初七日忌法要を終え、後片付けを終えた後、土居崎支院長様より東京第二布教区僧侶一同に対し御挨拶頂き、その中で「我々の修行は、命あってこそのものであるからこそ、どうか皆さんもお体には充分お気を付け下さい」とのお話があり、そのお言葉が心の奥底まで響きわたり、世の中「時は金なり」との言葉がありますが、私たち仏道修行にとっては、「時は命、命は宝」であると拝すべきであり、「時は命を刻むもの」と拝するべきでものであると、改めて感じさせられた次第であります。

 宗祖日蓮大聖人様は、『富木入道殿御返事』に、「命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり」と、『佐渡御書』には、「人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし」、そして『可延定業御書』には、「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり」と仰せになられております。正に命とは、世の中のあらゆる宝をも超越する宝であるとの御教示であります。ましてや、私たちの命とは有限であり有限であるからこそ、今生現世に生を受けたその時から、臨終に向かって歩みを進めているのであり、一分一秒たりとも無駄にすることがないよう心掛け、どんなに財産があろうとも、裕福な日々を送ろうとも、地位や名声を得ようとも、周りの方々から羨ましがれる境涯であろうとも、ひとたび自身の寿命が終わってしまえば、そうしたことは一瞬にして海の藻屑と化してしまいます。

 故に大聖人様は『持妙法華問答抄』に、「頓証菩提の心におきてられて、狐疑執着の邪見に身を任する事なかれ。生涯幾くならず。思へば一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし」と仰せになられ、『松野殿御返事』には、「生死無常、老少不定の境、あだにはかなき世の中に、但昼夜に今生の貯へをのみ思ひ、朝夕に現世の業をのみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行無智にして徒に明かし暮らして、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は、何を以てか資糧として三界の長途を行き、何を以て船筏として生死の曠海を渡りて、実報・寂光の仏土に至らんや」と仰せになられているのであります。

 私たちは有り難くも因縁宿習によって、受けがたき人として生を受け、値い難き末法唯一無二の正法正義に巡り値い、信じ行ずることができる今、御本仏様から多くの功徳利益積み累ねる機会を与えていたことを心中深く我が身に体し、幾ばくも無いその人生をいかに生きるか、当然信行の実践を行いつつ毎日を過ごすことは、決して容易ではありません。更に、正法を行ずるが故に生ずる三障四魔等の障礙や自身の無始已来の罪障宿業を今生現世に召し出だして受ける果報等との戦い、譬えるならば、朝焼けを眺めに山道が整備され徒歩なり車によってたやすく登れる山を、わざわざ獣道を選んで草木を掻き分け、遥かなる頂きを目指すようなものであります。更にその道すがらには恐るべき猛獣や毒蛇などとの遭遇もありつつ、ただひたすら道なき道を進み、そうした茨の道を自ら進んで頂きに立ち、華麗なる旭日を拝した時の気分はいかがなものでしょう。

 私たちの信心とは、「信じるものは救われる」、「この教えを信じれば幸せになれるとか、お金持ちになれる」、「何某を買ったら救われる」といった、新興宗教が挙って謳うような安っぽいものではありません。ただ只管御本尊様の不可思議偉大なる仏力法力を信じて、清く正しく尊い人生を全うする為に、日々弛まざる信行の実践に励んで自らの境界を高め、全世界の長久平和と世の中全ての人々の安穏なる日々を構築できるよう、自身の信力行力をもって宗祖日蓮大聖人様の御遺命たる広布大願を目指し折伏弘教に邁進して行くことが、御本仏日蓮大聖人様の願われるところであり、そこにこそ真の価値ある人生が存するのであります。

 そして、広布への志高く自身に与えられた使命と責務を拝しつつ、御本尊様への願いや祈りが必ず叶うことを確信して頂くことも至極肝要なことであります。しかし、ここで大事な事は世間の人々と同様の、三毒煩悩に満ち溢れた邪な祈りや願いは適うはずもありません。そこのところをはき違えることが無いように、よくよく自らの我意我見に執着したり、無益なことに時間や労力や財産をかけることが無きよう、「令和の法華講衆」の名の下に、己を律し己を正し、どうか自らの即身成仏の本懐を成就することができるよう、倦まず弛まず精進の誠を尽くし、いざありとあらゆる大難が我が身を襲ったとしても恐れず、焦らず、諦めずに、御本尊様の御照覧と諸天善神の御加護を信じて、力強く前進して頂きたいと願うものであります。

 最後に、彰徳院様には今まで大変お世話になり誠に有り難うございました。常寂光の宝刹において安らかに自受法楽せられますよう心よりお祈り申し上げます。