檀王と阿私仙人(令和5年11月)

檀王と阿私仙人(だんおうとあしせんにん)

                    令和5年11月 若葉会御講

 今日は檀王(だんおう)と阿私仙人(あしせんにん)についてお話します。この話は法華経提婆達多品(ほけきようだいばだつたほん)第十二に説かれています。過去の師匠(ししよう)は今の弟子(でし)という師弟(してい)の関係と、妙法蓮華経の教えがいかに素晴らしいかということを悪人成仏(あくにんじようぶつ)をもって説かれています。最後までよく読んでください。
 むかし檀王という王様がいました。この王様は正しい仏法を求めていて、国王の位を王子にゆずって、自分はタイコを打ちながら「誰か私に大乗の法を説いてくれる人はいませんか。私はその方に自分の命が終わるまで一生懸命お仕(つか)えします」と言って、自分の師匠となるべき人をさがして歩きまわりました。
 ある時、阿私仙人という人が王のもとへ来て「私は大乗仏教の法を知っています。それは妙法蓮華経といいます。もし私に真面目(まじめ)に仕えれば、その法を説いてあげましょう」と言いました。
 王様は小踊りして喜び「ぜひ弟子にしてください。一生お仕えいたします」と言いました。その言葉通り王様は仙人に心から仕えました。果物(くだもの)を取ってきては仙人に食べてもらい、水を汲(く)んでは飲み水に、薪(たきぎ)を拾ってきては食事を作り、寒い時は暖を取り、暑い時は風を送り、夜は寝るところを用意し、昼となく夜となく一生懸命仙人に仕えて、千年が過ぎました。
 その間、王様は身も心も少しも怠けることなく、たゆむことなく、”いつか必ず妙法蓮華経の尊い教えが聞けるのだ”という尊い気持ちで仕えました。ですからどんな苦しい修行も、少しもつらくありませんでした。それどころか、王位にあった時は何不自由ない環境と生活だったけれども、地位や名誉、物や人の言葉など、心の中はいつも欲得にとらわれて苦しんでいました。しかし今は、馬も家来も財宝もなに一つないけれども、自分自身に執着の気持ちがなくなり、法を求める正直な素直な気持ちになりました。そして、千年の長い年月もあっという間のように思われました。
 そんなある日、王様は仙人に言いました。「もう私も年老いて一生を終わります。正法を求めて仕えさせていただく修行の喜びも、身と心で知る事ができました。もしできれば、どうか妙法蓮華経の尊い教えを私に説いていただけないでしょうか」と自分の額(ひたい)を岩にこすりつけてお願いしました。すると仙人はにこやかに笑って「王よ私はもうあなたに何一つ教えることはありませんよ」と言いました。王様はびっくりして「一生仕えたら妙法蓮華経を説いてあげるとおっしゃったではありませんか」と言いました。仙人は重ねて言いました。「王よ法華経は身をもって仕えるという教えなのです。これは身読といって仏様の尊い教えを自分の身で読むと言うことです。王よあなたは長い間、純真な気持ちをもって、身を粉にして仕えてこられましたね。そのことが法華経を身読したことになるのですよ。だから今さら私は何一つ教えることはないのですよ。あなたは千年にわたり正法を実践した功徳によって成仏することができるのですよ」と言いました。
 このことをお釈迦さまは、提婆達多品(だいばだつたほん)に「檀王とは今の自分(お釈迦さま)のことです。そして阿私仙人は今の提婆達多のことです。阿私仙人の護持した妙法蓮華経の功徳によって、私は仏となって三十二相、八十種好、神通之力など一切の徳をそなえ、すべての衆生を教化救済(きようけきゆうさい)することができました。これは妙法の功徳のお力によるものです。そして昔の師匠の阿私仙人は提婆達多となって、仏の私に悪口を言ったり、うそを言っておとし入れ、和合僧の異体同心のきずなを破り、さらには私を殺そうと何回も命をねらってきました」と説かれています。
 更にこのことを、日蓮大聖人様は「上野殿御返事」という御書に、「提婆達多はお釈迦さまの昔の師匠です。つまり昔の師は今の弟子で、反対に言えば昔の弟子は今の師匠です。昔も今も、師も弟子も、又順逆(信じる人も反対する人も)共に成仏していくというのが提婆達多品の深い意味です」とおおせになっております。
 今月は第三祖日目上人さまの祥月命日(11月15日)の月で、毎年目師会という法要を行います。みなさんは、第三祖日目上人様の御影様(絵)を拝されたことがあるでしょうか。この御影様の頭の上はすこしくぼんだ形になっております。これは大聖人様が晩年お住みになられていた身延の山で、日目上人様が大聖人様にお給仕された時、毎日水おけを頭の上にのせて、下の谷川へ行って水を汲まれたためと言われております。このように「法華経を自分が信仰しようと思うならば、まず果物を取ったり、水を汲んだり、薪を拾ったりして、自分の身をもって師匠に仕えてはじめて得ることができる」と昔から言われています。
 よく仏さまの御法門は体の毛穴から入るとも言います。これは法を聞くということは、ただ机に向かって難しい本を読むということではなく、実際に自分から進んでお寺へ参詣して、自分の行ないをもって聞いていこうとする姿勢の中に、たとえ〝少し話が難しいな〟と思ったり、”居眠り”してしまったとしても、身体で聞いて、何回もくり返し聞いていくと、自然と覚えていくことを言います。
 みなさんも、今回の檀王の話のように、仏法を正しく自分自身の行体をもって実践していくということが大事なことです。勤行のお経を覚えることや太鼓を叩くことも、最初は難しかったと思いますが、皆さんが何回も何回も毎日少しずつ練習したことによって、覚えることができたと思います。これは、折伏(信心の話を友だちや親戚、知人に話すこと)も同じことです。信心の話をしてみて、たとえ信心に反対されたり、「自分はいいよ」と言う人も、きっと昔(過去世)は縁のあった大事な人だと思って、なんべんも正しい信心の話をしていくことが大切なことです。
 そして、皆さんの家には御本尊様が御安置されていていると思いますが、毎日手を合わせて、勤行や唱題をしている御本尊様のお力は、本当に不思議な有り難い結果をもたらして頂けます。しかし、その為には皆さんが本当に真剣になって、毎日勤行や唱題を行って行くことがとても大事なことです。繰り返し繰り返し、毎日行って行くこと、これは勤行や唱題だけでなく、勉強も同じだと思います。特に中学生になると、中間テストや期末テストがあります。それぞれ、テスト前になって一生懸命勉強することも大事なことですが、日頃からその日に受けた授業の内容を、家に帰って復習することを毎日続けていけば、いざテスト前になって、あわてて夜中まで必死になって勉強することもないと思います。
 どうか皆さんには、いつまでも楽しい毎日、「幸せだなぁ」と感じる毎日を送っていけるように、毎日の勤行や唱題を欠かさず行い、家族みんなで本山やお寺に参詣して、御本尊様から素敵な御褒美を頂けるように、頑張って下さい。そして、今年も残り1か月半となりました。今、新型コロナウイルスやインフルエンザが流行っていますので、そうした病気や風邪をひかないように、大晦日にむかって元気に頑張って下さい。