令和4年 宗祖日蓮大聖人御会式布教講演

 本日は、御会式奉修誠におめでとうございます。宗祖日蓮大聖人様も御照覧のもと、さぞ御慶びの御事とお祝い申し上げます。

 さて、未だコロナ禍の終熄という出口が見えない状況下、更に追い打ちをかけるように全国各地で台風被害や大地震等の自然災害、コロナ禍による日常生活への悪影響が後を絶たず、最近では、「なんでこんな世の中を生きて行かなきゃ行けないのだろう」、「自分はなんの為に生きているのだろう」、「なんでこんな目に遭うのだろう」という言葉を、メディア等のインタビューや記事等で目にすることが多々あります。しかし、皆さんは受けがたき人として生を受け、値い難き正法正義に帰依することができた有り難き因縁のもとで、大聖人様が『富木殿御書』に、「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」と仰せのように、与えられた人生を「いかに生きるか?」ということの意味を銘記し、悔い無き人生の日々を送ることの大切さを既に御承知のことと思います。しかしながら、世間の人々はそのことを知らずに、大聖人様が『新池御書』に、「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せのように、三毒煩悩、世間の垢に毒されて、自由気ままに、誤った価値観や倫理観、自分勝手な尺度で物事を推し量り、あらゆる流行に身を任せ、喜怒哀楽激しい六道輪廻の境界を彷徨い、物事の因縁宿習因果応報の原理を知らず、自身の欲望のもとに築いた幸福を追い求めた結果、結局は思うように立ちゆかず、大きな壁にその行く手を阻まれた時、命すら危うい大きな病魔に冒された時、様々な諸難困難を迎えた時、突如大きな虚無感、喪失感に襲われることとなるのであります。

 皆さんは「パレートの法則」を御存知でしょうか。これはイタリアの経済学者ヴィルフレド・パレート氏が発見した、世の中の自然現象、社会現象、人間関係から日常生活、経済活動に至るありとあらゆる物事において、総合的な結果を基に分析した結果、全体の数値の大部分が80:20の割合で生じていることをいい、つまり統計学的観測から得られる結果そのもので、「80:20の法則」、「8:2の法則」、「ばらつきの法則」とも言います。また、そこから派生して「2:6:2の法則」という法則も明らかにされております。「パレートの法則」は、「働きアリの法則」と同様に扱われ、要するに「アリの巣の大群の中での働きアリの割合が2割で、その他8割のアリはあまり役立つことをしない」ということであります。これを人間社会に当てはめますと、「都市の交通量の8割は、都市全体道路の2割に集中している」、「物事の本質の8割は、2割を見ればわかる」、「販売店における売り上げの8割は、全商品銘柄のうちの2割で生み出している」、「文章で使われる単語の8割は、全単語数の2割に当たる数の単語である」、「携帯電話を使用する8割は、その電話機の機能の2割である」などと言ったことを指し示します。実に面白い例は、「生活の8割の時間着ている服は、持っている服の2割だけ」という結果を知れば、自宅の「家具」や子供の「玩具」、「文房具」の使用率も必然的に、今流行の「断捨離」などで振り分けできるのではないでしょうか。

 更に、「2:6:2の法則」についても触れますと、例えば100人規模の会社があったとします。その中で、非常に優秀で会社に大きく貢献する社員は全体の2割の社員で、6割の社員は可もなく不可もなく働きそれなりの成果を生み出し、残りの2割の社員は会社的にはあまり必要とされない社員であるということであります。

 しかしながら、私たちの行ずる信心の果報というのは、こうした「パレートの法則」は全く当てはまりません。御存知の通り、この信心修行の功徳利益は無限の可能性を秘めております。例えば、一般的に盲目の人の眼が見えるようになる確率は限り無く0パーセントに近いでしょう。しかし、元妙眞寺総代・北原鐡雄氏、鐡雄氏の長兄で歌人の北原白秋氏の御尊父である北原長太郞氏が、1日3回の勤行と1万遍の唱題を毎日決して怠ることなく継続して行った結果、見事その眼を開かしめたように、また大白法や妙教誌には各種体験発表が掲載されておりますが、その内容には余命1年乃至数ヶ月と言われた方が見事その病魔を克服された体験、難事中の難事たる折伏体験や、その他、社会や学校における生活において、断然無理と思われたことが、その信心修行の功徳利益の果報として、思わぬ結果に導かれた経験は沢山あると思います。

 当然、大病を患った方の余命率は、医師の経験値から判断されたものであり、それをもとに診断結果を出されたものと思いますが、もしかしたら、その診断結果自体も医師は意識せずとも、自ずと「パレートの法則」に当てはまっているかもしれません。しかし、私たちは御本尊様の仏力法力、諸天の御加護を信じる限り、あらゆる諸難困難を乗り越えるためには、より一層の信行の実践に励まれると思います。そして、その結果、医師をも驚かせる結果をもたらしたり、自分自身が驚くような、喜ぶような果報となって、その功徳利益の現証を目の当たりにすることと存じます。

 かつて、私と家内の結婚式の折、御法主日如上人猊下に御目通りさせて頂いた際、御法主上人より「夫婦となることは、1人から2人となるが、それが1+1=2ではなく、3にも4にも、10にもなるよう努めなさい」と御指南賜りました。つまり、私たちの信心は世の中の法則に当てはまらない、寧ろ世の中の常識を覆すことが出来うるような精進が重要となってきます。その為には、どのように日々精進すべきでしょうか。宗祖日蓮大聖人様は、『唱法華題目抄』に、「妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり」、『得受職人功徳法門抄』には、「莫大の功徳を今時に得受せんと欲せば、正直に方便たる念仏・真言・禅・律等の諸宗諸経を捨てゝ、但南無妙法蓮華経と唱へ給へ。至心に唱へたてまつるべし」と仰せであります。

 とにかく、私たちの信行の実践の王道は、岩をも貫く一念心を持った唱題行に尽きます。その唱題行においても、「1日何時間唱題を続けて行こう」といった漠然とした唱題行ではなく、一つの目的観、目標を打ち立てて、その成就に向かった唱題行が大事大切なこととなります。やはり目的観のない唱題行は、一つの終着地が見えてこない空題目になりがちでありますからこそ、大聖人様が仰せの「至心にお題目を唱えることの大切さ」をその身に体するには、本気になって真剣に唱題行に徹するためには、一遍一遍のお題目に万感の思いを込めて実践することが肝要であります。そして、妙楽大師の言葉に「一心一念法界に遍し」とありますように、皆様の御一念が宇宙法界において、ありとあらゆる処、あらゆる人々に必ず行き届くと確信され、その強盛なる一念心をもって、折伏に毎日の生活にと、あらゆる物事に応じることが肝要であります。

 正に大聖人様が『法華初心成仏抄』に、「譬へば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」と仰せのように、しっかりと我が身の仏性を開かしめる唱題行の実践が、ありとあらゆるしかるべき果報を賜るべき、我が身の境涯を無限に開かしめる秘決になると拝するものであります。

 ましてや、勤行唱題の姿について、私の御師範である総本山第67世御先師日顕上人は、平成元年、私が出家得度させて頂いた後、総本山大石寺において中高生6年間に亘る小僧の時代は、12日に1度、丑寅勤行をお供する当番があり、丑寅勤行における私たちの勤行姿勢において、終了後、その姿や太鼓の叩き方について1人1人事細かく、厳しく御指南されましたが、私も住職歴17年余りになった今、その重要性を更に痛感するものであります。

 つまり、勤行・唱題は、身に油断怠り無きよう真剣に行うべき行業であり、決していい加減な義務感にかられた勤行・唱題であってはなりません。それこそ勤行においては、特に早く唱えがちな引題目について、一文字三てんぽ置くぐらい、しっかりと行うことが肝要であります。どうしても日常生活の忙しさにかまけて早く行いがちかもしれませんが、朝勤行を行う時間が限られていると思ったならば、通常よりも早く起きれば良いことに過ぎません。睡眠時間が減ると言うならば、自我に執することを排除して余計なことや趣味嗜好に費やす時間を減らし、早く就寝すれば良いだけのことであります。重要なのは、信行実践を中心にした日々を送れば良いことに尽きます。これは、人生の面白みが無いと反発する方がいるかと思いますが、私たちの人生において何が大切なのか、何を全うすべきかを考えれば、自ずと信心中心の生活に変わって行くと思います。

 どうか、ここのところを重視して行けば、昨日よりも今日、今日より明日へ、限り無く境涯を開くきっかけになっていくものと拝します。そして、宗祖日蓮大聖人様の、『諸法実相抄』の「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし」と、令和の世情と同じく、鎌倉時代の混沌とした社会情勢のなか、大聖人様が唱え始められた南無妙法蓮華経のお題目を、身命を賭して弘め伝えられた先師先達方に続き、令和の法華講衆たる私たちが広宣流布への御教示を少しでも前進させて頂く為にも、今生現世において受けがたき人としての生を受け、地涌の流類として逢いがたき正法正義に帰依することができた我が身の福徳を噛み締め、またその因縁宿習を有り難く拝し奉り、無量無辺不可思議偉大なる御本尊様の御仏智を拝して、無利益な時間を費やすことなく有意義な人生を全うして頂きたく、その意とするところをお汲み頂ければ幸いに存じます。

 最後に、今私たちは何を資糧として、何を目的に毎日を送るべきか。それは大聖人様が『松野殿御返事』に、「世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」との如く、信心を基軸として毎日を生きて行くことそのものが修行であり、その中で罪障消滅宿業打開に努め、現当二世に亘る福徳増進と広布大願に向かい、世の中の平和安穏と、縁する全ての方々の真の幸福を願いつつ、まずは自分自身が人としてしかるべき人生の歩みを運ぶことが肝要であります。時には私たちも日蓮正宗僧俗としての身口意三業の行業を見誤り、我意我見に執われた姿、我が儘な信心の姿、自身の都合によるいい加減な信心の姿を犯しかねませんが、それは皆、御本尊様に対する確信の無さ、いわゆる「不信」が原因となるのであります。私たちの信仰生活の日々は、決して安易で甘いものではありません。とにかく今、どこまで御本尊様を信じ抜くことができているかどうか、我が身に何が起きようとも全ては自分自身の因縁宿習によるものと心得、受け入れ、立ち向かっていく勇気があるかどうか、大聖人様が仰せの如き信行の実践と、真剣な唱題行を恙なく行えているかどうかを、今一度省みることが肝要であります。そして、間違っても人として、令和の法華講衆として恥ずべき姿を晒すことがないよう、精進の誠を尽くして頂きたいと心より念願いたします。

 以上、色々と申し上げましたが、皆様には本年残すところ2ヶ月、本日の御会式法要を契機に、不惜身命不撓不屈の信念をもって、果敢に折伏弘教に挑戦して頂き、無上の功徳利益をもって無事故無障礙にて意義ある日々をお送り頂き、無事大晦日を迎えることができますよう、心よりお祈り申し上げ、本日の話とさせて頂きます。
 本日は、御会式奉修、誠におめでとうございました。