見えない透明の壁(令和4年9月)

見えない透明の壁(みえないとうめいのかべ)

 
                   令和4年9月 若葉会御講 

      
 むかし、インドの舍衞城(しやえいじよう)の都(みやこ)に、ケチで意地悪(いじわる)な夫婦(ふうふ)が住んでいました。2人は自分たちの欲(よく)望(ぼう)を満足させることばかりを考えて生活していました。ある日、1人の僧侶が托(たく)鉢(はつ)の修行をしながら、この町にやってきました。托鉢とは器(うつわ)をもって人々の家を回り、人々はその器の中に食べ物やお金を施し、布施行(ふせぎよう)の徳(御供養(ごくよう)の徳)を積ませて頂くことができます。僧侶は施(ほどこ)してもらった食べ物やお金を持ちかえり、僧侶みんなで分け合います。
 ある日、修行僧はこのケチんぼ夫婦の家にやって来ました。家の前で器を差し出し、「布施を行うように」と勧(すす)めました。家の中から、妻がけげんな顔で出てきました。そして、「うちには何にもあげるものはないよ。さっさとよそへ行っとくれ」と冷たく言い放ちました。僧侶はこの妻の顔を見て、あぁこの人は布施行を行わせて、功徳を積ませてあげなければいけない可(か)哀(わい)想(そう)な人だなと思いました。
 僧侶は、「心から施しの心をおこして、供養することは良い行いですよ」と、妻に言うと、妻の顔はだんだん険(けわ)しい顔になり、「うるさいわね。めざわりな坊さんだね。いいからとっとと出て行ってくれ」と妻が怒(ど)鳴(な)った瞬(しゆん)間(かん)、修行僧の顔をがさっと真っ青になり、死人のようになりました。そして、顔は崩(くず)れだし鼻や目や口からウジ虫がわき出しました。体はぶくぶくと太ったかと思うと、急に崩れはじめ腐(くさ)ったにおいとともに、どろどろと崩れていきました。この様子を見た妻は、「ギャー」と叫んで腰を抜かしてしまい、口から泡をふき目を白(しろ)黒(くろ)させて、ガタガタ震(ふる)えだしました。修行僧は、「この世の生命は、限りあるはかないものだからこそ、生きているうちに布施行などの仏道修行をして、善行の徳を積まなければなりませんよ」と、いうことを知らせようと思い、人間の死の姿を見せてあげたのでした。しかし、妻にとっては少々刺(し)激(げき)が強すぎたようです。修行僧は、もとの姿にもどると、何事もなかったようにその家を後にしました。
 しばらくして、夫が家に帰ってくると、妻のあわれな姿におどろき、妻がいう僧侶の話を聞いて、夫はその僧侶に対し怒り狂いました。そして、「わしの女房をおどすなど、とんでもない坊(ぼう)主(ず)だ。わしが見つけて退治してやる」と思い、弓と刀を手にすると、すぐさま外に飛び出しました。あちらこちらと探し回り、走り回って町はずれの林の道にでると、1人の修行僧が歩いているのを見つけました。
 夫は、「やい、こら、待て。お前が死人に化(ば)けた坊主か?」と聞くと、僧侶は「そうですよ」と答え、「妻はあやうくショック死するところだったんだぞ。とんでもないクソ坊主め。こらしめてやる」と夫は言い放ち、修行僧めがけて弓(ゆみ)矢(や)を放ちました。すると不思議なことに、矢は修行僧に命中する寸前で跳(は)ね返ったのです。夫は、今度は刀を振り上げ修行僧めがけて走って行き、いざ切りつけようとすると、ギリギリのところで、「ドンっ」と壁のような厚いものにぶつかったように、跳ね返されてしまいました。
 夫は二度も攻撃を跳ね返されてしまい、修行僧の回りには目に見えない何かがあると感じました。夫は手探(てさぐ)りで確かめようとすると、修行僧の回りは目に見えない透明の壁のようなもので囲まれていました。夫は、「こんなもの作りやがって、卑(ひ)怯(きよう)な坊主だ」と怒鳴りました。すると僧侶は、「透(とう)明(めい)の壁はいつでも取り去ることができます。それにはあなたの弓と刀を捨て去ることですよ」と言いました。夫は素(す)手(で)でもやっつけることが出来る自信がありましたので、弓と刀を捨て去り修行僧に向かって、こぶしを上げて殴りかかりました。ところがまた、「ドンっ」と、見えない壁にぶつかり、夫はひっくり返りました。夫は更に怒り狂って、「まだ透明の壁があるじゃないか。よくもだましたな」と僧侶に怒鳴りつけました。
 修行僧は、「目に見えない壁は、あなた自身が作っているのですよ。あなたが目に見えない心の中の、怒り狂った弓と刀を捨て去れば、壁はきっと無くなります。形のあるものよりも、むしろ形のない武器こそ恐いのです。世の中の災(わざわ)いも疫(えき)病(びよう)も不幸になる本当の原因も、みんな目には見えない人々の心の中、命の中にひそんでいます。人を殺そうとする悪の心は、目に見える武器よりも、もっと恐ろしいものです。私はあなたが持っている心の武器を捨て去り、心穏やかに、安らかに生きることを望んでおります」と、夫にいいました。
 夫は、修行僧の慈しみの眼差(まなざ)しで、ひと言ひと言諭(さと)されるような言葉を聞いて、心が洗われる思いがしました。夫は怒りの気もちがだんだんと無くなり、逆に感謝の心でいっぱいになりました。そして夫は、「私は怒りや不安の気持ちが無くなり、生まれて初めて、こんなに安らぎの気もちを抱くことができました。本当にありがとうございました。私や妻の無(ぶ)礼(れい)をどうかお許しください。また、私の妻もどうかお導き下さい」と、修行僧にお願いしました。
 そして、怒りの命から慈(いつく)しみの心、命へと変わった夫は、歯をむき出しつり上がった目から、やさしさあふれる目つき顔つきに変わりました。その後、家に戻った夫は、妻を諭し反省の心をおこさせ修行僧のもとへと連れてきました。妻は、丁寧な態度と言葉で修行僧にお詫(わ)びしました。修行僧は、「怒りと欲望と、だらけた心と生活には、目に見えない壁が出来てけっして幸福にはなれません。よく学び、努力をかさね、正直に生活することによって、少しずつ幸福の道が開かれていきます」と言って、この意地悪な夫婦の心の悪を取り除くことができたのでした。
 皆さんも、見えない壁で自分が守られるか、それともその壁に囲まれてしまい、身動きがとれない不幸な生活をするかは、自分の心と行動で決まります。修行僧は、人を導く正しい行動によって悪の心をもった夫の攻撃を防ぐことができました。また、いつもいやしく、だらけた心、不正直な心、人のことを考えない心を持っていると、すぐに怒りの心が沸き起こり、それと同時にちょっとしたことに、恐れの心を抱くような命になってしまいます。妻が死人の姿を見てあんなに驚いたのは、ワガママで意地悪な気もちの分だけ、恐れる気もちが強く生じたからです。
 私たちは、常に目には見えない空気中の酸素を吸って呼吸することができ、生き続けることができます。更に、正しい信仰を行う私たちは、目には見えませんが、いつも御本尊さまが見守って下さり、いざという時、諸天善神の神々が助けに来てくれます。しかし、その信仰がいいかげんだったり、信仰を行っていても、その心が清く正しいものでなかったならば、いつしか仏さまや諸天善神から見捨てられてしまい、ついには守って頂けなくなってしまいます。
 また、人のはく息に色を付ける実験をすると、特に怒っている人の息の色は真っ黒であったということです。また、人の心というのは目つきや顔つきに必ず顕れてしまい、隠すことはできません。やさしい心、人を思いやる心が強い人は、自然と顔つきがやさしくなり、逆にいつもツンツンしたり、自分勝手であったり、人のことを思いやる心がない人は、その顔も険しくなり、目つきも悪くなり、その人の回りの雰囲気も悪くなります。すると、何気無く周りの人たちも、それを感じてしまい自然と離れていってしまいます。皆さんは、そうしたことがないように、多くの人から慕(した)われ、愛され、頼りにされ、自分のもとへ自然と人が集まってくるような雰囲気を出せるように、日ごろからお題目を真剣に唱えて、やさしい心、感謝の心、正直な心を持つことを心掛け、努力していきましょう。