コロナ禍での信心⑧
日蓮正宗では、宗祖日蓮大聖人様御在世当時の鎌倉時代から、現在に至るまでの歴史年表として『富士年表』があります。その『富士年表』には、大聖人様御在世当時の61年間だけを見ても、日本各地で様々な天変地夭や疫病が起きていることが記され、疫病の災禍について、「元仁元年(1224)・幕府 疫病を祈願せしむ」、「康元元年(1256)・鎌倉大風・洪水・疫病流行」、「正元元年(1259)・大飢饉・大疫病」、「文応元年(1260)・諸国疫病止まず」、「建治3年(1277)疫病流行」と、五箇度にわたり疫病流行について記されております。
大聖人様は『安国論御勘由来』に、正元元年の疫病について、「正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還りて飢疫等を増長す」と仰せられ、『立正安国論』を認める要因の一つに挙げられています。
また、建治3年の疫病について『上野殿御返事』に、「去今年は大えき此の国にをこりて、人の死ぬる事大風に木のたうれ、大雪に草のおるヽがごとし。一人ものこるべしともみへず候ひき。(中略)慈悲なければ天も此の国をまぼらず、邪見なれば三宝にもすてられたり。又疫病もしばらくはやみてみえしかども、鬼神かへり入るかのゆへに、北国も東国も西国も南国も、一同にやみなげくよしきこへ候」と仰せになられ、その惨状について『松野殿御返事』に、「去年の春から今年の二月にかけて、国中に疫病が蔓延した。十軒に五軒の人々が、みな病死してしまった。病気にならなかった者であっても、精神的苦痛は極めて過酷であり、その疫病を恐れる姿は、わずらった者よりも一層悲惨であった。生き残った者も、影のように付き添っていた子供に死なれ、二つの眼のように頼りにしていた父母を失ってしまった。これでは生きている意味を、いったい何に求められるというのか。どうして人生を呪わずにおられようか。確かに法華経の譬喩品には『世の中には心から安らぐ場所がない』と説かれているが、それにしても今の状況はあまりにも過酷すぎる(取意)」と仰せになられております。
また『日女御前御返事』には、「今日本国の去年今年の大疫病は何とか心うべき。此を答ふべき様は一には善鬼なり。梵王・帝釈・日月・四天の許されありて法華経の怨を食す。二には悪鬼が第六天の魔王のすヽめによりて法華経を修行する人を食す」と仰せになられ、疫病災禍の原因は善鬼により法華誹謗の謗法を滅するため、また悪鬼が第六天の魔王の指図により、法華経を修行する者を混乱ならしめるためと御教示されております。どちらにせよ、悪鬼や第六天の魔王が世情を混乱せしめるために起こるところの災禍であり、仏法の道理からすれば疫病の災禍は、邪宗謗法の害毒や三毒煩悩により、衆生の悪心高ぶることによって起こるところの災いであることは明確であります。
すなわち今、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大慶事を迎え、いよいよ大聖人様の正法正義がより大きく顕揚されようとしているところに水を差すが如く、悪鬼等がそれを阻止すべく暗躍しているものと拝するところであります。今、世の中は物質文明が大きく発展し精神文明を凌駕し、世間でいうところの格差社会、拝金主義によって、人の心が頗る荒んでいる状況となり、人は皆、眼前の利益や快楽ばかりに執着し、形ばかりの幸福を求め奔走し、逆に不幸な人生を招いていると言っても過言ではありません。更に、新興宗教等の跋扈によって拍車をかけ、世情の悪化著しいものとなっております。
本来、私たちは三世の生命に立脚した正しい倫理道徳に基づき、その道義を説く正しい仏教に帰依し、清く尊く毎日の日々を送るべきであり、大聖人様は『聖愚問答抄』に、「小野小町・衣通姫が花の姿も無常の風にちり、樊噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。(中略)先亡後滅の理、始めて驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり」と仰せのように、世界三大美女の1人である小野小町や、本朝三美人、平安時代の三大美人とされる衣通姫であっても、諸行無常生者必滅の風に散り去り、中国前漢を建国した劉邦の家臣である、樊噲や張良が武芸に秀でていたとしても、閻魔法王の部下であり地獄の番人である、獄卒の持つ獄卒棒の前には全く歯が立たないように、いくら絶世の美女であろうが武道の達人であろうが、現代におけるスポーツマンや天才学者、カリスマ経営者など、いかに世間に名を馳せる人々であったとしても、その非凡な才能をもってしても、一期生を終え臨終を迎えたならば、成仏得道への道には何一つ役立たないことを言われております。
だからこそ、大聖人様は『妙法尼御前御返事』に、「人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と仰せになられており、生を受けた誰しもが必ず迎える臨終という今生現世の最期を迎えるに当たり、ましてやそれをいつ迎えるかわからない人生を送るなか、まずは成仏得道への正しい道を習い求め、その道義に基づく人生の歩みを進めて行くことが肝要であります。
大聖人様は『松野殿御返事』に、「然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」と仰せであります。
末法唯一無二の正法正義である宗祖日蓮大聖人がお説き遊ばされた、自行化他に亘る南無妙法蓮華経のお題目を日々無二無三に唱え、功徳利益を積み累ねて身心を浄化矯正し境界を高め、悪縁を絶ちきり三毒煩悩の垢を払い落とすことが、まずもって大事大切なことであります。そして、信心が深くなればなるほど、世間の出来事、自身の振るまい一つ一つを正しく見極めることができるようになり、御本尊様より真実本懐の喜びを享受することができるようになります。そして、毎日の生活においても、少欲知足にして無用な喜び、楽しみを慎むようになり、世の中のありとあらゆる方々の真の幸福を願い、正法に帰依せしめる力を授かり、不幸な人生に堕して悩める方々、邪宗謗法の害毒に悩み苦しんでいる方々に対して、勇猛果敢に破邪顕正の信心に住することによって、科学において解明されている宇宙の歴史を超越した、久遠五百塵点刧という遥かなる歴史を有する仏教史における正法流通の歴史のもと、純粋無垢の仏法の教義の真髄を修行し、更なる広大無辺不可思議偉大なる功徳利益を御本尊様より享受できるような境界になることができるようになります。
世の中には新興宗教はもとより、あらゆる外道、仏教各宗各派がありますが、成仏得道という人生最大の本懐を成就するには、仏教の正しい歴史と道理に基づく真の教えでなければ、誤った教えを信仰しても功徳利益も無ければ、逆に不幸な人生へと没落する因縁を築いてしまいます。それだけ、仏さまの教えは厳しいものであります。更に、人として生を受けることがいかに稀であり、更に正しい仏さまの教えに縁することが如何に難しいことかは、数々のお釈迦様の経典や大聖人様の御教示に示されているところであります。
それ故、いつの時代も悪の教義を説く邪宗が出現し、正しい人生の道義を知らない人々の行業によって、天変地夭なる自然災害が起こり疫病の蔓延が惹起し、人々を苦しめるのであります。令和の今日も同様であり、私たちは今こそ師子奮迅なる信行の実践によって、1人の力は微力であっても日蓮正宗僧俗全員が異体同心して世情の浄化矯正に努めれば、必ずコロナ禍をはじめ、世の中が良い方向へと大きく変わっていくこと間違いありません。どうか、その意とするところをお汲み頂き、本年残すところ4ヶ月、コロナ禍によって騒然とする世情を鑑み、今何をすべきかは申すまでもありません。そして、自分自身がその災禍に陥ることがないよう、自身を戒め更なる信行倍増福徳増進に努められますよう心より念願いたします。