そ こ に 正 義 は あ る の か ? ~成仏への道と真の幸せを求めて~

 仏教では、この世に生を受けた者は、誰しもが母親の胎内(たいない)に宿(やど)った時点から已(すで)に人生が始まり、母胎(ぼたい)から出(い)でて赤児(あかご)として生を受けたならば、日々成長を遂げながら、最後、臨終に向かって日常生活を送ることが説かれております。インドに誕生されたお釈迦(しやか)さまは、その人生を生(しよう)・老(ろう)・病(びよう)・死(し)の四つの苦しみ、いわゆる四苦(しく)を説かれ、そもそも生きること自体が苦しみそのものであると説かれ、更に『心地観経(しんちかんぎよう)』というお経典には、「過去の因を知らんと欲(ほつ)せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」とあり、誰もが過去世の業因(ごういん)によって今生現世(こんじようげんせ)の果報を被(こうむ)り、今生現世における行業(ぎようごう)がまた未来世への因縁となることを説かれました。これを「三世の生命と宿業の存続」といい、善くも悪くも宿業とは、過去世から現在世、そして未来世へと存続します。

 よって今生現世における大小様々な幸・不幸、境涯(きようがい)や境遇(きようぐう)、どの国に生まれ、どのような両親・家族のもとに人として生(しよう)を受け、友人知人、親類縁者、婚姻する相手等の縁(えにし)、また大小様々な病気に罹患(りかん)すること、寿命の長短も、すべては過去世からの因縁、宿業によるものであります。たとえば、あらゆる色々の鳥がいるなかでも、カラスの体が黒いことも過去世の業因であります。ましてや決して免(まぬが)れることのできない生者必滅(しようじやひつめつ)の理のなかにおいて、喜怒哀楽(きどあいらく)、艱難辛苦(かんなんしんく)は、必ず自分自身に原因があり、他者から助けられたり被害を被ることもまた、その理法がそこにあるからであります。

 その道理は宇宙法界(うちゆうほうかい)森羅万象(しんらばんしよう)すべてに亘(わた)り、過去・現在・未来の三世(さんぜ)を貫く、善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあつか)の厳然たる因果の法則、宿業の存続によって起こり、この世の中で現在起きている全ての物事もしかるべくして起こり、免(まぬが)れがたきものであります。言うなれば有史(ゆうし)以来今日に至るまで、日本という一国を見ても、実に様々な歴史があり、その中には吉凶あらゆる出来事、特にクローズアップされがちな自然災害や疫病の蔓延(まんえん)、権力争いなどの内乱や戦争等といった天災人災も、起こるべくして起きたことであります。

 そうしたなか、仏教では限られた寿命、与えられた人生『いかに生きるか』を説かれ、私たちが人生を送るなかで、仏教の基本テーゼとなる「諸悪莫作(しよあくまくさ)・衆善奉行(しゆぜんぶぎよう)・自浄其意(じじようごい)・是諸仏教(ぜしよぶつきよう)」という七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という偈文(げぶん)には、「様々な悪行を犯すこと無く多くの善行を行い、自らの心根を浄く持つことが仏様の教えである」ことを説かれております。それは今生現世の善悪それぞれの行業(ぎようごう)が、今後の未来、臨終を終えた後の未来世へと繋(つな)がっていくからであります。

 さて、世の中を見渡し一見すると、不公平不平等(ふびようどう)、独善的偽善的な物事が罷(まか)り通(とお)っているように見えるかもしれませんが、そう見えるのは私たち人間の刹那的(せつなてき)な眼(まなこ)だけであります。すべての人々の人生の総決算は臨終を迎えたその時、自分の身に全てが顕わとなり、またその行く先も業火(ごうか)に焼かれ苦しむ地獄の世界を初めとする、餓鬼(がき)・畜生(ちくしよう)・修羅界(しゆらかい)の三悪道(さんあくどう)四悪趣(しあくしゆ)といわれる苦しみの世界か、それとも心地よい安らぎの風そよめくような、仏さま在(ましま)す霊(りよう)山浄土(ぜんじようど)、常寂光土(じようじやつこうど)へと旅立つか。私たち生きとし生けるものにとって、本来目指すべきところは自身の成仏にあり、その本懐(ほんがい)を成就する為には、日々一喜一憂(いつきいちゆう)することなく、コツコツと善行を修することが肝要であります。いざ臨終を迎え、その後のことを考えたことはありますか?自信をもって成仏できると、信じて疑いませんか?

 今、世間で有名なカリスマホストの某氏の、「もし、このような地位を築ける境遇でなかったらどうしていましたか?」との問いに対し、「次の人生の為に、今生現世でボランティアなどの善行を必死に行い、ひたすら徳を積んで、未来世の為に生きていた(趣意)」との言葉を聞き、この方の思考は実に仏教の道義に近いものがあると感じ、それぞれ道を極めた人というのは、それなりの人生観、目的観をしっかり持っているものと強く感じました。

 私たちは誰しもが平和安穏な毎日を願うと同時に、毎日何を願い、何を思い、何を語り、何を行じているか、瞬く間に時は流れて行きます。そうした一瞬一瞬の日々を、いかに有意義かつ幸せを感じるものへと変えていくか。そもそも幸せの定義は人それぞれでしょうが、一般的に不幸といわれる物事は同様ではないでしょうか?また、一年三六五日、ましてや一生を何の災禍も無く平穏無事(へいおんぶじ)に過ごしていくことは皆無と言えましょう。時には挫折することもあり苦しみ悩むこともあり、何かしらの判断を迫られることもありますが、それこそが人生であります。実際はそうした現実に直面すると、かなり辛いものですが、仏教では、今生に受ける災禍(さいか)は起こるべくして起き、悩むべくして悩むのであり、本来は改変できないものであります。しかし、その現実から目を背けず、逃げず、果敢(かかん)に立ち向かっていくことは容易ではありませんが、唯一、その災禍を乗り越え、起こるべき現実を変えることができるのが、正しい信仰とその功徳利益(くどくりやく)にあります。

 お釈迦さまが説かれた八万宝蔵(はちまんほうぞう)とも言われる、膨大(ぼうだい)な教えが説かれているお経典は、私たち凡人が一生かけても読み切れず、ましてや理解することなど到底無理なことであります。しかしながら、お釈迦さま亡き後に、数々の聖人賢人(しようにんけんじん)がそのお経典を漢訳(かんやく)し解釈(かいしやく)し、わかりやすくまとめられております。とりわけ有名かつ有益な教えを説かれた方として、中国の天台大師(てんだいだいし)や妙楽大師(みようらくだいし)、日本の伝教大師(でんぎようだいし)(最澄(さいちよう))が上げられます。殊(こと)に天台大師はお釈迦さまのお説法を聴聞(ちようもん)されていた薬王菩薩(やくおうぼさつ)の生まれ変わりと言われ、将又(はたまた)伝教大師は天台大師の生まれ変わりと言われています。
 
 特に、天台大師は、お釈迦さまのお説法の内容からそれらのお経典について、その順序や立て分けを明確にされ、一番大事な教えが法華経(ほけきよう)(妙法蓮華経(みようほうれんげきよう))にあることを説かれ、その法華経の概要(がいよう)と深遠(じんのん)な教義について、法華玄義(ほつけげんぎ)・法華文句(ほつけもんぐ)・摩訶止観(まかしかん)の三つの著書にまとめられました。その法華経を紐解(ひもと)くと、お釈迦さま亡き後、最初の千年が正法(しようぼう)時代、次の千年が像法(ぞうぼう)時代、その二千年が過ぎた後、世の中は末法(まつぽう)の時代となり白法隠没(びやくほうおんもつ)の時代、すなわちお釈迦さまが説かれた教えの功徳利益(くどくりやく)がすべて消滅してなくなり、世の中は荒(すさ)んだ時代となり、お釈迦さまの教えをもとに開かれた既存(きぞん)の仏教も、その利益が失(う)せてしまうと説かれています。しかしながら、仏さまは決して無慈悲ではありません。常に私たちの成仏や幸せを願い、その時々に御出現されてきました。お釈迦さまが説かれた仏教はインドから中国、中国から西暦五三八年に朝鮮半島を経由して伝われたとされ、末法の時代は西暦一〇五二年から始まっておりますが、その悪世(あくせ)末法の人々の幸福への道を開かしめる鍵となるのが、上行菩薩(じようぎようぼさつ)という方です。

 お釈迦さまは、末法の時代における人々の救済を、ただお一人、上行菩薩という方に託(たく)されました。また、その教えも法華経の本門(ほんもん)寿量品(じゆりようほん)の文底秘沈(もんていひちん)の大法(たいほう)といわれる深義(じんぎ)、いわゆる南無妙法蓮華経(なんみようほうれんげきよう)の教えであります。すなわち上行菩薩は鎌倉時代の日本に、日蓮大聖人(にちれんだいしようにん)さまとして生まれ変わり、法華経の奧義(おうぎ)とその究極である南無妙法蓮華経の教えを説き弘められ、当時の既存の宗教、特に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱える念仏の教えや、真言宗、禅宗等の教えには利益が無くなり、決して成仏できうる教えではないこと、そうした功徳のない教えを信ずることによって、人々は幸せになるどころか、かえって不幸になる恐ろしさを説かれました。また人々が不幸になればその結果、世間に天変地夭(てんぺんちよう)等の災禍(さいか)、いわゆる自然災害が起こり疫病が流行したり、作物が実らず飢饉(ききん)が起こり、人々を苦しめることを説かれております。つまり、末法の時代は末法に生きる人々のための、究極の法が已(すで)に存在していたのであります。

 以上、仏教の流れ、特に末法のこの時代の正法正義(しようぼうしようぎ)が法華経の深義たる南無妙法蓮華経の教えにあり、私たちが成仏させて頂く、幸福になる唯一の教えであるということを、ごく簡略に説明しました。

 今、世の中は令和の時代となりましたが、大凡(おおよそ)、日本人は、子供が生まれたら神社へお宮参(みやまい)り、七五三も神社へ参り、いざ結婚となると教会で華やかな結婚式を挙げ、身内が亡くなり葬儀や法事といったら近所のお寺に依頼、果たして、どの宗教に帰依しているのでしょうか?神道(しんとう)なのか、キリスト教なのか、仏教徒なのか、それとも別に信仰しているわけではないけど、みんなそうしているから?これは日本人特有の御都合主義で、日本人にとって永遠の課題でしょう。

 そもそも神社については、日光東照宮(につこうとうしようぐう)や太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)、水天宮(すいてんぐう)や稲荷神社(いなりじんじや)、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)等、多くの人がその御神体(ごしんたい)と神社の由来や意味を知らずに、有り難いと思ってお参りしている姿があります。しかし、神社というのは、過去の天皇方や徳川家康公、学文の神様と言われる菅原道真(すがわらのみちざね)、稲荷となるとキツネ、八幡宮(はちまんぐう)になると八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祀(まつ)っております。しかし、人が過去の偉人(いじん)賢人(けんじん)や、犬や猫、ヘビや家畜などと同類の畜生(ちくしよう)と言われるキツネ、本来仏さまの使いであり、仏さまの御指示によって初めて動かれ人々を護(まも)る天照太神(てんしようだいじん)や菩薩方(ぼさつがた)に詣(もう)で参ったところで、果たして何の御利益や御加護があるでしょうか?

 これらは、よくよく調べ考えて見ればわかることであり、ましてや、キリスト教のように、すべては神が創造された産物で、進化論や地動説を否定するなどの歴史を持ち、科学の発展によりその教義が悉(ことごと)く覆(くつがえ)される等、仏教以外の外道(げどう)の教えは論外であります。更に、日本にはあらゆる新興宗教(しんこうしゆうきよう)が蔓延(はびこ)り、そのほとんどが、人の弱みにつけ込むいい加減な教えを説き、信者を洗脳(せんのう)し金品を貪(むさぼ)る悪しき宗教であり、仮に最もと感じるような耳触(みみざわ)りの良い教えを説く宗教であっても、教えの根本や絶対的対象が教祖であったりと、全く筋道が通らないいい加減ものであり、結局不幸から脱却しようとも更に不幸になり悪循環となってしまいます。

 また、私たち令和の時代に生きる人々にとって、「宗教はアヘンと言われているから、あまり深入りすべきではない」という風潮、ましてや「地下鉄サリン事件」を起こす教団や、「政教分離(せいきようぶんり)の法を逸脱(いつだつ)し宗教法人の支持母体を持つ政党」の存在などによって、益々人々は宗教アレルギーとなり、無宗教、無神論者を名乗る方々が増える一方で、世の中は頻発(ひんぱつ)する自然災害に被災し心を打ち拉(ひし)がれ、悪質な事件や事故に巻き込まれ苦しみ喘(あえ)ぎ、心の拠(よ)り所が無く自暴自棄になり心を病(や)んでしまい自ら命を絶つ方や、その思いが捻(ねじ)れ犯罪へと転化してしまう方がいる、このような時代に果たして唯一無二の正義(せいぎ)はあるのか?御慈悲(ごじひ)溢(あふ)れる崇高(すうこう)な存在は果たしてあるのか、と考えることはありませんか?また、自分では、已に対処のしようがなくなってしまい途方に暮れた時、その思いを委ねることのできる、絶対的な心の拠り所とすべき存在はありますか?仮にあったとしても、それが正しいものであると確信をもって言えますか?

 宗教とはまず、文証(もんしよう)・理証(りしよう)・現証(げんしよう)という三つの三原則が揃(そろ)ってこそ、初めて正しい宗教と言えましょう。あらゆる文献(ぶんけん)に則(のつと)り、嘘偽(うそいつわ)りのない筋道の通った道理、そして一番重要なのが結果です。あらゆる宗教が多くあるなかで、この三つの三原則が罷(まか)り通(とお)る宗教がどれだけあるでしょうか?かぎりなくゼロに近いでしょう。また、日蓮宗を名乗る池上・身延等の日蓮宗各派や、日蓮大聖人さまの教えを教団の教義に取り入れる新興宗教も決して少なくありません。実際、日蓮大聖人さまの全ての教えはお弟子の中でも只(ただ)お一人、第二祖日興上人(につこうしようにん)さまへと継承され、その後、第三祖日目上人(にちもくしようにん)さまへと継承されて以来、代々に亘って受けつがれ、令和の今日、その法燈(ほうとう)が脈々と総本山大石寺第六十八世日如上人(にちによしようにん)に厳然として受けつがれております。

 そもそも仏教では、いつの時代も仏・法・僧(ぶつぽうそう)の三宝(さんぼう)を立てております。『日本書紀』に記述され、聖徳太子が制定された憲法十七条のなかには、「二に曰(いわ)く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。ですから、日本という国は、はるか昔から仏教が根付いていると言っても過言ではなく、宗祖日蓮大聖人さまは、末法の御本仏さまのお立場から御自身亡き後のため、その御法魂(ほうこん)を出世(しゆつせ)の本懐(ほんがい)(世に出でた本来の目的)として本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊(だいごほんぞん)さまを顕されました。そして、末法の時代に拝すべき三宝として、仏宝は宗祖日蓮大聖人さま、法宝は本門戒壇の大御本尊さま、僧宝の随一として第二祖日興上人さま、以降御歴代上人もまた僧宝にその名を連ねられています。ですから、私たちは日頃から仏さまとして日蓮大聖人さまを仰ぎ、その仏さまの御法魂として御本尊様を仰ぎ奉ります。

 第二祖日興上人さまは、大御本尊さまをはじめ、大聖人さまの御灰骨(ごはいこつ)ほか、信仰上最も大事な御宝物(ごほうもつ)を、大聖人さまの御遺命(ごゆいめい)によって建立された総本山大石寺(そうほんざんたいせきじ)に移されました。その後、七百五十星霜(せいそう)に亘る月日を経(へ)ても変わらず、大聖人さまの御心(おこころ)のままに、その一切を受けつがれているのが日蓮正宗(にちれんしようしゆう)であります。以前は、日蓮宗富士派(にちれんしゆうふじは)と名乗っていた時代もありましたが、他の日蓮宗と明確に正邪(せいじや)を区別するため、日蓮正宗と改称いたしました。そして、七五〇年の日蓮正宗の歴史には、この世を憂(うれ)い厭(いと)う方々が次々と正法を求め帰依(きえ)せられ、徳川第六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)公や正室・天英院殿御夫妻、備中松山藩藩主・板倉勝澄公、徳島・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)公正室の敬台院殿(きようだいいんでん)、徳川第一三代将軍・徳川家定公正室の天璋院篤姫、そして大正天皇の皇妃である貞明皇后(ていめいこうごう)さまをはじめ、日蓮正宗はその時代時代の大檀越方による外護を受け、総本山大石寺の伽藍(がらん)の建立寄進を受けてきました。特に、総本山大石寺の三門や五重の塔、御影堂等がその代表であります。

 その後、昭和時代には、現在の宗教法人創価学会や顕正会(けんしようかい)(元妙信講(みようしんこう))、正信会という宗教団体も、組織上日蓮正宗の信仰団体としてその名を連ねていましたが、今は全(まつた)く道を異(こと)にする新興宗教異流義(いりゆうぎ)教団となっており、非常に残念ながら、私たちにとっては過去の存在となってしまいました。それでも真実を求め、再び日蓮正宗に帰依する方々は後を絶ちません。

 そして今、文証・理証・現証の三原則を具え、善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあつか)、三世(さんぜ)の生命を説き明かし、現在世・未来世の現当二世(げんとうにせ)に亘る幸福を築く教え、どんな人であっても平等に成仏せしめ、先祖菩提(せんぞぼだい)方全員を必ず成仏に導き、どんな不幸な因縁を持とうとも、信仰の功徳利益(くどくりやく)によってその因縁を断ち切る方途(ほうと)、それらすべてが日蓮大聖人さまの教えに遍(あまね)く網羅(もうら)されております。かといって、そう簡単に「はい、そうですか。わかりました」と、急には言えませんし、納得もできないでしょう。人それぞれ信じるものがあり、受けつがれてきたものもあり、それを否定されることは、あまり快いことではないと思います。

 しかし、「一切は現証に如(し)かず」、どんなに美味(おい)しそうに見える食べ物でも、実際食べてみないとその美味しさや、ただの見かけ倒しであまり美味しくないことが初めてわかるように、信仰というのは実際体験や経験をしてみないと、その有り難さはわかりません。殊(こと)に、日蓮正宗の教えはただの御利益信心(ごりやくしんじん)といった低俗な教えではありません。仏さま、御本尊さまは、どんな人にも平等にその信仰の姿に応じて、功徳利益を与えて下さり、更に強い志を立てれば我が道は大きく開けていきます。また、自らの過去世からの因縁を背負いつつ、万が一悪い結果を生じる悪因があったとしても、その因縁を断ち切るべく、罪障消滅(ざいしようしようめつ)・宿業打開(しゆくごうだかい)の形として、多少の痛みを被りつつも、必ず消滅させることができるのであります。

 そして、一番大切なことは、心の在(あ)りようです。今の世の中で、どこまで心を清く正しく持つことができるか?世のため人のため、どこまで自分自身の心を行動に移せるかどうか。人が喜ぶ姿こそ我が喜び、幸せと感じることができるか。それだけの心の余裕が自分にあるかどうか。気になり、心配ならば今一度、自分の価値観や人生を省みて下さい。そして、夢と希望に満ち溢(あふ)れ未来への不安なく、微笑(ほほえ)み喜んでいる自分を想像して下さい。自分にとって本当に大切なものは何か?自分に足りないもの、必要なものは何か?いざ、判断を迫られた時、正しい道、しかるべき道へと背中を押してくれる存在はあるかどうか。落ち着いて、よく思案をめぐらして下さい。自ずと答えは出てくるはずです。

 世間では「人の不幸は蜜(みつ)の味」と言われますが、これは「蜜の味」と感じるその人自身が一番不幸な姿であります。また、人というのは時に、自分の都合次第で簡単に人を裏切り、嘘をつき、傷つけることもあるでしょう。中には、謙虚(けんきよ)実直(じつちよく)で世間の模範(もはん)となるような人格を具える人もいるでしょう。ですから、持つべき者は真の友であり、そうした友人に巡(めぐ)り会えることこそ、千載一遇(せんざいいちぐう)といっても過言(かごん)ではありません。かといって、全ての人を警戒し疑心暗鬼(ぎしんあんき)になることも行き過ぎかもしれませんし、極(きわ)めて寂(さび)しく悲しいものであります。
 
 要は自分自身が、正しい仏さま御本尊(ごほんぞん)さまのもとで、正しい信仰を持ち努力精進しその功徳によって、まず自分自身が謙虚実直な人となるよう心掛けることです。さすれば、その縁(えにし)によって自(おの)ずとしかるべき人と出会うことができます。更にこれらの道理は、親子となるも夫婦(めおと)となるも宿習(しゆくじゆう)(過去からの因縁)ですから、親の幸・不幸の因縁も必ず子供たちに繋(つな)がり伝播(でんぱ)します。また、「どうも我が家は良くも悪くも、代々同じ道をたどっている」と感じたらならば、それは御先祖からの宿業を背負っていると察して下さい。なかでも、悪の因縁は是が非でも自分の代で断ち切る、まず「正しい教えとその生き方」、「先祖菩提を敬い成仏を願って、弛(たゆ)まず供養すること」、この二点をよくよく銘記して頂きたいと存じます。

 世の中は、「嘘(うそ)、偽(いつわ)り、裏表の姿」が横行(おうこう)しておりますが、仏教では「不正直(ふしようじき)、妄語(もうご)」を非常に嫌います。よって「嘘、偽り、裏表」なく飾らない人生、「利己的(りこてき)な考え、不必要なこだわりや執着(しゆうちやく)」といった我執(がしゆう)を捨て去り、信仰を基軸とし充実した毎日の生活を送ることが大切です。更に全ての私たちの発言行動、心の内面をも、仏さまがすべてを御覧になられている上、また因果応報の理法もそこに具わり、仏さまの御心(みこころ)たる御仏意(ごぶつち)を有り難く感じつつも、正しく恐れることも必要です。つまり、信仰の功徳として幸福の源(みなもと)となる仏さまの御徳(おとく)を頂くに当たって、私たちはお座なりの信心、形ばかりの信心は厳に慎むべきであります。

 また、何が起きたとしても、まずは冷静沈着(れいせいちんちやく)に物事を推(お)し量(はか)れるよう、日々信仰実践の功徳によって人格、命そのものが清浄(しようじよう)になるよう磨き上げ、強靱(きようじん)な精神・忍耐・判断力を身に付け、決して裏切り陥(おとしい)れることのない仏さまにすべてを委(ゆだ)ね託(たく)し、自分の未来をどのように切り開いていくかを考えて下さい。そして、最後臨終を迎えたとき、成仏が適(かな)い仏さまの世界へと旅立つことができるよう、毎日の生活をこの信仰の功徳利益を以て正しく清らかに送り、その努力精進が未来に向かって必ず報われることを確信し、本来、「人としての真の幸せと、正しい人生を全うする道しるべ」が、そこにあることを信じ、疑わないで頂きたいと願って止みません。

 最後に、願わくは多くの人がこの教えを信じ、幸福な人生を歩んで頂きたいと願いますが、信じるか信じないかは御自身で決めることです。ただでさえ宗教となると、ついつい過敏に反応してしまうのが日本人ですから尚更のことだと思います。しかし、私たち日蓮正宗の僧侶や檀信徒は、仏教の道理、筋道、そいて因果応報の恐さをそれぞれが経験納得した上で、この仏法をお勧めしていることを信じて下さい。