御会式・布教講演⑥

 本日は、宗祖日蓮大聖人御会式奉修、誠におめでとうございます。更に佛乗寺支部の皆様におかれましては、九月十七日に早々と、本年の折伏誓願目標を見事完遂され、重ねて御祝い申し上げます。
 本題に入る前に、既にご存じの事と存じますが、新入信者の方々も御参集のことと思いますので、御会式についての御説明を少々申し上げたいと思います。
 御会式とは、宗祖日蓮大聖人様が弘安五年(一二八二年)十月十三日にご入滅遊ばされ、滅不滅・三世常住のお姿を示されたことをお祝いする儀式で、総本山においては御大会と称して、春の御霊宝虫払大法会とともに宗門二大法要の一つであります。
 会式という語はもともと宮中で行なわれた諸法要のことで、この名称をとって当法要にあてたものといわれております。その中でも十月十三日はことに重要な法要なので総本山では古来より御大会と称しております。
 この御会式は、総本山をはじめ日本全国乃至、アメリカ・中南米・ヨーロッパ・東南アジア・アフリカの海外の各寺院でも執り行われ、ともにこの日は桜の花を作って御宝前を荘厳し、立正安国論並びに御申状を奉読致します。
 総本山での御大会は現在十一月二十日御逮夜、二十一日御正当の二日にわたって行なわれますが、これは、太陰暦の十月十三日が、現在の太陽暦で十一月二十一日に当たるからであります。
 さて、弘安五年九月、大聖人様は多くの弟子の中から六老僧を選別し、更にその中でも日興上人をお一人を選ばれて、本門戒壇の大御本尊を付嘱されるとともに、御自身亡き後の門下を統率し、正法正義を後世に伝えていくよう後を託され、『日蓮一期弘法付嘱書』を授与され、大聖人様御所持の仏法の一切を日興上人に血脈相承されました。
 大聖人様が日興上人に相承された理由は、日興上人が数多くの弟子の中でも、大聖人様に対する絶対の帰依と師弟相対の振る舞いをもって常随給仕されたこと、さらには学解の深さや人格の高潔さなど、あらゆる点で群を抜いておられたからにほかなりません。そしてまた、教えを誤りなく後世に伝えるために、唯授一人という仏法の方規に基づき、ただ一人の弟子を選んで相承されたのであります。
 晩年、健康を損なわれていた大聖人様は、弟子たちの熱心な勧めによって、常陸の湯(福島県)へ湯治に向かわれることになり、九月八日、日興上人をはじめとする門弟たちに護られて身延の沢を出発されました。その途次、同月十八日に武州池上(東京都大田区)の地頭・右衛門大夫宗仲の館に到着されました。 大聖人様はこの池上邸において、弟子檀越に対して同月二十五日より、『立正安国論』の講義をされました。この御講義は門下一同に対し、身軽法重・死身弘法の精神をもって、広宣流布の実現に向かって精進せよとの意を込めて行われたものでした。このことより古来より、「大聖人様の御生涯は立正安国論にはじまって立正安国論に終わる」といい伝えられています。
 十月十三日の早朝、大聖人様は御入滅を間近に感じられて、日興上人に対し『身延山付嘱書』を授与され、身延山久遠寺の別当(貫首)を付嘱されました。この『身延山付嘱書』では、唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人に随わない門弟・檀越は、大聖人様の仏法に背く非法の衆・謗法の輩であると厳しく諌められています。
 このように日興上人は、前の『日蓮一期弘法付嘱書』において法体の付嘱を受けられ、また『身延山付嘱書』においては一門の統率者としての付嘱を受けられました。これら二箇の相承は、ともに日興上人を唯授一人・血脈付法、本門弘通の大導師として明確に示しおかれたものです。
 そして、すべての化導と相承を終えられた大聖人様は、池上宗仲邸において大勢の弟子や信徒が読経・唱題申し上げる中、安祥として御入滅あそばされました。
 日興上人お認めの『宗祖御遷化記録』等によると、御入滅は辰の時とあるので今の午前八時頃になりますが、この時は大地が震動し、十月だというのに、庭の桜に時ならぬ花が咲いたと記されています。正に末法の御本仏様の御入滅を、宇宙法界の生命を挙げてこれを惜しむと同時に、永遠不滅・常に私達を御照覧遊ばされる、三世常住の御境界を拝し、お祝い申し上げるべき様相を彷彿として偲ぶことができます。これによって、毎年の御会式には桜の花で御宝前を荘厳し、御祝い申し上げる訳であります。
 一般に日蓮宗他派における御会式といえば、大聖人様のご命日の法要のことと考えていますが、大聖人様を末法の御本仏様と仰ぐ我々日蓮正宗においては、その御入滅は非滅の滅であり、要するに大聖人様の永遠不滅の御本仏様としてのご境界を拝するお喜びの儀式なのであります。それと同時に、御宝前において『立正安国論』並びに御歴代上人の国家諌暁の申状を奉読して、我々法華講衆が法華折伏破権門理の信心を御仏前に表し、日蓮大聖人様の御精神を永遠に厳守して、忍難弘通・広宣流布大願成就達成への精進をお誓い申し上げる、我々日蓮正宗の僧俗にとって、年に一度の非常に大切且つ重要な法要なのであります。
 以上簡単ですが、御会式について一言申し述べさせて頂きました。

 さて、本日は平成二十七年の大佳節へ向けて、私達が信行の実践に取り組むに当たって、「信心の確信」、「求道の一念心」、「時を鑑みる」の三点についてを、少々お話させて頂きたく存じます。
 まず第一に、「信心の確信」についてでありますが、第五十六世日応上人の御指南を紹介させて頂きます。
 「荀(じゆん)子(し)と云う書の中に「短(たん)粳(こう)以て深(じん)井(せい)の泉を汲むべからず」という語がある。此の意は至って深き井戸が有って、外より之れを臨き見れば余りに深き故に、下に水の有るか無かは認めることがならぬ。そこで釣(つる)瓶(べ)を下ろして水を求むるに猶(なお)水あるを知らず、依って此の井戸には水無しと思ひけり。然るに此の井戸に水の無ひのではなく沢山に清(しよう)涼(りよう)の水は有れども、井戸が深ひので我が目の及ばぬと、釣瓶の短くして水迄届かぬとに由って、井戸に水なく枯渇(かわい)たりと思ふたのは、畢(ひつ)竟(きよう)我力の及ばぬからの事であると云(いう)ことを述べた語である。さて此の大法の信仰も亦(また)斯(かく)の如く、自己の信心の目の及ばぬと修行のつるべの短いので、境(きよう)妙(みよう)たる御本尊の清(せい)井(せい)の智水を汲む事が出来ぬことを知らずして、此の井戸に御利益の清水が無いと思ふたのである。」とのお言葉であります。
 これは、深い井戸に清水があるだろうと釣瓶を下ろして水を汲もうとするけれども、あまりに深くて釣瓶が届かないから、この井戸の底にはもう水が無いと思うけれども、実は自分の目で見ることができないことと、釣瓶が短いことによるもので、深い井戸の底には満々と清水が満ちている。これと同じように、信心も釣瓶の修行と信心の確信が無ければ、御本尊様から頂く功徳利益を得ることはできないのであり、決して諦めない、疑わない信行の実践が大事だと仰せになられています。
 御本尊様への確信を持つという事は、御本尊様を信じて最後まで諦めずに自行化他の唱題行に徹し、更に折伏行を倦まず弛ます実践するということであります。
 御法主日如上人猊下は、「唱題の功徳によって、たくましい力と知恵と勇気が湧いてくるのであります。そして私達の発する確信ある一言一言が、必ず相手の心を大きく動かすことになるのであります」と御指南であります。
 折伏や、日常生活における祈りや願いにおいて、いくら一生懸命努力精進しても、なかなか結果が出ないときも当然あります。しかし、信心の確信だけは絶対に失わずにあるべきであります。また、御自身の罪障や宿業、怠惰な信心や我意我見に固執した行(ぎよう)業(ごう)があるならば、結果として諸難、困難が当然自らの報いとなり厳然として顕われてきます。
 大聖人様は『曽谷殿御返事』に、「謗法をせめずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」と仰せになられております。
 更に『念仏無間地獄抄』に、「諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品十四誹も不信を以て体と為せり」とありますように、種々の悪業煩悩を始め、十四誹謗の一々も全ては御本尊様への確信がないこと、不信がもととなって犯してしまう謗法であります。例えば朝晩の勤行をしなかったり、唱題行を怠ったりと、日常生活の忙しさにかまけて、ついつい犯してしまいがちかもしれませんが、これらは全て御本尊様に対する確信の薄さが原因であり、それらは一様に堕地獄の因となって自らの命に刻まれてしまうと大聖人様は、御書の各処に厳しく仰せになられています。ですからこそ常にお題目を真剣に唱え、このような十四誹謗に陥ることなきよう、信を深めていかなければなりません。
 御隠尊日顕上人猊下は、「私自身も、大聖人様が戒められた、?慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、嫉善、恨善という十四誹謗について、常にお題目を唱えつつ、このことに陥らないように、そして皆様と共に本当に正しく大聖人様の仏法を修行させていただくことを祈っておるものであります。この心をもって真の妙法を持っていくことこそが最高の使命であり、また皆様方一人ひとりが大聖人様の南無妙法蓮華経を受けられたことがそのまま、本当に尊い使命の全部であるということをしっかりとお考えいただきたいと思います。そこに、あらゆる日常生活の使命の遂行も、真の幸せの顕現も存すると思うのであります」と御指南されております。
 僧侶であっても、御信徒の立場であっても、信心は年数ではありません。たとえ入信間もない方であっても、この十四誹謗を犯すことなく今この時、心の底から真剣に御本尊様を信じ、お題目を唱えることができる人こそが仏道修行者として最も尊いのであると、このように存じます。

 次に、『求道の一念心』についてであります。
 大聖人様は『崇峻天皇御書』に「人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と仰せであります。
 私達の寿命は正しく、生者必滅の道理のもと、それぞれの因縁に基づいて千差万別であります。その与えられた人生の中で、何に大聖人様の御指南の如く、信心修行の中で名を挙げることができるか。はたまた、おざなりの信心に陥ってしまい、毎日の生活を無為にしていないか。このところをよくよく考えるべきであります。
 具体的には、毎日の朝夕の勤行、唱題を怠りなく実践しているかどうか。世間の垢を払い落とすべく、皆様の帰命依止の道場たる寺院に進んで参詣し、月例の御報恩御講をはじめ、唱題会や座談会等の各行事に積極的に参加し、時間を作っては寺院にて自行化他の唱題行に励んでいるかどうか。そして、何よりも折伏していく気概をしっかりもっているかどうか。折伏行は、私達日蓮正宗の僧俗にとって、広宣流布・平和仏国土実現という宗祖日蓮大聖人様の御遺命成就と、今日の濁乱する世間の浄化矯正、縁ある全ての人をあらゆる苦悩から脱却せめ、人として価値のある尊い人生を全うさせるべき、大慈悲行であります。その他、力のある限り、あらゆる信心修行の実践をおこなっているかどうか。
 特に、先祖供養について申し上げますと、既に亡くなられた方を折伏することはできません。そうした故人に対して、御塔婆を建立し、読経・唱題申し上げ、その功徳を追善回向することは、折伏の意義と相通ずるものがあります。大聖人様も 『上野殿後家尼御返事』に、「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし」と御指南されております。ですから、亡くなられた方々に御本尊様の功徳を回向していくことを、思う存分なさっていくことが肝要であります。
 第五十七世日正上人は、「何事も おのが因果の報いぞと 思う心が仏なりけり」と、お歌お詠みになられています。善きにしろ悪しきにしろ、何事も自らの無始已来に因縁によって然るべき果報を受けていることは、言うまでもありません。
そうした中での信心修行の一つ一つは、皆様が、求めるべくして行っていくべき実践行であります。ですから、御自身の御境界を限り無く開き、勇気と希望に満ち溢れ、活気に満ち溢れ、充実した毎日を送りたいならば、自ら仏道修行を求める一念心が大事大切であります。

 最後に『時を鑑みる』についてであります。
今宗門は、平成二十七年・第二祖日興上人御生誕七百七十年の大佳節を迎えるに当たり、御法主日如上人猊下より賜った平成二十七年・法華講員五十%増の御命題を成就すべく、挙宗一致し全世界全支部において折伏弘教に邁進しております。
 この折伏に当たって日如上人猊下は、「法華経法師品(ほつしほん)には、滅後(釈尊滅後)における弘教の方軌として「衣座室(えざしつ)の三軌」が説かれています。すなわち、「如来の室に入(い)り、如来の衣(ころも)を著(き)、如来の座に坐して、爾(しか)して乃(いま)し四衆の為に広く斯(こ)の経を説くべし」との仰せであります。この衣座室の三軌について要約して申せば、「如来の室に入る」とは、大慈(じ)悲(ひ)の心を起こすこと。すなわち、自らの命の中に衆生救済の慈悲の心を起こすことであります。「如来の衣を著る」とは、柔和(にゆうわ)忍辱(にんにく)の衣を着ること。すなわち、柔和とは素直な心で正法を受け持(たも)つことであり、忍辱とはいかなる侮辱(ぶじよく)・迫害・諸難にも堪え忍ぶこと、つまり世間のいかなる悪口(あつく)・罵詈(めり)・批判・中傷に対しても一切、動揺せず、いかなる逆境でも乗り切っていくことであります。「如来の座に坐す」とは、悠然として一切の煩悩に執(とら)われず、一切の執着に執われず、大聖人の教えを弘通することであり、まさしくそれは不自借身命そのものの修行であります。よって、我らは仏の使いとして、この弘教の三軌を心得て折伏に励むところに、自行の功徳と化他の功徳を具え、最も価値のある一生を過ごすことができるのであります」と仰せになられております。
 この日如上人猊下の御指南を我が身に体し更に、人々の不幸の根源たる無始已来の謗法罪障消滅と宿業の打開は、私達の日頃の弛まざる信行の実践によってのみ適(かな)うことであり、幸福の源は皆様の信力行力によって御本尊様より賜(たまわ)る、不可思議偉大なる仏力法力にあり、その四力(りき)成就によって自(おの)ずと功(く)徳(どく)利(り)益(やく)が皆様の毎日の生活に実証として必ず顕れるのであります。
 ですから今こそ、この「時」ということを鑑み、自行化他の功徳利益を以て、自らの罪障消滅を我が命より搾り出し、宿業を打開すべき時であり、また三障四魔が競い起こる時節でもあります。
 このような因縁のもとにあらゆる諸難、困難が我が身を襲おうとも、生者必滅の道理を達観し、師子奮迅の信心修行に全力を傾注し、全ての障(しよう)礙(げ)を打ち払い乗り越える心根を持(たも)ち、与えられた人生を無為に過ごす事無きよう、御法主日如上人猊下の御指南を心肝に染め、異体同心・一致団結の信心に深く住し、己の我意我見、御(お)座(ざ)形(なり)の信心を普く捨て去り、ただ只管(ひたすら)に自行化他の唱題行を修し、折伏成就の具体的実践に、不惜身命・一意専心、御精進の誠を尽くすべきであります。
 平成二十二年より二十六年に亘る、折伏の五カ年計画の中で本年、平成二十四年は中間の年であり、いわば天王山であります。ですから、本日申し上げました三点についてを、自らの日頃の身口意三業に照らし合わせ省みて頂き、より一層信心強盛に切磋琢磨し、怠惰な信心によって、他の方におきざりにされないように、三障四魔や御自身の障礙に足下をすくわれないように、そしてありとあらゆる諸難、困難にうちひしがれたとしても、決してあきらめず、更なる信行の実践をもって立ち向かう、道心堅固な信心確立の為、本年残すところ二ヶ月となりました今、明年の戦いに向かって、更に平成二十七年の大佳節に向かって、いよいよ精進の誠を尽くして頂き、皆様一人ひとりが自らの生活に現世安穏後生善処の実証を顕して頂きたく念願致す次第であります。
 以上、拙いお話ではありましたが、その意とするところをお汲みいただけることを念願致し、皆様の御健勝と御活躍、法華講佛乗寺支部の益々の御繁栄を心よりお祈り申し上げ、最後に大聖人様の御書の一節を読ませて頂き、本日の法話とさせて頂きます。
 『開目抄』にのたまわく、「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし」
 ご静聴誠に有り難うございました。