御会式・布教講演⑤

 皆さんこんにちは。浦安・浄徳寺の平山信憲でございます。
 本日は、正願寺宗祖日蓮大聖人御会式奉修、おめでとうございます。
 御住職より御会式にて何か話をするようにとの命がございましたので、僭越ではございますが少々御時間を頂戴したいと思います。
 さて皆様は日常生活の中で、これは諸天の御加護に違いないと感じたことはありますでしょうか。
 大聖人様は四条金吾殿御返事に
  ことに法華経の行者をば諸天善神守護す  べきよし、嘱累品にして誓状をたて給ひ、  一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に  見えて守護し給ふは日月天なり。争でか  信をとらざるべき
と仰せですが、毎日朝勤行の初座で観念しております法華守護の諸天善神は、御本尊様にも認められており、私たちが真剣に仏道修行に精進していれば、日常生活の中あらゆる形となって陰に陽に諸天善神の守護が必ず存する、と大聖人様は仰せになられています。
 今から五年前の二〇〇一年九月十一日、当時ニューヨークの妙説寺に在勤しておられた御僧侶が、妙説寺御住職の御子息と法華講のメンバーの方と三人で、今は無きマンハッタンのワールドトレードセンター屋上の展望室に見学に行く予定が、その御僧侶が当日の朝になって急に体調を崩され、結局予定を延期したことによってアルカイダによる自爆テロの被災を免れたというお話があります。
 今日の世相を察すれば、そうした無差別テロはもとより、毎日テレビ新聞等で、様々な奇怪な事件事故、最近では飲酒運転による死亡ひき逃げ事故等が話題になっております。 やはり正法を受持する私達日蓮正宗の僧俗は、こういった時代にあってこそ、諸天の御加護が必ず存する、というよりも、寧ろ四条金吾殿御返事の、
  これにつけてもいよいよ強盛に大信力を  いだし給え。我が運命つきて、諸天守護  なしとうらむる事あるべからず
との御金言にありますように、いざという時諸天の御加護を頂けるような強盛な信心に住することが肝要であります。
 大聖人様は『諸経と法華経と難易の事』に、
仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし。世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり
と御教示のように、今日の世相の悪化は偏に仏法に悉く違背する邪義邪宗が蔓延する今日の日本乃至世界各国の宗教事情に比例するものであり、仏法上では起こるべくして起きているとも言えます。
 しかしながら、大変多くの尊い命が犠牲になっていることは紛れもない事実であり、より一層広宣流布実現の願業に邁進すべき使命を深く感ずるものであります。
 またそうした人災と同じく、最近は世界各地での大地震、大津波、そして台風を初めとする異常気象といった自然災害が顕著となっております。
 仏法には依正不二という御法門があります。これは依報と正報が二にして不二であるということであり、報とは過去の行為の因果の報いの意味で、正報とはこの報を受ける主体である私達衆生のこと、依報とは衆生が拠り所とする環境・国土をいいます。そして依正不二とはこの依正が人と自然環境という二つに分かれて一応は区別できますが、本来は決して分離できない一体のものであるということであります。
 この依正不二の原理からして、天変地夭とも言える今日の自然現象は、明らかに私達衆生の心が汚れているが故に起こるところの果報であります。
 巷では今日起こる様々な天変地夭によって、多くの命と家々が失われ、農作物や家畜等に影響を及ぼし、それによって人の心が荒廃するという解釈も聞きますが、それは仏法の見地からすれば当然誤った考え方であります。そもそも人の心が荒廃することは、本来貪・瞋・痴の三毒強盛の末法の人々が好き勝手に世の中を生きること、またあらゆる似非宗教の誤った教えを信じることによる謗法行為が原因であり、特に平成の今日、邪教と化した創価学会による一連の大謗法行為は、人々の良心をことごとく破壊し、混乱の渦に巻き込む不幸の源と言えます。更に邪宗邪教を信じる人達にもたらす謗法の害毒というのは、私達が思う以上に悲惨な結果をもたらすことを認識しなくてはいけません。
 物事には必ず原因と結果が存在します。ですから悪事をすればそれ相応の悪の果報を受けますが、知ると知らずとにかかわらず、誤ったものを信じ行ずれば、これまた不幸の報いを受けることを私達は世の為、人の為に訴えることが折伏であります。
 仏道修行は気休めでもなければ、困った時の云云でもありません。私達は、いついかなる被害を被るかわからない今日こそ、三世の生命に立脚した正しい人生観・道徳観の認識と、自己に降りかかる善悪様々な現実が全て自分自身に原因があることを把握・理解し、更なる信心修行に励むことが非常に大切でります。その上で、毎日の弛まざる信行の実践により、
南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり
との御金言の如くに、信心の確信とそれを行ずることができる喜びを一人でも多くの人と分かち合うことが大切であります。
 また大聖人様は『曽谷殿御返事』に、
謗法をせめずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し
と仰せであります。
 要するに私達は、自ら謗法を犯さないことは当然のこと、更に進んで謗法を対治することが肝要であり、これこそが自行化他に亘る信心の実践であります。
 しかしながら私達末法の凡夫は三障四魔や過去世から併せ持つ宿業乃至罪障、そして煩悩による用きにより、仏道修行の妨げとなることが多々あり、大聖人様は正法を信行するものの身・口・意三業による謗法として『松野殿御返事』には十四誹謗についてが御教示されています。
 又『念仏無間地獄抄』には、
諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品十四誹も不信を以て体と為せり
とありますように、種々の悪業煩悩を始め、十四誹謗の一々も全ては仏法を信じきれないこと、御本尊様に対する不信がもととなって犯してしまう謗法であります。
 例えば朝晩の勤行をしなかったり、唱題行を怠ったりと、日常生活の忙しさにかまけて、ついつい犯してしまうことがあるかもしれませんが、これらは全て御本尊様に対する信心の薄さが原因であり、それらは一様に堕地獄の因となって自らの命に刻まれてしまうと大聖人様は、御書の各処に厳しく仰せになられています。ですからこそ常にお題目を全身全霊を以て真剣に唱え、十四誹謗を犯すことがなきよう、信を深めていかなければなりません。そしてまた、生まれながらに併せ持つ宿業や罪障は、簡単に消え失せるものではありませんし、それによる自身の境遇や、迷いの根本たる煩悩による誤った行動等、いくらでも不幸の原因とされるものは存在します。
 御隠尊日顕上人猊下の御指南には、
正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なる故に、自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広く豊かで、自然に喜びの心があふれてきます。(中略)対人関係においてもおのずから人々の姿をゆとりを持って正しく見るようになる。また不平・不満や暗い苦悩の生活が、いつとなしに喜びと希望に変わっていく。そこからまた、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません。
とあります。
 この御指南にある姿こそが、私達が信行の実践により培っていくべきものであり、特に信仰の功徳により、煩悩にまみれた命を清浄と化し、心が広く豊かになれば、今迄見えてなかったものが、見えてくるようになり、気づかなかったものに気づくといった、正に六根清浄の果報ともいうべき、日常生活の上での然るべき姿を自分自身で切り開いていくことができるのであります。
 そして御本尊様を拝すれば、皆様から向かって右側の大持国天王の下には不動明王が、左側大毘沙門天王の下には愛染明王がサンスクリット文字でそれぞれ認められております。要するに私達は唱題行の実践により、御本尊様より、何事にも動じない不動の心と、慈愛に満ち溢れた心を頂戴し、我が身を荘厳して頂きたいと思います。
 またその御徳によって、日顕上人猊下御指南の、
すべての存在が常に幸福で安楽でいられることを願いつつ、より強く、より正しい命の実現に向かって進んでいくところに、人間として生まれた本当の意義が存すると思うのであります。(中略)「自分はどのような意味からこの世に生まれ、どのような意義において自分の使命があるのか」ということを自覚すること、そしてその自覚の上から、さらにその使命をしっかりと遂行していくことが大切であります。
との御言葉をしっかりと身に体して頂くことが肝要であります。
 何よりも本年は平成二十一年の大佳節に向けた『決起の年』であります。
 御当代御法主日如上人猊下は、本年正月に行われた決起大会において、
  折伏に当たって我々は、本当に相手を思  う慈悲の心を持っているか。また、いか  なる悪口罵詈・非難中傷・迫害にも屈せ  ず、いかなる逆境でも乗りきっていく決  意を持っているかどうか。一切の執着に  執われず、不自惜身命の断固たる決意を  もって折伏を実践しているかどうか。も  し、折伏が思うようにならないというな  ら、今一度、この三軌に照らして自らの  信心、自行化他の信心の在り方を点検す  べきであります
と、法華経法師品に説かれる「衣座室の三軌」を挙げられ、私達が御命題達成に向けて、折伏に臨むべき姿について御指南されております。特に自行化他の信心に住し、折伏行を実践していくことは大慈悲行の極みであり、広布大願の為、今日の五濁乱漫の様相を呈する社会の悪化矯正の為の、大聖人様より私達に課せられた使命であります。
 私達が折伏を行じていく中で必要なことは、いうまでもなく慈悲の心であります。本当に相手を思う慈悲の気持ちがあるでしょうか。こころの底から慈悲の心が湧き起こる程、唱題行を実践しているでしょうか。
 慈悲とは、そもそもその意味をたどれば、抜苦与楽、苦しみを抜き安楽を与えることであり大聖人様は『報恩抄』に
  日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は  万年の外未来までもながるべし。日本国  の一切衆生の盲目をひらける功徳あり
と仰せであり、『御義口伝』には
  一念三千は抜苦与楽なり
とあります。
 要するに大聖人様が大慈大悲を以てお説き遊ばされた南無妙法蓮華経の大法は、末法の全ての民衆をありとあらゆる苦悩から救済して頂くお力が具わり、私達はその意味をしっかりと拝受し、一人でも多くの人を悩み苦しみから救い出し、勇気と希望をもって与えられた人生を全うすることができるよう勤めなければなりません。
御隠尊日顕上人猊下は、
  仏教の教えにおいては、特に行というこ  とが示されておりまして、もちろん信ず  る心が大切ではありますが、実際その信  の姿を自らの身体に表していくというと  ころに、おのずから大きな功徳が存する  のであります

  皆様方が御承知のとおり、あらゆる宗教  のなかで、唯一、我々が救われる道は日  蓮正宗に伝わるところの日蓮大聖人様の  三大秘法に帰することであります。しか  し、この御法は自らが信心するとともに  他に向かって説いていくという、自行化  他にわたっての行が大事であります。南  無妙法蓮華経と唱えることによって、た  とえ御法門が解らなくとも、生活のなか  に充実した妙法の功徳をおのずと感じて  まいります
と御指南であります。
 世の中に蔓延する邪義邪宗または思想哲学、最近では細木数子や江原啓之といった方々のように、口でたいそうなことはいくらでも言えるでしょうが所詮、誤ったもの如何様なものに人々を救う道理も力もあるはずがなく、かえって不幸のどん底に突き落としかねない元凶であります。
 更に日蓮正宗の信仰を行じる中でも、弛まざる仏道修行の実践が無ければ思うように徳も積まれず、宿業を打開していくこともできません。
 そもそも仏法においては過去現在未来の三世を説き、その中での宿業の存続が説かれております。それ故過去の罪障と因縁により人は思いもかけない苦悩や挫折を味わい、ましてやこの大聖人様の正法に縁することがない限り、その苦悩を根本から解決することはまず不可能であります。
 大聖人様は『弥源太殿御返事』に、
  日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内  者なり。
と仰せでありますように、あらゆる問題の解決の糸口はこの信心にあり、また何よりも現当二世に亘る幸福な境界の確立が重要であり、毎日の弛まざる唱題行無くしては、慶びに満ちあふれる正しい人生の道標は決して顕われてはこないのであります。
 今日の恐るべき天変地夭、全世界に戦乱の渦を引き起こしかねない危機的状況、明日我が身に何が起こるかわからない、狂乱し腐敗する世間において、今この混沌とした社会に一筋の光明を灯し、仏国土を建設するための尊い使命を担っているのが私達法華講衆であります。
 兎にも角にも、冥の照覧と諸天の御加護を確信し、いよいよ三年後に迫った平成二十一年、立正安国論正義顕揚七五〇年の大佳節に向けて、国土の災難を打ち払い、平和仏国土を建設していくためにも、
  魂を奮わす唱題行に思いを込め、勇気と
  思いやりを全ての人に
と深く胸に刻んで頂き、より一層信行に精進されますことをお祈り申し上げる次第であります。
 以上、拙いお話ではありましたが、その意とするところをお汲みいただけることを念願し、皆様の御健勝と御活躍、法華講正願寺支部の益々の御繁栄を心よりお祈り申し上げ、本日の話を終わらせていただきます。
 ご静聴誠に有り難うございました。