〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ①天璋院篤姫 〜

天璋院篤姫
 

(1)

 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んでいた歴史上の方々のことを学びます。私たちの先輩には歴史上の著名人も少なくありません。よく、テレビドラマでは天璋院篤姫のことが取り上げられております。しかし、ドラマですから脚色された部分もあることと思います。脚色された部分が真実であると思われるのも困りものです。そこで今回は、総本山五十一世日英上人が書きとどめてくださった「時時興記留」を拝して、天璋院の信心の姿を学びます。そして、脚色された部分に執われることなく、信心の眼で見るならば、有益なものとなるでしょう。

 ただし、日蓮大聖人様の教えからすれば、将軍の夫人であっても一般庶民であっても成仏の功徳を受けることにおいて違いはありません。無名の人々がいて富士大石寺の七五〇年を守ってきた事実は変わるものではないのです。ですから、ここで取り上げる意味は、日蓮大聖人様の仏法を広く社会に弘める上で、このような人も日蓮正宗の信仰をして功徳を頂いている現証があります、と伝えてゆくことが大切だと考えるからです。

 ことに創価学会の破門以後、真の法華講衆が日蓮正宗富士大石寺の話をすると、必ず「なんだ創価学会のお寺か」といわれます。残念なことに、世間的には新興宗教である創価学会の総本山としか思われていない面があります。そのような人々に、「日蓮正宗の総本山である富士大石寺は、新興宗教ではありません。七五〇年前か富士の麓にそびえ立ち、日蓮大聖人様の教えを正しく伝えているお寺です」と胸をはっていうときに、「過去にはこのような人たちも御信徒でお題目を唱えて功徳を頂いております」と実例を挙げれば、なお一層安心感を相手に与えることが出来るからです。

 ですから、歴史を学ぶことは折伏の上からも大いに意味があることなのです。また、これらの方々も、平成の法華講衆である私たちが、信心の手本としてその名を語り継いでくれることを喜びとされていると思います。折伏の修行を重ねてゆく私たちもやがて歴史の中の一人となります。封建社会の人々とは違い、個人名で語られることはないでしょうが、折伏の功徳を受けることにより、未来に「平成の法華講衆」として記憶され、天璋院たちと同じように、「平成の法華講衆は第六天の魔王の下僕である池田大作と正々堂々と闘い、魔王に魅入られた心を打ち破り富士大石寺の清流を守った」として語られることは間違いありません。

 そのためにも今日の精進が大切です。ともに御本尊様の御照覧を信じ、寒さに震える中にあっても、背筋を伸ばし顔を上げて、真っ直ぐに進みましょう。功徳は真っ直ぐな信心に具わります。春はすぐそこに来ております。

〔総本山五十一世日英上人御説法 「時時興記留」〕
(万延元年一八六〇年十月 於 常泉寺)

 さて、今日法会を幸い、各へ披露いたす事は、恐れ多くも前の大将軍、温恭院様の御台所様、当天璋院様御事。各の兼ねて伺い及ばる通り、その実は薩州齊彬公の姫君にして、御幼名厚姫君様と称し奉り、この御方不思議の御因縁にて、当門流御帰依遊ばされ、八箇年以來、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に御着之有。而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年十一月渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静にて比翼連理の御契り浅からず。御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上上の後も何角と御心掛りの御こと共も在らせられ、之に依り当春三月厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り都合五十一日、朝は暁七つより五つ時迄、(午前四時から午前八時)昼は九つ時より夕七つ頃(午後十二時より午後四時)迄。夜は六つ時より四つ時(午後六時より午後十時)迄。弥よ丹誠を抽し必至の御祈念申し上げる処に不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや。

〔解 説〕

 この文は総本山第五十一世日英上人がお書きになったものです。当時、日英上人は向島の常泉寺に滞在されており、その年のお会式にされたお説法の一部です。平成十七年の夏期講習会のテキストに掲載されておりましたからご記憶の方も多いと思います。「時々興記留」と名前が付けられており、品川の妙光寺に伝えられております。この御文が書かれたのは、万延元年(一八六〇)十月とされております。

 引用いたしましたところは、徳川十三代将軍家定の正室であった天璋院について触れられたところです。天璋院は薩摩二十八代藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛忠煕の養女となってその後に将軍の正室として輿入れをしております。養女からさらに養女となる複雑な経緯を経て、初めて将軍家に相応しい身分を整えることが出来たのです。このことからも、江戸時代の身分制度の厳しさが伝わってきます。

 さて、その天璋院が、「不思議の御因縁」で日蓮正宗富士大石寺の信仰をするようになったことも記されております。入信の動機はどの様なものであったかは想像をする以外にありませんが、おおよそのことは推察することが出来ると思います。

 それは、天璋院の曾祖父が薩摩藩二十五代藩主島津斉宣(なりのぶ)です。その斉宣の弟に八戸南部藩へ養子に入り九代藩主となった南部信順(のぶより)が既に入信をしていたという事実があるからです。天璋院からすれば、大叔父にあたるのでしょうか。そのような縁があっての入信だったことは間違いのないことと思われますです。薩摩からはるばる江戸に出てきた篤姫を見て、江戸城の大奥という特殊な社会に身を投じようとする健気な篤姫に接し、正しい信仰を持たせてやりたい、そして役目を立派にはたすことができるようにという心から、信順は折伏をしたに違いありません。

 天璋院にしてみれば、将軍への輿入れという未知の世界に足を踏み入れる不安は想像を絶するものがあったことでしょう。まして外様大名の島津家の出であれは尚更だったと思われます。近衛家の養女という身分になったとしても。またこの年に、実父の島津忠剛が四十九歳で死去していることも強い縁となったものと思います。この信順の入信については、「八戸法難」の時にお話を致したいと思いますので今日は詳細を申し上げません。

 大叔父の折伏を素直に聞き入れ、晴れて日蓮正宗富士大石寺の信徒として、日蓮大聖人様に見まもられての輿入れが、安政三年十一月十一日でした。翌十二月十八日に家定と婚儀を整えております。ところが、結婚後わずか一年半後の安政五年七月六日に家定は病気のために死去いたしました。この時には養子として迎えていた十四代将軍家茂は十三歳でしたから、天璋院の悲しみ、苦しみは深く、一般庶民とは別の次元での思いがあったことでしょう。

 さらに、翌安政六年には江戸城本丸御殿の焼失があり、さらにまたその翌年、万延元年には三月に桜田門外の変が起こり、騒然とした世上がますます混迷を深める様相でした。

 このような状況の中で、日英上人に御祈念を願い出られたのです。嫁いでからの年数も浅く、年若い子を抱え、さらに外様大名の娘という身分、不安な社会情勢等々。このような状況にあった天璋院にとっては、頼りとするところは御本尊様しかありませんでした。このときの天璋院の心の中を、日英上人は、「厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り」というお言葉でお示し下さっていると拝します。つまり、将軍家の夫人が下々の者と同じような悩みを抱え、日英上人に御指南を仰いだ、とはお書きになれないので、厳しく御祈念を申しつけた、と表現されるのです。実のところは、深い悩みや辛い苦しみの心中を吐露されたということです。そして、日英上人はその願を聞き届けられ、三月十四日から閏三月を経て四月五日までの五十一日間、朝四時間、昼四時間、夜四時間の一日十二時間唱題をされたことがここに記されております。つごう六百十二時間の唱題行になります。日英上人は「必至の御祈念」と仰せです。天璋院の願を受け、日英上人が懸命に祈って下さったのです。『祈祷抄』には、
「祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書一三一四)
とあります。よき師とは、日蓮大聖人様のことです。今日では、大聖人様より唯授一人の御相承を御所時遊ばされる代々の御法主上人がよき師のお立場です。ですからこの当時のよき師は日英上人、よき檀那は天璋院になります。そしてよき法である本門戒壇の大御本尊様に御祈念を申し上げたのですから願が叶わないはずはありません。まさに「願として叶わざるなく」(本尊抄文段・日寛上人)の現証として、「不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」と、天璋院も不思議な功徳を受け、また世の中も平穏になる御利益があったのです。この大きな功徳の現証は、私たちの信心の第一の手本とすべきものです。「不思議な御利益」については次の語句の意味に書いておきました。目を通してください。

〔語句の意味〕

○温恭院-徳川幕府第十三代将軍徳川家定
○薩州斉彬-薩摩藩十一代藩主島津斉彬
○近衛-近衛忠煕をさす。幕末の公家。近衛忠煕(このえただひろ)は第二次大戦中に首相になった近衛文麿(ふみまろ)の祖父。
○比翼連理-「比翼の鳥」と「連理の枝」を略して熟語にしたもので、共に男女の仲の良いことを表す言葉。「比翼の鳥」とは雌雄同体になった中国の想像上の鳥。「連理の枝」は、別々の枝が合わさって一本の枝になること。
○若君様-家定の養子となった第十四代将軍徳川家茂のことと思われる。家茂はこの時十三歳。
○去年御炎上-一八五九年(安政六)焼失した江戸城本丸御殿のこと。
○抽- ちゅうし 選びだす 抜き出す ここでは、心より、との意。
○不思議の御利益-この年の三月三日に桜田門外の変が起こった。幕府権力の象徴である江戸城の門前で、時の大老が暗殺されるという前代未聞の大事件であり、徳川幕府の威信失墜が露わになったものといえる。そして、一挙に倒幕の動きが顕在化する恐れもあった。また、国内情勢の混乱は、ヨーロッパ諸国やアメリカなどの列強による、日本植民地支配の引き金にもなりかねないものでもあった。このような緊迫した社会情勢を和らげるために、さらには、弱体化した幕府を立て直すためにも「公武合体」という考え方が出てきても不思議ではない。天璋院は、前の御台所として「公武合体」を積極的に支持し、天皇家や近衛家に働きかけたものと思われる。年表によれば、延元元年四月に、幕府は孝明天皇の妹である和宮の降嫁を願い出ている。そして、六月頃には内々の同意を得、十月に天皇の許可が下りている。このようなことを考えあわすと、不思議の御利益とは、公武合体が実り、国内の和平の瑞が見えたことをさしているのではないかと思われる。次下の「追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」との御文は、政治が安定することにより、国民も平穏な心をもつことが出来る上から、お互いに有難いことではないか、と仰せられたのであると拝する。

〔天璋院略年表〕

天保六年(一八三五) 一歳。 十二月、薩摩藩島津家分家、今和泉藩主・島津忠剛の長女として生まれる。一子(かつこ)命名。
弘化三年(一八四六) 十二歳。孝明天皇皇位継承。閏五月、和宮誕生。
嘉永四年(一八五一) 十七歳。島津斉彬薩摩藩主となる。
嘉永六年(一八五三) 十九歳。三月、島津斉彬の養女となる。篤姫と改名。八月、鹿児島を出発し、江戸の芝藩邸に入る。
徳川家定、十三代将軍になる。
安政元年(一八五四) 二十歳 八戸藩主南部信順(天璋院祖父・薩摩藩二十六代藩主島津斉宣〔なりのぶ〕弟)が江戸において入信。天璋院の入信もこの頃と思われる。
実父島津忠剛死去(四十九歳)。
安政三年(一八五六) 二十二歳。近衛忠煕(ただひろ)の養女となる。篤子と改名。一二月一八日婚礼。
安政五年(一八五八) 二十四歳。徳川家定死去(三十五歳)。井伊直弼大老就任。安政の大獄。島津斉彬死去(五十歳)。
天璋院と号し、従三位に叙任される。
徳川家茂第十四代将軍となる。
安政六年(一八五九) 二十五歳。江戸城本丸御殿焼失、天璋院西丸に移る。
万延元年(一八六〇) 二十六歳。三月、桜田門外の変。
三月、御祈念を総本山五十一世日英上人に願い出る。日英上人願い出を受け、三月十四日より五十一日間、一日十二時間の唱題をされる。
四月、幕府、和宮降嫁を朝廷に願い出る。
十月、孝明天皇和宮の降嫁を正式に認める。
文久二年(一八六二) 二十八歳。二月、徳川家茂と和宮の婚儀。生麦事件。
慶応二年(一八六六) 三十二歳。薩長同盟成立。十四代将軍徳川家茂死去(二十一歳)。
十五代将軍に徳川慶喜。
慶応三年(一八六七) 三十三歳。大政奉還。王政復古の大号令。
明治元年(一八六八) 三十四歳。江戸城開城。徳川家達が徳川宗家を相続。江戸が東京と改称。
天璋院、一橋邸に移る。
明治十六年(一八八三) 四十九歳。 東京一橋邸にて死去。

(2)

 総本山東側裏塔中の遠信坊は、江戸時代末期の文久二(一八六二)年六月一五日、日英上人により再々興が果たされました。
 この時の因縁が記された同坊本堂の板御本尊裏書きに、「島津斉彬公は養女篤姫を、首尾良く十三代将軍家定の御台に輿入れさせるため、成就を願い日英上人に金子百両の御供養があった。上人はこれを元に遠信坊を再興した」との内容で、末尾に「斉彬公御法号順聖院殿大檀那と仰ぎ奉る者也」(諸記録第一部一一三)とあります。
 裏書きによれば、薩州公が本宗に帰依したのは、嘉永六(1853)年で、ちょうどペリーが初めて浦賀に訪れた年で、翌安政元年には安政大地震、続く二年には江戸大地震も起き、日本中が大変な騒ぎとなっていた時でした。
 薩州公が、本宗に帰依したいわれは、江戸常泉寺に高野周助という小間物を商う信徒があり、八戸はちのへの南部藩邸に出入りしていました。周助は奥女中の喜佐野きさのを折伏、喜佐野を通じ藩主南部信順のぶゆき公が入信することになったようです。
 南部藩ではかつて弘化元(1844)年、先代藩主の時に阿部喜七など本宗信徒を弾圧した八戸法難があり、その時の逆縁が、信順公の代になって実を結んだ形です。喜佐野は、法難時に本宗信徒への言われなき弾圧があったことも信順公に話しつつ、折伏を成就、入信へ導いたのです。
 信順のぶゆき公の出身は薩摩藩で、南部藩主の後継がいないことから養子に入っていたので、薩摩の斉彬公からすると、祖父の弟、すなわち大叔父に当たる関係です。そこで信順公を通じて、斉彬公に折伏がなされたのか、あるいは信順公を通じて、高野周助が斉彬公へも奨めたのか、経緯は不明ですが、ともあれ二人の藩主は時を同じくして、富士大石寺の信心をすることになりました。
 日英上人の安政元(1854)年10月15日と推定される書簡(諸記録一〇部二三八)には、この年8月の同じ日、斉彬公と信順公へ同時に御本尊をしたため「御兄弟御本尊と申し上げたい」との趣旨を書かれています。また、島津家四人の姫君には御秘符を差し上げ、とりわけ篤姫君には薩州公の願いで、お守り御本尊と常住御本尊を授与し奉ったと明かされ、宗門を厚く外護した天英院様の時代のようになったと喜ばれています。
 さらに翌年薩州公が帰国の道すがら、大石寺に参詣されるとの噂も出ていること、出府した上で、薩摩にも一箇寺建立を願おうともあります。
薩州公は、翌年頃より篤姫婚儀の関係で帰国は延期され、大石寺参詣も叶わなかったのですが、篤姫をはじめ薩州公四人の姫君が、みな入信していたことは明かです。
こうして篤姫は、安政三(1856)年12月18日、無事家定公の御台となったものの、夫君は生来病弱であり、安政五年七月には薨去(こうきょ)され、篤姫は落飾して天璋院(てんしょういん)と号されます。
 十四代将軍を嗣いだのは、大老井伊直弼なおすけ等の押した紀州家出身の家茂いえもちでした。しかし水戸家出身の慶喜よしのぶ(のち一五代)を押す勢力との継嗣争いは続きます。天璋院は本丸に残り、江戸城開城まで数千人いたと言われる大奥の人々をとりまとめる手腕を発揮、後世への語り草となりました。
 気丈な天璋院といえ、夫君を喪った同じ年に、義父斉彬公の卒去にも遭い、無常観は一層つのります。世上は開国か攘夷かでゆれ動き、万延元(1860)年には桜田門外の変も起きました。この年、天璋院は帰依した日英上人に、天下安全の祈祷と法華経一巻書写を申し出られています。
 日英上人は、3月14日より翌閏三月を越えて4月5日までの51日間、1日12時間の唱題をもって御祈念されたところ、次第に世上は穏やかになり、喜ばれた天璋院は、お礼に金子百両と種々の品を添え、日英上人の許へ御供養として届けられています。薩摩藩奥女中「小野嶋」の手紙(常泉寺文書)から知られる事実です。
以後幕府は崩壊の道をたどり、天璋院が宗門外護をする機会も失われました。明治16年、天璋院が49歳で薨去されたとき、御隠尊日霑上人が追悼の歌を詠まれています。
   雪霜に 操たゆまな松か枝乃
      あわれ玉ちる 志賀乃浦かせ 妙道