転重軽受

 末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の御一生の御化導の究極は、末法尽(じん)未来際にわたり一切衆生を悉(ことごと)く成仏の境界(きょうがい)に至らしめる為の、本門戒壇の大御本尊様御図顕であります。
 故に我々日蓮正宗の僧俗は、その畢竟(ひっきょう)とするところを拝し奉り、自行化他にわたる仏道修行の実践による離苦得楽(りくとくらく)、現世安穏・後生善処の境界の確立を目指し、日夜精進しているのであります。
 しかしながら二十一世紀を迎えた今日、世間では物質文明の目まぐるしい発達により、人は物の豊かさの追求に奔走(ほんそう)し、結果、地球規模の環境破壊、政財界の汚職、金融機関の破綻、青少年による凶悪犯罪、加えて全世界他民族間による争い等、更にありとあらゆる邪義邪宗の跋扈(ばっこ)による様々な謗法の姿と精神文明の没落等、正に混迷の極みとして五濁悪世(ごじょくあくせ)の腐敗した世相を現じています。
 仏教では末法(まっぽう)におけるこのような濁乱した世間も概(おおむ)ね説かれていますが、そもそも私達がこの時代に生まれ合わせることすら、人知を遙かに超えた十界互具・一念三千という、仏様の悟った真理に包含(ほうがん)されるところであります。要するに、生まれてくる時代、国土、両親とその家系等、それぞれありとあらゆる可能性があり、気が付けば五陰仮和合(ごおんけわごう)の我が身が存在しているのであります。
 そして、その存在する自身の寿命の長短、性格や才能、容姿、貧富等の差別があり、決して同じ境遇で生まれてくることは皆無と言えます。
 これらの事を世間では、「偶然」や「運命」「宿命」と片付け、ややもすればその「運命」が思わぬ苦しみや深い悲しみを生じ、人は「あきらめ」「逃げ」「犯罪」へと向かっていくのであります。
 しかし、仏法では三世を説きますが故に大聖人様は『開目抄』に、
心地観経(しんちかんぎょう)に云はく「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」等云云
と仰せになられ、今世の宿命は自己の過去世における、身口意三業によって積み重ねてきた果報に他ならないのであります。それと共に現在をいかに生きるかによって、現当二世に亘る未来が決定されるのであります。
 こうした「宿命」を形成する要素を仏法では、「業」乃至「宿業」と説き、それは己の身口意の三業により蓄積されたものを意味します。
 つまり過去・現在・未来の三世に亘って、原因結果の因果の理法が厳然として具わり、『佐渡御書』の、
経文を見候へば、烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし
と、普段何気なく空を飛んでいる鳥の色さえも、過去世の業による果報であると仰せになられています。
 そして過去の業因によって現在の結果が定められ、それが仮にも悪因悪果となり、現世において逃れがたき悩みや苦しみとなって我が身に顕れた時、世間では只「不幸」としか片付けられず、苦悩の道へと引き込まれるのでありますが、その為にも大聖人様は末法の迷いの衆生に対し、「因果倶時不思議の一法」を説き明かされ、転重軽受の法門へと展開されたのであります。
 さて転重軽受とは「重きを転じて軽く受く」と読み、主に涅槃経(ねはんぎょう)に説かれていますが、末法の今日においてその意義を拝するならば、妙法の受持信行による功徳力(くどくりき)により、定められし宿業を転じて軽く受け尽くし、現当二世に亘って安穏なる境界を確立させることであります。
 お釈迦様は、四門出遊(しもんしゅつゆう)により達観されたとする生・老・病・死の四苦を如何に超克するかを問題にし、煩悩に覆い尽くされた衆生の心に観点を置いて衆生を教化され、仏教の初門であります小乗の法門では「諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の三法印乃至四法印を基本テーゼに、四諦・十二因縁等の縁起説を説き顕すことにより、宇宙法界において森羅万象に亘る一切諸法が三世に亘り、全てが因縁によって刹那的に有為転変(ういてんぺん)する生滅の法であることを説き明かされています。いわゆる衆生の三世に亘る生命が説き明かされ、同時にそれが己の身口意三業の成すところの因縁果報であり、小乗の経典には、衆生が様々な悩みや苦しみを引き起こす原因として、貪・瞋・痴の三毒強盛(さんどくごうじょう)なる煩悩が色濃く染まった汚れた心を挙げ、その心を浄化することによって悩みから開放されることを説かれています。
 そして釈尊出世の本懐たる法華経に至っては、この因果の法理の究極として、一念三千の法理の基となる十如実相が開顕され、因縁果報による相・性・体の差別相が説き明かされるのであります。
 さて、こうした因縁生起によって刹那的に流転する一切諸法が遍満する宇宙法界において、我々末法の衆生はあらゆる過去世の宿業により今世に生を受け、又今世の宿業により未来世の生が決定されるのでありますが、そのような三世の生命の中、大凡迷いの姿として避けては通れないのが、悪業の果報であります。大聖人様は『女人成仏抄』に、
然るに一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒(もうそうてんどう)の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し。されば経文には「一人一日の中に八億四千の念あり。念々の中に作(な)す所皆是三途の業なり」等云云。我等衆生、三界二十五有のちまたに輪回(りんね)せし事、鳥の林に移るが如く、死しては生じ、生じては死し、車の場に回るが如く、始め終はりもなく、死し生ずる悪業深重の衆生なり     
と、我々末法の衆生の命がいかに汚れ、その欲望渦巻く煩悩に操られた心によって、悪業を積み重ね日に日に悪因を増殖させ、その先には悪業の果報が待ち受けているのであると仰せになり、ましてや日々に三途の悪業を自然と積んでいるのであり、まさに十悪五逆の悪業深重の衆生であると断じられています。
 この十悪とは、身口意三業に振り分けて、身業の三悪として「殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)」、口業の四悪として「妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)」、意業の三悪として「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)」の十種の悪業であり、五逆とは堕地獄必定とされる「殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺阿羅漢(しあらかん)・出仏身血(すいぶっしんけつ)・破和合僧(はわごうそう)」をいいますが、特に今日の世情を察すれば、これらの悪業が現実的にマスメディア等によって絶えず報道されており、仏様が説かれた教えが嘘偽りないことが拝察されます。
 さて、業には善・悪それぞれの因があり果がありますが、大聖人様御教示の如く大凡積まれるのは悪因でありそれによって悪果を受けることは必定であります。
 大聖人様は『可延定業御書』に、
業に二あり。一には定業(じょうごう)、二には不定業(ふじょうごう)。定業すら能く能く懺悔(ざんげ)すれば必ず消滅す。何に況(いわ)んや不定業をや
と、業には定業と不定業の二種があると仰せであります。
 まず定業とは、現在の宿命・宿業の中で、前世よりの業因・業縁によって、既に果報を受ける事、あるいは果報を受ける時期がはっきりと定まっており改変できない業因のことであり、不定業とは、果報を受けることやその時期が明確に定まっておらず、自他の功徳や善業により改められる業因のことであります。
 よって、現在の果報は今生にその因を作ったものか、あるいは過去世に作ったものなのかははっきりしませんが、いずれにしろその時既に「定業」として定められ、今此の所に果報として出てきたものであり、善因は善果を、悪因は悪果を招き出しているのであります。それと同時に、現在は現在で刹那的に未来の因を作り、たちどころにその結果が顕れるか、あるいは近い将来、はたまた未来世においてその果報を受ける可能性があります。
 故に仏法では過去・現在・未来の三世に亘っての平等なる生命と宿業の相続が説かれると共に、又その中に差別相が宿世の因縁によって厳然として現ぜられるのであります。
 次に不定業について、種々の縁に随って果報を受けることもあり、受けないこともある業のことであります。
 特に人それぞれによって二種の可能性があり、一つには悪縁によって本来受けなくてもいい悪業の果報を受け、現在にて受けるべき果報も次生・未来世にもちこされ、軽き悪業の果報も重き極悪深重の果報にしてしまい、人間界にて受けるべき果報を地獄界に落ちてて受ける人であります。
 二つには、本来定業であるべき果報を不定業に変え、次生に受けるべき果報を現世に呼び込み、重いはずの果報も軽く受け、地獄界に堕して受けるべき果報を人間界にて軽く受ける人との、二通りの可能性であります。
 要するに不定業とは、そもそも果報を受けることや時期が定まっていないのでありますが、それが悪縁によって、更に重き果報として受けるか、逆に自己の善因や功徳により、本来重き果報を軽く受ける等、それぞれの因縁によって転変する不定の業なのであります。
 しかしながら我々末法の衆生にとって、己の受けるべき定・不定の業果は、自身の認知しうる範疇(はんちゅう)ではなく、只先述の因果の理法に説かれる、現在の受けた果報によってその過去の因が認識でき、未来の果報を知るならば、現在の自身の身口意三業に亘る行業を見ることによって、その因果を把握するに至るのであります。
 いずれにせよ現在世に鋼の如く固執する末法の衆生は、これらの理法を知ることもなく、誤った道徳観・価値観により、只管に今ここにおける幸福を追いかけて、只煩悩・業・苦の三道を彷徨(さまよ)い歩き、仮にも不幸な境界を受けた人々はそれを偶然の運命と捉え、「悲しい」「苦しい」と悩み、そこから「挫折」「逃げ」「犯罪」へと転化していくのであります。
 さて我々末法の衆生には、それぞれ業を背負って現世に生を受けるのでありますが、それだけではなく、誰にでも煩悩が生命の奥底に潜在し、そこから様々な欲望等が湧き起こることにより、種々の悪業を引き起こし、その悪業によって先述の定業・不定業等の苦しみの姿が顕れるのであります。
 しかしながらお釈迦様は衆生救済の為に数多くの経典とその本懐として法華経を説き示し、末法に至っては日蓮大聖人様が、三大秘法の弘通と、その本懐究竟とする本門戒壇の大御本尊様を御図顕遊ばされたのであります。
 故に五濁悪世に身を置く末法の衆生は、大聖人様仰せの如くに妙法の受持信行により、迷いの根本たる煩悩の対治と自己の罪障消滅乃至懺悔滅罪に精進せねばならないのであります。
 凡そ小乗経を初めとする爾前経(にぜんぎょう)において、煩悩についてはただ悟りを得る為の障礙(しょうげ)、妨げとしか捉えられず、小乗経においては灰身滅智(けしんめっち)、即ち我が身を自ら滅することにより、煩悩を断滅させ寂静なる涅槃を得ることがその極みとされ、更に釈尊出世の本懐たる法華経においては、煩悩即菩提の法門へと展開されるのであります。大聖人様は『始聞仏乗義』に、
今法華経に値ひて三道即三徳となるなり
と仰せになられています。
 つまり大聖人様の文底下種仏法においては、煩悩を断ずるのではなく、妙法の受持信行により煩悩を菩提へと転ずることを説かれるのであります。
 即ち『当体義抄』に、
正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居(しょご)・身土(しんど)・色心・倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身(むささんじん)、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり          
とあり『御講聞書』には、
法華経に値ひ奉りて南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する
と仰せの如く、我々が御本尊様に対して南無し奉り、境智冥合(きょうちみょうごう)・感応道交(かんのうどうこう)することにより私たち九界の生命が仏界へと開き、御本尊様より授かる仏智・仏徳により凡夫即極にして、三道転じて三徳となり、はたまた煩悩即菩提へと転ずるのであります。
 大聖人様は『光日房御書』に、
小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ     
と仰せであります。
 要するに、たとえどんなに大さな罪障であっても、正しく懺悔すれば必ず消滅させることが出来うるということであり、宿業打開の活路となるその対処法について、末法における一切衆生懺悔滅罪の法は、大聖人様顕し給うところの三秘総在の本門戒壇の大御本尊に対し奉り、五字七字の題目を唱えることにより境智冥合し、その御本尊様の仏力・法力の力用によって、己の罪障も霜露(そうろ)の如くに消滅せしめるのであり、宗祖大聖人様御一生の御化導中、究竟中の究竟、本懐中の本懐たる弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊様安置し給う本門の戒壇こそが、唯一、末法の衆生懺悔滅罪の処なのであります。
 大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、
人の命は山海空市まぬかれがたき事と定めて候へども、又、定業亦能転の経文もあり。又天台の御釈にも定業をのぶる釈もあり      
と仰せになられています。
 悪業深重なる末法の衆生が、いかなる宿業を背負おうとも、妙法の受持信行に唯一、定業能転・宿業打開への活路となることが明白であります。
 そして『日女御前御返事』の、
此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識(くしき)心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり、此には輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり。此の御本尊も只信心の二字にをさまれり
と、今生における計り知れない罪障をことごとく滅失して、無量の功徳へと転ずることが可能なのは、この御本尊様に対する絶対なる信であり、御本尊様を離れての信心による成仏得道は皆無であるという甚深なる御教示をされています。更に御法主日顕上人猊下は、
大聖人の本懐たる妙法曼荼羅中には、十界の一切が法華経の化導の根元の姿において顕示され、宇宙法界の一切の個性が「南無妙法蓮華経日蓮在判」の修行と悟りの功徳によって妙法の全体と顕れ、従って、ありのまま、個々の姿のままで、法界と一如する眞の成仏を遂げた相が示されている。苦楽、貴賤、貧富等無量の差別の十界の生命のすべてが妙法蓮華経即日蓮の功徳によってその本来に具わる妙法を顕し絶対尊貴の体となる          
と仰せになられていますように、末法濁世の闇夜に煩悩・業・苦の三道を彷徨う一切衆生に対し、正に一筋の月光が足下を照らすが如く、大聖人様御図顕の大曼荼羅には、有り難くもそれだけの仏力・法力の力用が具わっているのであります。
さて大聖人様は『転重軽受法門』に、
涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候  
と仰せであります。
 すなわち転重軽受とは、過去世の悪業による深い罪障が尽きることなく、未来永劫に苦しみの境界を受けなければならないところを、今生現世に正法を信受し、進んでさまざまな難にあうことによって、未来永劫の重い宿業・罪障を転じて、今生一世において軽く受け尽くし、消滅しきっていくことができ、更に四悪趣(しあくしゅ)の因果を離れ、人・天乃至三乗・一仏乗の益を受けることができるとの御教示であります。
 そもそも正法を受持信行するということは、様々な功徳を積むことであり、苦悩の生命が幸福へと向かって、回転向上し、精神的・物質的安楽を得ることを願うものでありますが、三世の因果の理法により、人それぞれありとあらゆる宿業乃至罪障を己の命に刻んでいるのも事実であり、その悪業を今世に消滅し、現世安穏・後生善処の境界を得ることこそが現当二世に亘って願うべきものであります。
 そのためにも、この転重軽受の法門にあるように、過去世の悪因による重い苦しみの果報を今生にて軽く受け尽くし、未来世に土産として持参せぬよう信行に励み、またその因縁を深く拝受することが肝要であります。
 さてこの転重軽受には「智慧の力」「修善(しゅぜん)の功徳」「護法の功徳力(りき)」の三義が説かれています。
 一に「智慧の力」とは、智慧がある人はその智慧力をもって、定業として定められた地獄極重の果報を現世において不定業として軽く転じ、愚癡(ぐち)の人は、逆に不定業として定められた軽き業の果報を定業に転じ、地獄界において極重の苦しみを受けるということです。
 二に「修善の功徳」とは、身口意三業による善業を修することにより、それが善因となり本来受けるべき地獄の果報を転重軽受しうることであります。
 そして三に「護法の功徳力」とは「護法の功徳」によりその罪報を軽く受けることができることであります。この三つの中でも大聖人様は特に第三の「護法の功徳力」に主眼をおかれています。
 重い宿業であれば重い報いを受けることは、仏法の因果の法理からして当然でありますが、その地獄極重の果報も「護法」つまり正法を信じ、護持していくところに仏法の功徳として、転重軽受の果報が必ず顕れてくるのであります。
 そもそも大聖人様の文底下種仏法は末法の一切衆生即身成仏ならしめる唯一無二の正法であり、先程も述べましたがこの正法を受持信行すれば物質的・精神的安楽と幸福が得られるはずであるのに、いざ信仰がはじまると人それぞれ千差万別ではありますが、功徳とは裏腹に何らかの苦に遭遇することが多々ありゆるのであります。仮にそれが病気であり、経済苦であり、人間関係、そして死であるかもしれません。御法主日顕上人猊下は、
正法を受持したことが縁となって、様々の苦難が現れるのではあるが、それは自らの過去の謗法の業因によるのであり、むしろ現在の正法信仰の功徳によって、軽く受けて罪障を消滅する因縁が生じていることを知って喜ばなければならない。これが大聖人の仰せの転重軽受の功徳である
と御指南されています。
 要するに大聖人様御一生の御化導において、古来より「大難四箇度小難数知れず」といわれますように、大聖人様が法華経を弘めんとするが故に、龍ノ口の頚の座をはじめ伊豆・佐渡の流難等、時の権力者からの理不尽極まりない迫害乃至邪義邪宗の大聖人様に対する軽賤憎嫉等、正に勧持品の「数々見擯出」の経文の如くにありとあらゆる法難を、法華経の行者としての振る舞いたる「法華経身読」の実践により、御身にお受け遊ばされたのであります。
 これらの法難について大聖人様は、
今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし
とお示しであります。又『転重軽受法門』には、
不軽菩薩の悪口罵詈(あっくめり)せられ、杖木瓦礫(じょうもくがりゃく)をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已(ございひっち)」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはんべり
と、不軽菩薩の忍耐の姿を過去世の悪業の滅罪成就であると仰せになり、また大聖人様ご自身各御書に、日本国の謗法・邪宗邪義を強盛に破折することによって、様々な法難にあっているが、かの不軽菩薩と同じくこれは偏に真実の法華経を弘める故に、その功徳力によって過去の重罪が激動し、このような大難に値っているのであり、それはあくまでも過去の重罪を転じて、現在、軽く受けていると御教示されています。
 又、末法の今日文底下種仏法を行ずるにあたって『兄弟抄』には、
此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ
と、正法を行ずるが故に、必ず三障四魔が紛然として競い起こることが明示されています。正に末法の今日における悪業の果報乃至苦悩の根本的解決を実践することにより、煩悩障・業障・報障の三障、即ち貪・瞋・痴の三毒による内からの障りや外部からの障り、且つ陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔の四魔が強盛に競い起こってくることを、大聖人様は御自身の修行の姿として挙げられています。
 そして『御義口伝』に、
末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり    
『椎地四郎殿御書』に、
大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし         
と、あらゆる難が出来し魔が競いおこることこそ、唯一無二の正法であるが故に、それを安楽と心得、法悦として受け止めることが大事大切であり、又転重軽受の果報であることを覚知することが肝要であります。
 そして何よりも、今日の自分を形成する業の果報は身に覚えがなくとも、自分自身の過去の行業の最たる結果なのであり、その今ある事実を現実としっかり受け止めて、己の宿業による果報によって耐え難い苦悩がこようとも、又三障四魔のはたらきに驚かされようとも、強盛なる信心によりそれを乗り越える心根を保つことが、現当二世にわたって安穏なる境界を確立する処方であると堅く信ずるべきであります。
 平成二十一年、立正安国論正義顕揚七百五十年の大佳節に向かい僧俗和合し日々精進する今日、世情を察すれば殺伐とした混迷の姿が浮彫にされ、ありとあらゆる不可解な世間法を醸しだしています。
 このような五濁乱漫たる世相の中で、世間の人々は無知迷妄にして正に煩悩の操り人形の如く、因果の理法を知らずに、世間の流行に左右され、自己の赴くままに今生を営み、悪業の果報を招いているのであります。
 言うなれば人間というのは、自分の目に見えるものしか信じることができず、『日女御前御返事』に、
闇の中に影あり、人此をみず。虚空(こくう)に鳥の飛跡あり、人此をみず。大海に魚の道あり、人これをみず。月の中に四天下の人物一もかけず、人此をみず。而りといへども天眼は此をみる
と、所詮我々凡夫の眼には、空中上の鳥の飛んだ跡や水中の魚の道等、見えぬべきものが数多く存するのであります。ましてや自分の生まれてきた因縁も、背負っている宿業も知らず、これから来るべき己の果報も自分自身で観知することなど到底できないのでありますが故に、『御義口伝下』に、
功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり     
と仰せのように、妙法受持の功徳により我々末法の衆生の濁り切った生命を六根清浄の果報により浄化し、正しい人生を全うすることにより、現世安穏・後生善処の幸福な境界を確立し、こうした乱世の中を我々日蓮正宗の僧俗は、大聖人様の仏法による正しい世界観・生命観・道徳論・善悪論等を習い伝え弘教せねばならないのであります。
 兎に角、衆生の生命は珠数の如くに三世をつなげ、決して分断されることなく因果の理法によって差別相を現じながら生死を繰り返すのであり、正しく死とは今生の終わり、新たなる未来世の始まりであり『開目抄』に、
生死を離るゝ時は、必ず此の重罪をけしはてゝ出離すべし      
との御教示の如くに、我々末法の衆生の消しがたき宿業を妙法の強盛なる受持信行によって転重軽受し、それによっていかなる難や障魔がこようとも、
我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし
との御金言を深く身に体し、『持妙法華問答抄』の、
寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき
との御教示の如く、妄想顛倒の塵を払い、一切衆生懺悔滅罪の戒法たる唱題行を根本に、自行化他に亘る信行により、己の罪障消滅・宿業転換はもとより、一人でも多くの人が妙法受持を感得し、全世界国境を越えたあらゆる国々において妙法口唱がこだまするよう、身軽法重・死身弘法の精神に則り精進していくことこそ、我々日蓮正宗僧俗の使命であり、又そこに我々自身がこの世に存在する価値と意義が存することを申し上げ、結びとする次第であります。