疫病流行について ~新型コロナウイルス感染拡大に対して~ ①
時 事 に 鑑 み て
日柱謹記
我(わが)宗祖日蓮大聖人の一切衆生を憐(れん)愍(みん)し給ふや、「慈(じ)眼(げん)視(じ)衆(しゆ)生(じよう)」なるは勿論、特に一切衆生の一切の苦を受るは、悉く是日蓮一人の苦となし給ひ、常に御身を以てこれが救護に当らせ給ふなり。これが救護を為し給ふには、先づ衆生の棲(せい)息(そく)する国土の安全を期し給ふ。故に『立正安国論』に曰く、「国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先づ四表の静謐を祷るべきものか」(新編249)と。又曰く、「国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん」(新編249)と。又た御書には、「国の亡ぶるが第一の大事」『蒙古使御書』(新編909)等と宣(のたま)ふ。而して其(その)国家の安全を期し給ふには、固(もと)より根本精神的にこれを図らせ給へるなり。
既にそれ災難頻発して国家の亡滅を致すの原因たる悪法を禁止すべきを絶叫して、上下の人に警誡を与へ給ふ。悪法は、善心を殺し、大(たい)義(ぎ)心(しん)を殺す。故にこれを折伏し給ふこと剴(がい)切(せつ)なり。而かも最(さい)尊(そん)無(む)比(び)の正法を弘宣し、且つ国家を安全ならしむる要術を言(げん)行(ぎよう)に示し給ふ。則ち其の御(おん)振(ふる)舞(まい)中の主要は、堂々として三度の御高名に顕はし給へるを以て知るべきなり。
抑も一切衆生の一切の苦を日蓮が苦と宣(のたま)へるは、これ一切衆生の一切の苦を軫(しん)念(ねん)し給ふと同時に、「唯我一人能為救護」の事実を行ふの聖(せい)意(い)を言(げん)明(めい)し給へるなり。故に其(その)言明は必ず実行に顕現し給ふ。則ち不自惜身命の御振舞これなり。就中、其の国諌を為し給ふや、天変地動等の徴相を察して、当に起るべき国難を未萌に明言し、而かも其の国難の来由と、これを恐れざるべからざる所以と、救済の要術とを、併せて教示し給ふ。且つ夫(それ)大聖人一日片時も御身を安(あん)処(しよ)し給はず、不自惜身命に振舞はせ給ふは、これ一日片時も国家及び一切衆生を憐愍し給はずと云ふことなき大慈悲心の発(はつ)現(げん)なり。
抑も亦た大聖人の『立正安国論』並に三度御高名の明言態度は、誠に国家の興亡に対し、捨身国諌の洪(こう)範(はん)なり。其の兼知未萌、明言的中せるは、恰かも掌を指すが如し。而かも実際の国難を、実際に解決し給ふ。若しそれ国家現当の事、『立正安国論』の聖意を以て定規とせば蓋し万(ばん)違(たが)ふことあるなけん。而かも亦た立正安国の聖意を、誠意信念に感得する者は、其の誠意信念は、必ず国家の事に発(はつ)露(ろ)せずには止(や)まざるべし。況や国家有事の時に於てをや。由来今の聖祖門下と称する者、多くは常に大(たい)言(げん)壮語する如きも、実践躬(きゆう)行(ぎよう)に至(いたつ)て欠くる所あるは、これ誠意の足らざるか。又は信念の堅固ならざる故か。それ国家に大事あるに当(あたつ)て、平素の饒舌にも似ず、口を噤(つぐ)むで之に対する要術を説くあるなく、漸(ようや)く事後に至て兎(と)角(かく)の言(げん)辞(じ)を哢(ろう)する如きは、言(ことば)を撰時に仮りて、誠に時機を逸するの憾なきにあらず。
大聖人『立正安国論』に『大集経』を引て曰く、「一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり」(新編237)と。此の一二の者、既に眼前に顕現せり。抑もこれ何の徴相なるか、将た何の結果なるか、況や未曽有の世界大戦乱あるをや。
それ「尺の池には丈の浪たゝず、驢(ろ)吟(ぎん)ずるに風鳴らず」『呵責謗法滅罪抄』(新編715)と。然るに今や大戦乱の怒濤は世界に奔(ほん)騰(とう)し、風雲鳴(めい)動(どう)するに大(だい)龍(りゆう)吟ぜざるの感あり。此の事変を解決すべき偉人出でて要訣を説くなきは、或は泰山鳴動するも僅かに鼠の出るが如きの類(るい)か。
好(よ)し偉人たらずと雖も、国土に起る所の災難が、天罰にあれ、時運にあれ、業感にあれ、其の孰(いず)れなるかを察知し、以て民心をして猛省するの警告をなすべきは、これ立正安国の聖意を奉体する者の精神的責務にあらずや。
抑も泰平明時の世に於て、人心を煽動擾(じよう)乱(らん)せしむるが如き事を為す者は、これ良民にあらず乱賊なり。国家の時難、又は将来憂虞すべき現象あるにも関はらず、唯だ謳歌を粧(よそお)ふ如きは、これ諂(てん)諛(ゆ)の者にして不忠なり。殊に邪法又は悪(あく)風(ふう)潮(ちよう)の浸(しん)染(ぜん)によりて、人心の欠陥を致し、国家の一大事を醸(じよう)成(せい)する事あるを察知しながら、緘(かん)黙(もく)を守るは、教(きよう)家(か)の本分にあらず、又其(その)国難あるに際し、之れに対応するの要術を説くなくんば、平素に説く所の法義は何の為ぞ。余宗は之を措(お)く。『立正安国論』を拝読せる聖祖門下の者、此の際此の時、何の面目あってか大聖人に見へんや。鳴呼滔(とう)々(とう)たる僧侶、『立正安国論』に、「法師は諂曲にして人倫を迷惑す」(新編238)と宣(のたま)へるの徒なるを甘んずる者にはあらざるべし。
大聖人は、其の当時天変地動を以て、国土に謗法充満せるに依ると喝破し、更に一転して、大聖人正法を弘宣し給ふ瑞相なりと示し給ふ。
『呵責謗法滅罪抄』に曰く、「立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛逆難と他国侵逼難起こるべしと勘へたり。此には法華経の流布すべき瑞なりと申す。先後の相違之有るか如何。答へて云はく、汝能く之を問へり。法華経の第四に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」等云云。同第七に況滅度後を重ねて説いて云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云(新編715)。
斯くの如く天変地動を、禍(か)福(ふく)両面より観察応用し給ふすら、既に霊妙の御振舞なるに、乃ち正法を弘宣して、更に亡国の相を変じて、興国の瑞となし給ふ。則ち「法華経の流布すべき瑞なり」とは、興国の瑞なる事を意味するなり。斯(か)く霊妙の御振舞は、例せば良医の能く大毒を変じて良薬と為すが如く、禍を転じて幸となし給ふなり。誠にこれ「慈眼視衆生」の御振舞、一切衆生の一切の苦を、悉く是れ日蓮一人の苦となし給へる大慈大悲の大救主たるの威徳なるによるなり。
古、鵑(けん)声(せい)を聴(きい)て国亡を知り、童謡を聞て民情を察せし例あり。蓋し天地の変妖は、何等かの信号にあらざるなきか。国土に顕現する災難は、国家興亡に関するなきか。常に警覚注意を怠るべきにあらず、且つ変災重なれども、これを払ふの要術を講ずるなく、人心甚だしく欠陥を生ずるも、これを救済するの道を施さずんば、終に衰亡の悲運に到達せん。尤もこれが対応策は唯だ為政者の策為に依り、物質的施行をなすべきことと、又た精神的に教養感化すべき事とあるべけれも教(きよう)家(か)は常に根本的大所より監視を為し、最善の施為を怠るべきにあらざるなり。倩ら大聖人立正安国の聖意を窺ふときは、最も其の然る所以を知るべし。
彼の物価騰貴に付ての騒(そう)擾(じよう)事件の如き、人心の欠陥を偶(たまた)ま其の動機に依て暴露せるならんも、後(こう)来(らい)幾多病毒の浸染して、何の所に勃発せずとも限らざるべし。然るに成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等、此等害毒の感染、予想外に迅速なり。さなきだに、民心は国利民福を物質的に求めて、立正安国の誠意に乏しき、これ忽緒(こつちよ)に付すべからざる人心の疫病なり。教家の配剤処方を要する、実に多大なりと思惟す。
宗教家たる者、唯だ経巻に依て、教理学説を云云するのみが本能にはあらざるべし。極めて世道人心に密接必要事を説きてこそ、其の本能も発揮せらるれ、殊に仏教の本義は、導利衆生にあれば、机上の理論、世道人心と殆んど没(ぼつ)交(こう)渉(しよう)的の学説をなすとも、そは死論死説のみ、活(かつ)世(せ)界(かい)の活事に触れ、活論活動をなし、世道人心を指導裨(ひ)益(えき)する所あり。国家に貢献する所ありてこそ、宗教家たるの本能も権威も顕るるなり。大聖人の『立正安国論』の如き、三度高名の如き、則ち其の活(かつ)教訓・活洪(こう)範(はん)にあらずや。
大聖人勧誡して曰く、『十八円満抄』に、「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(新編1519)。正理を修行とは、これ実修躬(きゆう)行(こう)にあらずや。然れば徒らに教理学説のみを喋(ちよう)々(ちよう)する智者・学匠とならむよりは誠意信念、為国為法、実修躬行の人とならずむばあらず、彼の饒舌の者、多くは不実行の怯(きよう)者(じや)なり。一顧の価(あたい)だにもなきを知るべし。
今や内外国事多難、教界の事、亦た複雑を極む。教乱難(なん)期(き)し難きにあらず。殊に眼(がん)前(ぜん)世界の大戦乱に付て、根本的解決は、閻浮帰一を唱導せる教家に待たずんばあらず。これが要訣を説き且つ行う偉人は如何。抑も転禍為福の大手腕を揮ふ者は何人ぞ。和党の第二陣者の先登は、誰人か自らこれに当る者ぞ。謹(つつしみ)て『立正安国論』の聖意を感(かん)佩(ぱい)し、乃ち時事に鑑み、敢て之を言ふ。
『法蓮抄』に曰く「夫天地は国の明鏡なり」と(新編822)。
以下の御文は、御書に就き拝読すべし。蓋し会得する所あるべし。(完)
白蓮華 第13巻第10号 大正7(1918)年10月7日発行
[本文]
「我が宗祖日蓮大聖人の一切衆生を憐愍し給ふや、「慈眼視衆生」なるは勿論、特に一切衆生の一切の苦を受るは、悉く是日蓮一人の苦となし給ひ、常に御身を以てこれが救護に当らせ給ふなり。これが救護を為し給ふには、先づ衆生の棲息する国土の安全を期し給ふ。故に『立正安国論』に曰く、「国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先づ四表の静謐を祷るべきものか。」(249)と。又曰く、「国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。」(250)と。又た御書には、「国の亡ぶるが第一の大事」(『蒙古使御書』909)等とふ。而して其の国家の安全を期し給ふには、固より根本精神的にこれを図らせ給へるなり。」
[通解]
「我が宗祖日蓮大聖人の一切衆生を憐愍されることは、「慈眼視衆生」(『法華経』観世音菩薩普門品第二十五に「慈眼をもって衆生を視たもう」) は勿論のこと。特に「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり」(『諌暁八幡抄』御書1541)と御教示されています。常に御身をなげうたれて、一切衆生の救護に当たらせておられます。一切衆生の救護なされる際に、まず一切衆生の居住(棲息)する国土の安全を期されております。故に『立正安国論』に「国を失って家を滅してしまったならば、いずこの場所で世の(中の災難)を遁れればいいのだろうか。自分自身の無事(安心立命)を思うのであれば、先ず四表(全世界)の静謐(平和安穏)を祈(祷)るべきではありませんか。」(御書249)と仰せになり、さらにまた「国家に衰微が無く、国土に破壊が無ければ人民の身体は安全であり、心も禅定(平安)でありましょう。」(御書250)と仰せです。また御書(『蒙古使御書』)には「国の亡びることが第一の大事であります」(御書909)等と御教示されています。ですからその国家の安全を期すならば、もとより根本精神の上から、これを意図しなくてはなりません。」
[本文]
「既にそれ災難頻発して国家の亡滅を致すの原因たる悪法を禁止すべきを絶叫して、上下の人に警誡を与へ給ふ。悪法は、善心を殺し、大義心を殺す、故にこれを折伏し給ふこと剴切なり。而かも最尊無比の正法を弘宣し、且つ国家を安全ならしむる要術を言行に示し給ふ。則ち其の御振舞中の主要は、堂々として三度の御高名に顕はし給へるを以て知るべきなり。」
[通解]
「既に(大聖人は)そうした災難(三災七難)が頻発し、国家が滅亡に至る原因としての(法然の専修念仏を始め謗法諸宗)の悪法を禁止すべきことを強く御教示(絶叫)され、上下(万民)の人々に警誡を与えられました。(謗法の)悪法は善心を殺し、大義の心をも殺します。故に、これら(の謗法諸宗)を折伏されたことは、まさしく適切なこと(=剴切・がいせつ)でありました。しかも、無上(最尊無比)の正法(正義)を弘宣され、さらに国家を安全に導かれた(文底下種の三大秘法の)要法の秘術を言行一致して御教示されました。すなわちその大聖人の主要な御振舞は、堂々とされた「三度の高名」に顕わされていることを知らなくてはなりません。」
[本文]
「抑も一切衆生の一切の苦を日蓮が苦と宣へるは、これ一切衆生の一切の苦を軫念し給ふと同時に、「唯我一人能為救護」の事実を行ふの聖意を言明し給へるなり。故に其の言明は必ず実行に顕現し給ふ。則ち不自惜身命の御振舞これなり。就中、其の国諌を為し給ふや、天変地動等の徴相を察して、当に起るべき国難を未萌に明言し、而かも其の国難の来由と、これを恐れざるべからざる所以と、救済の要術とを、併せて教示し給ふ。且つ夫れ大聖人一日片時も御身を安処し給はず、不自惜身命に振舞はせ給ふは、これ一日片時も国家及び一切衆生を憐愍し給はずと云ふことなき大慈悲心の発現なり。」
[通解]
「そもそも「一切衆生の一切の苦悩は日蓮の苦悩である」(『諌暁八幡抄』御書1541)と御教示されていることは「一切衆生の一切の苦悩」を軫念(しんねん=天子が心を痛める意味)されると共に「唯だ我れ一人のみ能く救護を為す」(『法華経』譬喩品第三)に説かれる経文が事実であることを自ら実行(身読)された大聖人の御聖意を言明されたものであります。故に、この言明は必ずや(大聖人が)実行(なされて)顕(現)されるのです。すなわち「自ら身命を惜しまず」(『法華経』寿量品第十六)の御振舞である。とりわけ(大聖人が)国(家)諌(暁)なされたことは、天変地動(天変地妖・飢饉疫病)等の徴相(前徴・しるし)を察(隠された事情を外に表れた様相から感じ取ること)して(将来)起こるべき国難を未萌(物事の起こらない内)に御明示され、しかも、その(当時の)国難の惹起する由来、およびそれを恐れてはならない所以(理由)と(一切衆生を)救済する要術(三大秘法の要法の秘術)を、あわせて御教示されました。同時に、大聖人は一日・片時も御身の安寧することはありませんでした。
自ら身命を惜しまずにお振る舞いなされたのは、これは一日・片時も国家および一切衆生を憐愍(れんみん=愍む)されなかったことはないと御教示されたことは、言うまでもなく(末法出現の御本仏としての)大慈悲心の発現であります。」
[本文]
「抑も亦た大聖人の『立正安国論』並に三度御高名の明言態度は、誠に国家の興亡に対し、捨身国諌の洪範なり。其の兼知未萌、明言的中せるは、恰かも掌を指すが如し。而かも実際の国難を、実際に解決し給ふ、若しそれ国家現当の事、『立正安国論』の聖意を以て定規とせば蓋し万違ふことあるなけん。而かも亦た立正安国の聖意を、誠意信念に感得する者は、其の誠意信念は必ず国家の事に発露せずには止まざるべし。況や国家有事の時に於てをや、由来今の聖祖門下と称する者、多くは常に大言壮語する如きも、実践躬行に至て欠くる所あるは、これ誠意の足らざるか。又は信念の堅固ならざる故か。それ国家に大事あるに当て、平素の饒舌にも似ず、口を噤むで之に対する要術を説くあるなく漸く事後に至て兎角の言辞を哢する如きは、言を撰時に仮りて、誠に時機を逸するの憾なきにあらず。」
[通解]
「そもそもまた大聖人の『立正安国論』ならびに三度の高名によって明言された態度は、誠に国家の興亡(存亡危機)に対する捨て身の国(家)諌(暁)という洪範(天下を治める大法)であります。その兼知未萌の(未来に起こる災難を予見された)明らかな御教示が(現実に他国侵逼難・自界叛逆難として)的中しましたことは、あたかも掌(たなごころ、てのひら)を(見るように明らかであることを)指しているようなものです。しかも実際に起きた国難を、実際に解決されたのです。もしそれが国家における現当(二世)の一大事として(拝するならば)、『立正安国論』の御聖訓によって(現在[大正7年]も)定規(ものさし)とするならば、まさしく万が一も間違いがありません。しかもまた『立正安国論』の御聖訓を、誠心誠意(誠意)、信(心)の念(慮)をもって感得できる人の誠意と信念は、必ず国家(存亡)の(一大)事を(憂慮し実践行動することを)発露(体現)しないではいられません。いわんや国家の有事(他国侵逼難・自界叛逆難)が起こった時はなおさらであります。由来、今の大聖人門下(=聖祖門下)と称する者達は、その多くが常に大言壮語のような者で、実践躬行(じっせんきゅうこう=理論や信条を自身の力で実際に踏み行うこと)を欠いている者ですから、全く(誠心)誠意が足らないのではないのでしょうか。または信念が堅固でないからの故ではないでしょうか。国家に一大事が起こっているに当たって、平素の饒舌も(成りを潜めて)似ないばかりか、口を噤(つぐ)み(国家の一大事)に対する大聖人の御教示(=三大秘法の要術)を説くこともなく、ようやく一大事の後になってから、兎角(なんやかんやと言い訳めいた事をもてあそぶ=言辞を哢する)ようなことは、言(葉)を撰んで時(世)にまかせることで、誠に時と機(会)を逸している憾(うらみ)が無いわけではありません。」
[本文]
「大聖人『立正安国論』に『大集経』を引て曰く「一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。」と。此の一二の者、既に眼前に顕現せり。抑もこれ何の徴相なるか、将た何の結果なるか、況や未曽有の世界大戦乱あるをや。それ「尺の池には丈の浪たゝず驢吟ずるに風鳴らず」(『呵責謗法滅罪抄』715)と。然るに今や大戦乱の怒濤は世界に奔騰し、風雲鳴動するに大龍吟せざるの感あり。此の事変を解決すべき偉人出でて要訣を説くなきは、或は泰山鳴動するも僅かに鼠の出るが如きの類か。好し偉人たらずと雖も国土に起る所の災難が、天罰にあれ、時運にあれ、業感にあれ、其の孰れなるかを察知し以て民心をして猛省するの警告をなすべきはこれ立正安国の聖意を奉体する者の精神的責務にあらずや。」
[通解]
「大聖人は『立正安国論』に『大集経』を引かれ「一に穀貴、二に兵革、三に疫病です。」(御書237)と仰せです。飢饉、戦争は、既に(第一次世界大戦が)眼前に顕れています。そもそもこれはいかなる徴相(前徴)でしょうか。はたまた何の結果でしょうか。いわんや未曽有の世界大戦乱が起こるのでしょうか。そのことを大聖人は「一尺の池には一丈の波は立たない。驢馬がいなないても風は鳴らない。※日本国の政事が乱れ万民が歎くことはこれほどの大瑞は現じ難く、誰が知るでしょうか。この大瑞こそ『法華経』の滅不滅という大きな瑞相である。」(「尺の池には丈の浪たゝず、驢吟ずるに風鳴らず」※「日本国の政事乱れ万民歎くに依っては此の大瑞現じがたし。誰か知らん、法華経の滅不滅の大瑞なり」『呵責謗法滅罪抄』御書715)。」
[本文]
「然るに今や大戦乱の怒濤は世界に奔騰し、風雲鳴動するに大龍吟せざるの感あり。此の事変を解決すべき偉人出でて要訣を説くなきは、或は泰山鳴動するも僅かに鼠の出るが如きの類か。好し偉人たらずと雖も、国土に起る所の災難が、天罰にあれ、時運にあれ、業感にあれ、其の孰れなるかを察知し、以て民心をして猛省するの警告をなすべきは、これ立正安国の聖意を奉体する者の精神的責務にあらずや。」
[通解]
「しかしながら今や(第一次世界)大戦乱の怒濤は、世界に激しい勢いで上昇し(=奔騰)世の中が非常に不安定な状態で大きく変動しようとしても(=(大)風雲鳴動) 同じ志を持つ者は、相手の言動に気持ちが通じ合い互いに相応し合う。竜が声を挙げれば雲が沸き起こり虎が唸れば風が生ずる譬喩(「竜吟じ虎嘯く」)していない感があります。この事変(第一次世界大戦)を解決すべき(ことを説く)偉人が出現し、その奧義や秘訣(=要訣)を説いていない以上は、あるいは「泰山鳴動して鼠一匹」(大きな山が大きな音を響かせて揺れ動いた為、大噴火が起こると思ったら小さな鼠が一匹出てきただけだったという意味※古代ローマの詩人ホラティウスの言葉としされる西洋の俗諺)の類いであろうか。優れた偉人ではなくても国土に起こる災難(三災七難)が天罰(諸天からの総罰)なのか、あるいは時の運なのか、あるいは因果応報(=業感縁起「善悪の行為が因となり苦楽の果報を感受すること」)なのか、そのいずれかであるのかを察知し、それによって人民の心(の荒廃)を猛省させるために警告すべきことこそ「立正安国」の御聖訓を奉戴し体現する者の精神的な責務ではなかろうか。」
[本文]
「抑も泰平明時の世に於て、人心を煽動擾乱せしむるが如き事を為す者は、これ良民にあらず乱賊なり。国家の時難、又は将来憂虞すべき現象あるにも関はらず、唯だ謳歌を粧ふ如きは、これ諂諛の者にして不忠なり。殊に邪法又は悪風潮の浸染によりて、人心の欠陥を致し、国家の一大事を醸成する事あるを察知しながら、緘黙を守るは、教家の本分にあらず、又た其国難あるに際し、之れに対応するの要術を説くなくんば、平素に説く所の法義は何の為ぞ、余宗は之を措く。『立正安国論』を拝読せる聖祖門下の者、此の際此の時、何の面目あってか大聖人に見へんや。鳴呼滔々たる僧侶、『立正安国論』に、「法師は諂曲にして人倫を迷惑す」(238)と宣へるの徒なるを甘んずる者にはあらざるべし。」
[通解]
「そもそも天下泰平の明らかな(平穏な)時代の世の中において、人民の心を煽動して騒乱(擾乱)させようとする行為を行う者は、これは善良な人民ではなく国賊(乱賊)であります。国家がまさに時代の困難、または将来に憂虞すべきような現象(現証)があるにも関わらず、ただ(平和を)謳歌し美しく飾る(=粧う)ような者はこびへつらう(=諂諛)不忠の者と言わねばなりません。特に邪法は悪い風潮を浸染させて人民の心を欠陥に導き、国家を一大事の(困難に向かわせようと知らない間に)醸成してしまう事を察知しながら、口を閉じて何も言わず押し黙ること(=緘黙)を墨守するような者は、宗教者(=教家・僧侶)の本分ではありません。また国難の一大事に際し、これに対応する要術(三大秘法の要法秘術)を説かないのであれば普段(平素)いつも説いている大聖人の正法正義は何の為にあるのでしょうか。諸宗の宗教家はここでは閣きますが『立正安国論』を拝読する大聖人(聖祖)門下の(本宗僧侶)はこの際、この時に、何の面目(体裁・躊躇)することがあって、大聖人に直参しないのでしょうか。どうか雄弁(滔々)なる(本宗の)僧侶よ。『立正安国論』に「法師は(権力者や世情に)諂曲(こびへつらい)人民の倫理道徳を迷わせ惑せている」(御書238)と御教示される徒輩として(決して)甘んじるようなことがあってはなりません。」
[本文]
「大聖人は、其の当時天変地動を以て、国土に謗法充満せるに依ると喝破し、更に一転して、大聖人正法を弘宣し給ふ瑞相なりと示し給ふ。『呵責謗法滅罪抄』に曰く、立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛逆難と他国侵逼難起こるべしと勘へたり。此には法華経の流布すべき瑞なりと申す。先後の相違之有るか如何。答へて云はく、汝能く之を問へり。法華経の第四に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」等云云。同第七に況滅度後を重ねて説いて云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云。(715~6)」
[通解]
「大聖人は(鎌倉時代)当時の天変地動によって日本の国土に謗法が充満し(為政者や人民が諸宗に)帰依しているからであることを喝破されました。さらに(大聖人はその天変地動や飢饉・疫病の様相を御覧になり)一転して(その反対の視点から)正法正義を弘通される瑞相(前徴)であると御教示されています。『呵責謗法滅罪抄』(御書715)に「『立正安国論』は法然の『選択本願念仏集』が日本の国の仏法を失わせようとしているために天地が瞋り、自界叛逆難と他国侵逼難が起こる。」と勘合されています。そして、これは『法華経』の流布すべき瑞相であると仰せになっています。先後の相違はありますでしょうか。答えて言えばあなた(四条金吾殿)はよくこれを問われました。『法華経』第四の巻にある法師品第十には「此の経を弘める者は釈尊の在世ですら非常に怨嫉が多いのです。ましてや如来の滅後はなお更のことです」と説かれ、第五の巻にある安楽行品第十四には「一切世間には怨をなす者が多くて信じがたい」と説かれています。」
[本文]
斯くの如く天変地動を、禍福両面より観察応用し給ふすら、既に霊妙の御振舞なるに、乃ち正法を弘宣して、更に亡国の相を変じて、興国の瑞となし給ふ。則ち「法華経の流布すべき瑞なり」(715)とは、興国の瑞なる事を意味するなり。斯く霊妙の御振舞は、例せば良医の能く大毒を変じて良薬と為すが如く、禍を転じて幸となし給ふなり。誠にこれ「慈眼視衆生」の御振舞、一切衆生の一切の苦を、悉く是れ日蓮一人の苦となし給へる大慈大悲の大救主たるの威徳なるによるなり。」
[通解]
「このように天変地動を、禍(悪)と福(善)の両面より観察され応用されるということですら、既に奥深く優れている(大聖人の)御振舞です。すなわち正法正義を弘宣され、更に衰亡する国家の悪相を転換(変換)され、国家の興隆する吉瑞と御教示されました。すなわち「法華経の流布すべき瑞相である」(御書715)との仰せは、国家の興隆する吉瑞であることを意味しています。かかる霊妙な(大聖人の)御振舞は、例えば名医(良医)が強大な悪い毒薬を変換して大善の良い薬とされるように、悪い禍を転換して幸せな福得を積む道を説かれました。誠にこれこそ「慈眼視衆生」(『法華経』観世音菩薩普門品第二十五「慈眼をもって衆生を視たもう」) の御振舞であり、「一切衆生の一切の苦を日蓮が苦」(『諌暁八幡抄』御書1541)と御教示された大慈大悲の大聖人(大救世主)としての御威徳の賜であります。」
[本文]
「古、鵑声を聴て国亡を知り、童謡を聞て民情を察せし例あり。蓋し天地の変妖は、何等かの信号にあらざるなきか。国土に顕現する災難は、国家興亡に関するなきか、常に警覚注意を怠るべきにあらず、且つ変災重なれども、これを払ふの要術を講ずるなく、人心甚だしく欠陥を生ずるも、これを救済するの道を施さずんば、終に衰亡の悲運に到達せん。尤もこれが対応策は唯だ為政者の策為に依り、物質的施行をなすべきこと、又た精神的に教養感化すべき事とあるべけれも教家は常に根本的大所より監視を為し、最善の施為を怠るべきにあらざるなり。倩ら大聖人立正安国の聖意を窺ふときは、最も其の然る所以を知るべし。」
[通解]
「古(いにしえ)には、鵑(ホトトギス)の声を聴いて国の滅亡を知り、童謡を聞いて人民の心情を察する例がありました。まさしく天地の変妖はなんらかの(警告の)信号ではありませんか。国土に顕(現)れている災難は国家の興隆と滅亡の(善悪の瑞相)に関係していないことなどありません。常に警戒し、覚悟と注意を怠るべきではありません。同時に天変と災害(難)が重なって起きても、これを振り払う必要な術を講義することはありません。人民の心情が甚だしい欠陥を生じても、これを救済する正しい道を施さないならば、終に国家を衰亡する悲運に到達してしまいます。もっともこれに対応する方策はただ為政者がいかなる政策をするのかに依るもので、物質的な政策の施行と精神的な教養を感化する事でなければなりませんが、宗教家(教家=僧侶)は、常に根本的な大所(高所)から、より一層監視して最善な宗教的な方策を施行することを怠るべきではありません。念を入れて大聖人の「立正安国」の御聖訓(御教示)を拝し最も間違いの無い救済の道(所以)を知るべきです。」
[本文]
「彼の物価騰貴に付ての騒擾事件の如き、人心の欠陥を偶ま其の動機に依て暴露せるならんも、後来幾多病毒の浸染して、何の所に勃発せずとも限らざるべし。然るに成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等、此等害毒の感染、予想外に迅速なり。さなきだに、民心は国利民福を物質的に求めて、立正安国の誠意に乏しき、これ忽緒に付すべからざる人心の疫病なり。教家の配剤処方を要する、実に多大なりと思惟す。」
[通解]
「(今年[大正7年]発生した米騒動は(大正3年の第一次世界大戦が開始直後から、米価が暴落したために他の物価も上昇し、最終的に1道3府37県の計369か所で暴動が起きた)物価騰貴についての騒擾事件のように、人民の心情の欠陥が偶然の形で米騒動を動機として暴露されたようですが、後に出来(しゅったい)する数々(幾多)の病気のような害毒が(人民の生命に)浸染すれば(今後さらに)何なる場所で米騒動が勃発することが無いとも限りません。そうですから(現在も)成金の中毒症や道徳(心)義の衰亡症、(三宝や先祖への)報恩を亡失した病や、偏見に凝り固まった民本(主義=吉野作造が最初に主張した大正期の政治理論。所在なき主権の運用で民意を尊重し民衆の福利を実現するという視点)病など、かかる害毒の(人民への)感染は予想外に迅速です。そうでなくてさえ人民の心情は、国家を利(うるお)すために人民の幸福を物質的(利潤)に追い求め「立正安国」の御教示(=誠意)に乏しいのです。これはゆるがせにしてはならない(=忽緒)人民の心情(精神的)疫病です。宗教家の配る精神的な薬剤・処方を必要とすることは実に多大です。」
[本文]
「宗教家たる者、唯だ経巻に依て、教理学説を云云するのみが本能にはあらざるべし。極めて世道人心に密接必要事を説きてこそ、其の本能も発揮せらるれ、殊に仏教の本義は、導利衆生にあれば、机上の理論、世道人心と殆んど没交渉的の学説をなすとも、そは死論死説のみ、活世界の活事に触れ、活論活動をなし、世道人心を指導裨益する所あり。国家に貢献する所ありてこそ、宗教家たるの本能も権威も顕るるなり。大聖人の『立正安国論』の如き、三度高名の如き、則ち其の活教訓・活洪範にあらずや。」
[通解]
「宗教家を名乗る者はただ経巻によって教理や学説を云云するだけが本当の能力ではありません。極めて世の道、人々の心に密接する必要な事を説いてこそ、本当の能力も発揮されます。特に仏教の本当の意義は、衆生を導き利することですから、机上の理論・理屈は、世の道(生き方)や人々の心情とほとんど没交渉的な学説に終始していますから、それは死んだ理論、死んだ学説にすぎません。活きた世界の活きた事に触れ、活きた弁論活動をして(始めて)世の道と人の心を指導し裨益する所があります。国家に貢献する所があってこそ宗教家である本当の能力も(宗教的な)権威も顕れます。大聖人の『立正安国論』の御教示、三度の高名こそ、その活きた教訓・活きた洪範(天下を治める大法)ではないのでしょうか。」
[本文]
「大聖人勧誡して曰く『十八円満抄』に「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき。(1519)「正理を修行」とは、これ実修躬行にあらずや。然れば徒らに教理学説のみを喋々する智者・学匠とならむよりは誠意信念、為国為法、実修躬行の人とならずむばあらず、彼の饒舌の者、多くは不実行の怯者なり。一顧の価だにもなきを知るべし。」
[通解]
「(それを)大聖人は勧誡され『十八円満抄』に「おしなべて私(日蓮大聖人)の弟子門下は正しい教えにより、正しい修行をしなくてはなりません。たとえ世間から智慧のある者や学問を成就した者と讃えられる身になっても、地獄に堕ちてしまったならば何の意味がありましょうか。」(御書1519)と仰せになり、「正理を修行する」とは実修躬行(教義信条をそのまま自分自身で実際に行うこと)ではありませんか。そうであれば、いたずらに教理と学説のみをしきりに話す(=喋々)智者や、学匠となるよりも誠意と信念をもって、国の為に、法の為に、実修躬行の人とならなくてはなりません。(そうでなければ)口数の多い(饒舌)者であり、その多くは不実行の卑怯な者と言えます。それらは、振り返ってよく考えれば(=一顧)の(何の)価値も無いことを知るべきです。」
[本文]
「今や内外国事多難、教界の事、亦た複雑を極む。教乱難期し難きにあらず。殊に眼前世界の大戦乱に付て、根本的解決は、閻浮帰一を唱導せる教家に待たずんばあらず。これが要訣を説き且つ行う偉人は如何。抑も転禍為福の大手腕を揮ふ者は何人ぞ。和党の第二陣者の先登は、誰人か自らこれに当る者ぞ。謹て『立正安国論』の聖意を感佩〈かんぱい〉し、乃ち時事に鑑み、敢て之を言ふ。『法蓮抄』に曰く「夫天地は国の明鏡なり。」(822)と。以下の御文は、御書に就き拝読すべし。蓋し会得する所あるべし。(完)」
[通解]
「現在(洋の)内外(を問わず)国の事情は多難な時であり、宗教界の事情もまた複雑多岐を極めています。教えの乱れという難は全く期待できないわけではありません。特に、眼前の第一次世界大戦の戦乱について言えば、その根本的な解決は、一閻浮(全世界)を帰一(帰依)せしめ唱導できるような宗教家(の出現)を待たなくては(その実現)はありえません。この要訣(奧義・秘訣)を説き行動する偉人とはいかなる人物でありましょうか。そもそも禍を転じて福と為すという大きな手腕を揮る方とは、いかなる人物であろうか。「和党」の第二陣の者として先に登る人は(※『種々御振舞御書』「わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしらがをどさんを、をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使ひとなのりながら、をくせんは無下の人々なりと申しふくめぬ」御書1057参照)(一体)誰人が自分の身にこの御文を当てることのできる者でありましょうか。謹んで『立正安国論』の御聖意(御教示)を深く心に刻んで忘れず(感佩=かんぱい)、すなわち時事(問題)に鑑みながら、あえて(今なすべきこと。やるべきことを)申し上げました。大聖人は『法蓮抄』に「(それ)天地は国の明鏡であります。」(御書822)と御教示されています。それ以下の(本抄の)御文については、直接『御書』を開いて拝読すべきです。そうすれば、きっと(必ず)体得(会得)できる所がありましょう。(完)」