疫病流行について ~新型コロナウイルス感染拡大に対して~ ②

再 び 時 事 に 鑑 み て
                         日柱謹記

 予は、本誌前々号に、『時事に鑑みて』一篇を掲載し、其の文中に、大聖人『立正安国論』に、『大集経』の三災を引証し給へるを、また引用して、時事に付(つい)て聊か愚見を披陳したりき。
 其の三災中の第三疫(やく)病(びよう)の事に至ては、人心に関する疫(やく)病(びよう)ある事を略述せり。然るに疫病はそれにとどまらずして、世界感冒なる風邪流行し、殆ど全(ぜん)国(くに)人(じん)を風(ふう)靡(び)し此の風邪に冒さるる者、既に大半を超へ、死亡者続出すと云へり。啻(ただ)に我(わが)国(くに)のみならず、世界各国皆然らざるはなしと。従来疫(やく)病(びよう)と云ふと雖も、其の流行区域は多分は一国二国に止まりしが、這(しや)回(かい)の如く、世界一般と云ふが如きは、蓋し未曽有の事と謂ふべし。乃ちこれ瘴(しよう)癘(れい)の悪気世界に弥(び)布(ふ)して、世人を悩ますものなるか。而かも瘴(しよう)癘(れい)の悪気の弥布せるは、悪鬼便を得たるの徴(ちよう)相(そう)にあらざるなきか。衛生上予防法の如き、多少効能はありたらんも、悪気伝染の迅速なる、実に予想の外(ほか)に在り。其の惨(さん)、言語に絶す。
 予は、所引の文意が眼前に顕現せるを以て、得意とする者にあらず。頗る国(こく)人(じん)のために憂ふるなり。何んとなれば、凡そ災厄の顕現するは、其の顕現すべき所以ありとは、我が宗祖大聖人の『立正安国論』の旨(し)意(い)なればなり。
 若し然れば、其の災厄が、唯だ其の当時のみの災厄にして終息せば、不幸中の幸として、将来の患(うれい)となすべきにはあらざれども、或はそれ更に来るべき災難の前(ぜん)徴(ちよう)にはあらざるなきか。例せば、『立正安国論』に、天変地夭及び其の他の災難を挙げて、更に来るべき他国侵逼難・自界叛逆難の前徴となし給へり。則ち曰く、「徴(しるし)前(さき)に顕はれ災ひ後に致る」『立正安国論』(新編242)と。今や世界の大戦乱は、休戦となり、又た更に講話談判も将に開催せられんとし、平和克(こ)復(ふく)は近きにあらんとするに際して、国民は、種々なる方法にて祝意を表し、連合各国に於ても、亦た然りと云へば、よもや今後数年若しくは十数年の間には、国難の来るべしとは、何人も予想せざる所なるべし。否(い)な、斯くの如き不祥事のあるべしとも思はれざるなり。誠に四表の静謐を希(こいねが)ひ、国家の安全を祷るは、国民の衷心より欲する所たらずんばあらず。予の如き草(そう)莽(もう)の微(び)臣(しん)と雖も、休戦に対し、又た平和克復に対し、祝福の誠意を表することは、敢て人後に在る者にあらず。而かも亦た毎日必ず宝(ほう)祚(そ)無(む)窮(きゆう)、天長地久を至祈至祷(しきしとう)して怠らざるなり。
 されど翻へて、思ふに、此の大戦争に依て、敵、味方の壮(そう)丁(てい)を殺せし事、幾十百万に達すと言へり。何ぞ惨憺の甚だしきや。彼等の英霊各々決する所ありて、其の国難に殉ぜし者なれば、まさかに中(ちゆう)有(ゆう)に迷ふとは思はざれども、若しそれ怨(おん)念(ねん)一(いち)団(だん)となりて、彼の悪気に便を得て、世人を悩ます事なしとするも、同情を以て彼等の冥福を祈るは、生存者たるものの人道にあらずや、況や「慈(じ)眼(げん)視(じ)衆(しゆ)生(じよう)」の慈悲にあらずや。
 而して慈眼視衆生の視線を、又た一面にそそぐべきなり。そは予がさきに列挙せる如き、人心の病症あることこれなり。其の毒気蔓延の徴候ある事は、識者既に之を患(うれ)ふ。彼の感冒の悪気が、迅速の勢ひを以て人心を冒せる如きは、これ或は其の前表にあらざるなきか。
 『立正安国論』に曰く、「具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや」(新編249)。若し幸ひに事なきを得ば、国家民人の幸福なり。然れども人心の欠陥は、機微の所に潜む、誡めざるべからず。
 我が宗祖大聖人の当時に在ては、重に諸宗の悪法が、国家災難の因由なりしが、今や此の悪法と並びて、世に一種の危険思想なるものあり。此の思想は、君臣の大義を破滅し、固有の元気を消耗し、乃ち知恩報恩の要義に背くものなり。亦たこれ立正安国の大(だい)定(じよう)規(ぎ)を以て律するときは、破国の因縁たらずんばあらず。若し然れば大ひに折伏を加ふべきなり。
 要は立正安国の大経道を、人心に徹底せしむるに在るなり。(完)

 本年も早や歳晩に臨み、年内余日も少なし。謹みて読者諸君の健康を祝福し、目出度く、新春を迎へられん事を希ふ。尚ほ新年号より更に筆硯を清め、諸君に見へんとす。諸君希(こいねがわ)くは、健在なれ。

白蓮華 第13巻第12号(大正7年12月7日発行)

[本文]
「予は本誌前々号に『時事に鑑みて』てふ一篇を掲載し其の文中に、大聖人『立正安国論』に『大集経』の三災を引証し給へるを、また引用して時事に付て聊か愚見を披陳したりき。」
[通解]
「私(日柱上人)は、本誌(『白蓮華』)の前々号(第13巻第10号・大正7年[1918]10月7日発行)に『時事に鑑みて』と題して一篇(文)を掲載し、その文中に、大聖人が『立正安国論』において『大集経』の三災について引用され経証とされておられることを(私[日柱上人])もまた引用させて戴き、時事(問題)に関して、聊か愚見を述べさせて戴きました(披陳)。」

[本文]
「其の三災中の第三疫病の事に至ては、人心に関する疫病ある事を略述せり。然るに疫病はそれにとどまらずして、世界感冒なる風邪流行し、殆ど全国人を風靡し此の風邪に冒さるる者、既に大半を超へ、死亡者続出すと云へり。啻に我国のみならず、世界各国皆然らざるはなしと。従来疫病と云ふと雖も、其の流行区域は多分は一国二国に止まりしが、這回の如く、世界一般と云ふが如きは、蓋し未曽有の事と謂ふべし。乃ちこれ瘴癘〈しょうれい〉の悪気世界に弥布して、世人を悩ますものなるか。而かも瘴癘の悪気の弥布せるは、悪鬼便を得たるの徴相にあらざるなきか。衛生上予防法の如き、多少効能はありたらんも、悪気伝染の迅速なる、実に予想の外に在り。其の惨、言語に絶す。」
[通解]
「その三災の中で、第三番目の「疫病」の事を説明する段において、人の心に関しても、疫病のある事を略述致しました。しかし(現在[大正7年末]から発生した)疫病は、その(時点での警戒・感染)にとどまらず、世界(中に感染が拡大する)感冒(スペイン)風邪が流行し、ほとんど(世界中の)国々の人々に(感染を)風靡し、スペイン風邪に冒されている者は既に大半を超えて死亡者が続出していると報道されています。単に我が国(日本)だけではなく世界各国全て同じく(例外なく)感染の流行が拡大しています。従来は疫病と言われても、その流行の区域(範囲)は多くは一国、二国に止どまっていましたが、這回(しゃかい=「はいまわる」の強い意味、あるいは「このたび」)のように世界一般(世界全体に感染拡大する)という状況は、確かに未曽有の出来事と言うべきです。すなわちこれは瘴癘(しょうれい=伝染性の熱病)の悪気が世界に弥布(びふ=一層拡大)し世界の人々を悩ませているのでしょう。しかもスペイン風邪(瘴癘)の悪気が世界に一層拡大(弥布)していることは、(謗法の)悪鬼(魔神)が便りを得ている徴相(しるし)に間違いありません。保健衛生上での予防方法も、多少の効き目(効能)があるかも知れませんが、悪気の伝染する迅速さは実に予想外のものであります。その(病状の)悲惨さは、言語を絶する状況であります。」

[本文]
「予は、所引の文意が眼前に顕現せるを以て、得意とする者にあらず。頗る国人のために憂ふるなり。何んとなれば、凡そ災厄の顕現するは、其の顕現すべき所以ありとは、我が宗祖大聖人の『立正安国論』の旨意なればなり。若し然れば、其の災厄が、唯だ其の当時のみの災厄にして終息せば、不幸中の幸として、将来の患となすべきにはあらざれども、或はそれ更に来るべき災難の前徴にはあらざるなきか。例せば、『立正安国論』に、天変地夭及び其の他の災難を挙げて、更に来るべき他国侵逼難・自界叛逆難の前徴となし給へり。則ち曰く、「徴前に顕はれ災ひ後に致る」(『立正安国論』御書242)と。」
[通解]
「私(日柱上人)は、『立正安国論』から引用した御文(文意)が、(現在自分の)眼前に顕れている様相を(見てそのとおりだ)と得意になっている者ではありません。とにかく我が国の人々を思い憂えているのです。何故かと言えば、およそ災厄の顕れる時は、それが現れるべき理由(所以)があります。これは我が宗祖日蓮大聖人の『立正安国論』の大旨・大意だからです。もしそうであればその災厄がただその当時(鎌倉時代や大正7年)のみの(限定的時空の)災厄だけで終息すれば不幸中の幸で将来(未来世へ)の疾患にまで波ぶとは言えませんが、あるいはそれが更に出来する災難の前徴なのではないでしょうか。例えば大聖人は『立正安国論』に天変地夭とその他の災難(三災七難)を挙げられ、更に将来起こる他国侵逼難と自界叛逆難の前徴とされています。すなわち「徴は前に顕われ(大事の)災難は後に起こります。」(御書242)と御教示されているからです。」

[本文]
「今や世界の大戦乱は休戦となり、又た更に講話談判も将に開催せられんとし、平和克復は近きにあらんとするに際して、国民は種々なる方法にて祝意を表し、連合各国に於ても亦た然りと云へばよもや今後数年若しくは十数年の間には国難の来るべしとは、何人も予想せざる所なるべし。否な斯くの如き不祥事のあるべしとも思はざるなり。誠に四表の静謐を希ひ、国家の安全を祷るは、国民の衷心より欲する所たらずんばあらず。予の如き草莽の微臣と雖も休戦に対し、又た平和克復に対し、祝福の誠意を表することは、敢て人後に在る者にあらず。而かも亦た毎日必ず宝祚無窮、天長地久を至祈至祷して怠らざるなり。」
[通解]
「今や世界の大戦乱(第一次世界大戦)は休戦となりました。またさらに講話(条約締結に向けた)談判も今後開催の予定で、平和の克復(=困難に打ち勝ち平和な状態にも戻ること)は間近と思われますが、この状況に際し、国民は様々な方法で戦勝の祝意を表しています。(第一次世界大戦時の)連合(軍)の各国も同様の状況と言われていますから、ましてや今後、数年あるいは十数年の間に国難が必ず起こるなどとは誰も予想すらしていないでしょう。全くそんな不祥事(他国侵逼難・自界叛逆難)が起こるとは全く思いも及ばないでしょう。誠に全世界(四表)の平和(静謐)を希求し、国家の安全を祈(祷)ることは日本の国民が衷心より願(欲)わなかったことなどありません。私(日柱上人)のような草莽の微臣(官職に無い民間人。 在野の人。自分を謙遜する語)であっても休戦に対し、また平和の克復に対して、祝福の誠意を表す気持ちは、決して他の国民にもひけを取らないつもりです。そしてまた、毎日必ず天地の続く限り、永遠の世界平安を心から怠りなく御祈念させて戴いています。」

[本文]
「されど翻へて、思ふに、此の大戦争に依て、敵、味方の壮丁を殺せし事、幾十百万に達すと言へり。何ぞ惨憺の甚だしきや。彼等の英霊各々決する所ありて、其の国難に殉ぜし者なれば、まさかに中有に迷ふとは思はざれども、若しそれ怨念一団となりて、彼の悪気に便を得て、世人を悩ます事なしとするも、同情を以て彼等の冥福を祈るは、生存者たるものの人道にあらずや、況や「慈眼視衆生」の慈悲にあらずや。而して慈眼視衆生の視線を、又た一面にそそぐべきなり。そは予がさきに列挙せる如き、人心の病症あることこれなり。其の毒気蔓延の徴候ある事は、識者既に之を患ふ。彼の感冒の悪気が、迅速の勢ひを以て人心を冒せる如きは、これ或は其の前表にあらざるなきか。」
[通解]
「けれども翻って(私[日柱上人])は思案するに、第一次世界大戦で敵、味方の壮丁(そうてい=労役・軍役に該当する成年男子。明治憲法下で徴兵検査の義務ある成人男子)を殺戮した事実は数十百万人(=数千万人)にも達していると言うべきです。これ以上の甚だしい惨憺さはありません。彼等のような戦死した兵士の諸精霊(英霊)は各自が決意して(第一次世界大戦の戦地に出兵し未曽有の)国難で殉志された者達ですがまさか中有(亡くなってから来世に生まれるまでの間)でさまよっているとは思いませんが、もしもそれが怨念の塊(一団)となって、彼の悪気(スペイン風邪)に便りを得て、世間の人々を悩ますようなことは無いと思いますが、かかる同情から彼等の冥福を祈ることは生存している私達の人道(人倫の道)ではないでしょうか。いわんや「慈眼視衆生」(『法華経』観世音菩薩普門品第二十五に「慈眼をもって衆生を視たもう」) の慈悲ではないだろうか。かくして「慈眼視衆生」という視線をまた一面に注ぐべきである。その理由は私(日柱上人)が先に列挙しましたような人間には心(生命)の病症があるからである。その毒気が蔓延している徴候(しるし)のある事実は有識者(の生命に毒気が蔓延して思想的に)既に患っているからである。また彼(スペイン風邪)の感冒の悪気が迅速な勢いで、人間の心(生命)を冒している状況からして、これはあるいは(一大事のような大災難が起こるべき)前表(前徴)ではないであろうか。」

[本文]
「『立正安国論』に曰く、具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。(249)若し幸ひに事なきを得ば、国家民人の幸福なり。然れども人心の欠陥は、機微の所に潜む、誡めざるべからず。我が宗祖大聖人の当時に在ては、重に諸宗の悪法が、国家災難の因由なりしが、今や此の悪法と並びて、世に一種の危険思想なるものあり。此の思想は、君臣の大義を破滅し、固有の元気を消耗し、乃ち知恩報恩の要義に背くものなり。亦たこれ立正安国の大定規を以て律するときは、破国の因縁たらずんばあらず。若し然れば大ひに折伏を加ふべきなり。要は立正安国の大経道を、人心に徹底せしむるに在るなり。(完)」
[通解]
「『立正安国論』には「もれなく現在の日本の状況を考えると、夥しい悪鬼魔神が乱れ力を奮って多くの人々が倒れて亡くなったのです。いくつもの三災七難が既に起こっています。残りの災難も必ず現われるに違いありません。もし残りの二難(他国侵逼難、自界叛逆難)が、法然が『選択集』に説いた専修念仏という謗法の罪科によって起こったならば、その時は、私達はいかに対処すれば宜しいのでしょうか。」と御教示されています。もし幸ひに一大事(二難)が起こらなかったならば国家人民の幸福であります。しかしながら人間の心(生命)の欠陥は機微(表面上は分かりにくく微妙な心の動きや物事)の趣く所に潜んでいます。誡めなくてはなりません。我が宗祖大聖人の当時は、主(重)に諸宗(念仏・禅・律・真言)等の悪法(謗法)が国家に災難を及ぼす悪因でありましたが、今(近代日本社会)は、それらの謗法諸宗の悪法と共に世界(世間)に一種の危険思想があります。この思想(耶蘇教)は、君臣の大義を破滅し(我が国)固有の元気を消耗します。すなわち知恩報恩という極めて重要な道義に背く悪思想です。またこれを「立正安国」の大定規(ものさし)の規範で計(律)るならば破国の因縁としなければなりません。もしそうであれば。大いに折伏弘教をを加えるべきであります。要するに「立正安国」の大経道(大聖人の)仏法に照らした道)を(世界の)人々の心(の奧底に訴え)(折伏を)徹底することであります。(完)」