仏教説話 一眼の亀 ~正しい教えとの出会い~
むかし、大海原(おおうなばら)の深(ふか)い海(うみ)の底(そこ)に、片眼(かため)の亀(かめ)がいました。この亀(かめ)は身(み)に多(おお)くの障害(しようがい)を抱(かか)えています。まず手足(てあし)がありません。お腹(なか)は焼(や)けるように熱(あつ)く、甲羅(こうら)は氷(こおり)のように冷(つめ)たい。この亀(かめ)がいつも思(おも)うのは「ああ、何(なん)とかこの熱(あつ)いお腹(なか)を栴檀(せんだん)の木(き)の穴(あな)に入(い)れて冷(ひ)やし、冷(つめ)たい甲羅(こうら)を天日(てんぴ)にあてて暖(あたた)めたいものだ」ということでした。この栴檀(せんだん)の木(き)というのは、不思議(ふしぎ)な力(ちから)を持(も)った聖木(せいぼく)で、亀(かめ)の苦(くる)しみを癒(いや)す唯一(ゆいいつ)の木(き)であります。しかしながら、この亀(かめ)は千年(せんねん)に一度(いちど)しか海面(かいめん)へ浮上(ふじよう)することが出来(でき)ません。大海(たいかい)は広(ひろ)く亀(かめ)は小(ちい)さい。たとえ杉(すぎ)や松(まつ)の浮木(ふぼく)を見(み)つけたとしても栴檀(せんだん)の木(き)には中々(なかなか)会(あ)えません。若し栴檀(せんだん)の木(き)に出会(であ)えたとしても、お腹(なか)を冷(ひ)やすのに丁度(ちようど)良(よ)い穴(あな)が空(あ)いていなければなりません。穴(あな)が大(おお)きすぎても小(ちい)さすぎても、亀(かめ)は木(き)から滑(すべ)り落(お)ちて、元(もと)の深(ふか)い海(うみ)へ沈(しず)んでしまいます。しかも、万(まん)に一(ひと)つ、自分(じぶん)に合(あ)った穴(あな)の栴檀(せんだん)の浮木(ふぼく)を見(み)つけても、一眼(いちげん)の悲(かな)しさ、違(ちが)う方向(ほうこう)へと泳(およ)いでしまうのです。亀(かめ)が尊(とうと)い聖木(せいぼく)に辿(たど)り着(つ)く日(ひ)は来(く)るのでしょうか。
さて、このお話(はなし)が何(なに)を意味(いみ)するかと言(い)えば、私達(わたしたち)が真実(しんじつ)の仏様(ほとけさま)の教(おし)えに巡(めぐ)り会(あ)うことが、いかに難(むずか)しいかを譬(たと)えた説話(せつわ)なのです。
亀(かめ)は私達(わたしたち)自身(じしん)であり、その腹(はら)が熱(あつ)いのは人( ひと)を許(ゆる)せない怒(いか)り(瞋(じん))、甲羅(こうら)が冷(つめ)たいのは果(は)てしのない欲(よく)(貪(とん))、片眼(かため)は自己(じこ)中心(ちゆうしん)の愚(おろ)かしさ(癡(ち))を表(あらわ)わしています。これらをあわせて貪瞋癡(とんじんち)の三毒(さんどく)と呼びますが、つまりは私達(わたしたち)の迷(まよ)い苦(くる)しみの根源(こんげん)です。これらを癒(いや)す「栴檀(せんだん)の浮木(ふぼく)」とは日蓮(にちれん)大聖人(だいしようにん)の説(と)き示(しめ)される妙法(みようほう)以外(いがい)にはありません。
そして、今(いま)貴方(あなた)がこのお話(はなし)を読(よ)んでいると言(い)うことは、千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスに巡(めぐ)り会(あ)っているという事(こと)ではないでしょうか。
日本(にほん)の仏教(ぶつきよう)は葬式(そうしき)仏教(ぶつきよう)等(など)と言(い)われ、実際(じつさい)多(おお)くはその通(とお)りです。でも、本来(ほんらい)仏教(ぶつきよう)は、今(いま)生(い)きている人(ひと)の為(ため)のもの。松(まつ)や杉(すぎ)の浮木(ふぼく)ではなく、栴檀(せんだん)との縁(えん)を大切(たいせつ)にして戴(いただ)きたい、と私達(わたしたち)は願(ねが)っています。一度(いちど)、お近(ちか)くの日蓮(にちれん)正宗(しようしゆう)寺院(じいん)を尋(たず)ねてみて下(くだ)さい。