仏教説話 鬼 子 母 神 ~差別と平等~

 昔、インドの御釈迦様(おしやかさま)の時代、鬼子母神(きしもじん)という恐ろしい鬼の母親がおりました。五百もの子供を産(う)み、育てているのですが、その乳を得る為に、母鬼は人間の子供をさらっては食べるという悪行を繰(く)り返します。
 困(こま)り果てた人々が、仏様に相談すると、仏様は意外にも、あっさりと「よろしい、任せなさい」と引き受けられたのです。
 お弟子達が「どうするのかな?」と心配顔で見ていると、仏様は母鬼の留守(るす)を見はからって出掛けて行き、五百匹もの子鬼の中から一番年下の子鬼をヒョイと抱き上げてお寺へ帰って来てしまいました。
 さて、母鬼は帰ってみると、下の子が一人いないことに気付き、血相を変えて七日七晩探し回り、精根(せいこん)尽(つ)きて仏様をたずねたのです。
「私の子供がいなくなりました。仏様は何かご存知ありませんか」
 仏様は素知(そし)らぬ顔でウチワなど使いながら「ほう、子供が居(お)らぬと、して何人居(い)ないのか」
「一人でございます」
「何、一人とな、なら良いではないか。そなたの家には五百の子が居る、一人おらぬとて、気にするでない」
 この言葉を聞いた母鬼は形相(ぎょうそう)を変えて怒ります。
 「今のは仏の言葉とも思われません。他に何百の子があろうと、あの子はたった一人、代(か)わりは居ません」
 これを聞いた仏様はウチワを止め、初めて正面からしっかりと母鬼の顔を見ます。
 「そうであろう。だが、ならば聞く。今までお前に食われた多くの子供達はどうなのか。お前からすれば、この国に何千何万の子供がいる。その中の五十や百、取って食べるのに何程(いかほど)の事があろう、お前はそう思ったのではないか」
 これを聞いて母鬼は初めて自分の罪深さを知り、泣いて許しを請(こ)い、二度と子供を食べない約束をして我が子を返してもらいました。
 でも、仏様は「二度としない」という母鬼の言葉をそのまま信じた訳ではありません。
 「もし又子供を食べたくなったら代(か)わりにこれを食べて耐(た)えよ」と言って一つの果物(くだもの)を渡したのです。
 それは石榴(ざくろ)の実。なぜ?と思う人は実際に食べてみれば分(わ)かります。
 口いっぱいに石榴の実を頬張(ほおば)って噛(か)みしめると真赤な果汁があふれてきます。
 それを子供の血だと思って飲みなさい、そして耐えなさい、というのが仏様の心でした。
 母鬼はその約束を守り通し、後に仏様の「最高の経」である「法華経(ほけきょう)」の説法を聴(き)いて信受(しんじゅ)します。そして、「これから、私は法華経を信ずる家を守り、子供を守る」という誓いを立て、仏様はそれを大変喜ばれました。
 「お前は今日からは鬼ではない。法華経を信ずる家と子供を守る一人の神として働きなさい」 鬼の母は鬼子母神(きしもじん)となったのです。
 このお話は、私達の日常生活とも深い関わりがあります。
 母鬼は自分の子を育てる為に他人の子を食べる、この事に何一つ疑問を持っていませんでした。
 つまり、自分に近いものを大切にし、遠いものを軽く扱(あつか)う。どんな事にも、近いか遠いか、好きか嫌いか、損か得か、順序差別を付けて対応します。これが世間の常識であり、「有縁(うえん)」と呼ばれる考え方です。
 対して、仏教は「無縁(むえん)の慈悲」を説き、平等無差別を目指しています。
 自分にとっての遠近、損得を越えて慈悲を廻(めぐ)らす、かなり大それた理想のようにも思えます。
 でも、ある人が言いました。
 「私の家の老犬が、近くをウロつく野良犬(のらいぬ)に噛(か)まれて大ケガをしました。腹を立てた私は保健所に野良犬の処分を頼もうと決めたのです。しかし、その日の夜、お題目を唱えながら、違(ちが)う気持ちが湧(わ)いてきました。
 私は自分の犬を助ける為に他の犬を殺そうとしている。本当にそれでいいのだろうか、と。・・結果、老犬を外へ出す時には柵(さく)を立てて被害を防ぐことにした。今は心からそれで良かったと思っています。」
 小さな日常の中に、無縁の慈悲が発見される、大聖人様の南無妙法蓮華経には、そんな不思議な力がそなわっています。