今成すべき信行の実践

 宗祖日蓮大聖人様は『聖愚問答抄』に、「小野小町・衣通姫(そとおりひめ)が花の姿も無常の風にちり、樊會・張良(はんかい・ちようりよう)が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。(中略)願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり」と仰せであります。

 毎年日本人の心を和ませる桜花爛漫の時も瞬く間に過ぎ去り、その散り行く花びらを見るにつけ、世の中の諸行無常の道理を感じるものではないでしょうか。古(いにしえ)より絶世の美女とされている女性も生者必滅(しようじやひつめつ)の道理の如く去り行き、中国・秦王朝を滅ぼし、前漢の皇帝となった劉邦(りゆうほう)の家来で、武芸に秀でた樊會や張良も、閻魔法王の使いである獄卒が持つ杖の前には全く歯が立たないように、いかに今生現世にて、あらゆる分野で地位や名声を得たり、多大なる財産を築いたとしても、ひとたびその寿命が尽き果てたならば、今生で成し得たそれらの名聞名利も一切役立つことなく、ましてや「生死無常、老少不定の境、あだにはかなき世の中に、但昼夜に今生の貯(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の業(わざ)をのみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行無智にして徒(いたずら)に明かし暮らして、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちようと)を行き、何を以て船筏(せんばつ)として生死の曠海を渡りて、実報・寂光の仏土に至らんや」と大聖人様が『松野殿御返事』にお示しの通りであります。

 よって私たちが今生現世にて求むべきは三世を貫く仏様の尊い御教え、行ずるべきは幸福の源泉たる妙法の功徳を積み累ねるべき真の仏道修行であることを銘記することが、末法を生きる私たちにとって最も肝要なことであります。そして、大聖人様が『一生成仏抄』に、「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如(ほつしようしんによ)の明鏡と成るべし。深く信心を発(お)こして、日夜朝暮(ちようぼ)に又懈らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」と仰せの如く、三毒煩悩に覆われた迷いの境涯を離れるべく、日々朝夕の勤行・唱題に励むことが根本中の根本行となるのであります。そうしたなかで、大聖人様が説かれる仏道修行の一つ一つを成じて行くことが、後生の幸福へと繋がる唯一の方途であることを今もって肝に銘ずべき大事であること、その理を世に弘め伝えることが大切であります。

 最近、スマートフォンでとある動画を目にしました。それは、アメリカの軍人がその任務遂行のため戦地に赴く姿と、数年数ヶ月とその身を案じ待つ家族の姿でありました。そして、無事その帰りを迎えた家族の嗚咽を漏らしながら喜ぶ姿、父親や母親の帰国に思わず飛んで抱きつき泣きじゃくる子供たち、将又戦地にて命を落とし訃報を告げられガックリと肩を落とし悲しみに咽ぶ姿、息子さんの死に口に手を当てて膝から崩れ落ちる母親、それぞれ喜びと悲しみの姿を見た時、何ものにも代え難い命の尊さを感じたと同時に、戦争や紛争の恐ろしさ、人の愚かさを感ずるものであります。

 思い起こせば3年前の秋口、妙眞寺近隣に住むウクライナ人女性Tさんが、境内に設けた滝を流れる水の音に誘われお寺に参詣し、御本尊様の不可思議な功徳の力用による清気清風に心洗われ、その後も度々参詣される姿がありました。しかしその後、祖国であるウクライナにロシアが侵攻し、お寺に詣でる彼女の表情が日々険しくなり心落ち込む姿に、何があったか話を聞きました。すると、「祖国に残した前夫との間に設けた長男と連絡がとれないこと」、「自分もウクライナに行きたいこと」、「これからどのような行動を取ればよいのかわからないこと」を打ち明けられ、私たち夫婦や小中学校のPTAで縁した方々と共に連携を取り、目黒区やウクライナ大使館などに連絡をとったり、自分たちにできること全てに手を尽くしましたが、現状として何もできずに自分たちの無力さを思い知らされました。その後も彼女は、息子さんの無事と悲しみの気もちを癒やすため、お寺にお詣りし続けられました。
 
 それから数ヶ月たったある日、一本の電話がありました。それはウクライナの戦地で取材をしていた記者の方からでした。内容は、「Tさんの前夫とウクライナで接触する機会があり、長男さんはキーウで亡くなったこと」でした。後日、その記者はお寺に参詣され事の詳細を詳しく説明して頂き、更に「Tさんは事情により一度ウクライナに行ったら、軍務につき当面日本に帰国できないこと」が判明し、Tさんは「現御主人や次男の方を残してウクライナには行けない」との結論に至りました。その後、長男の方の位牌や塔婆を認め法要を行い、Tさんも一つの覚悟と現実を受け止められ、妙眞寺信徒の一員になられました。Tさんはそれからもお寺に足を運ばれ、常々感謝の念を述べられ、時にはウクライナの郷土料理を振る舞い、色々とTさんの為に動いたり励まして下さったFさんを交えて夕食を摂ったり、雑談をしたりと徐々に元気を取り戻して行きました。また、昨年の春には、御主人、息子さんと共に参詣され、長男さんの一周忌法要を行い追善供養の誠を尽くされ、その後も時々に参詣され、御供養や御供物を捧げられております。

 この一連の出来事に一つの決着が付けられたことは、ウクライナの戦乱の数ヶ月前から自然と妙眞寺に足を運ばれるようになり、あまり日本語が流暢ではないTさんを支えられたFさんの働きや、ウクライナでの取材をしていた記者の方との出会いによって、全ての点と点が線で結ばれた結果であり、このような不思議な御縁が展開されたことは、お経や信心の意味は理解せずとも、足繁くお寺に通われ御本尊様に手を合わされたTさんへの、御本尊様からの御仏智この上ないものと拝するものであります。

 私自身も日頃から自分に何ができるか、ただ皆さんに折伏の大事や使命を説いたとしても、住職である私自身が事を起こし率先垂範していかなければ、その存在も無意味なものになってしまいます。よって、まずは子供たちの通う学校のPTA役員やその他自由が丘住区における活動に参加して顔を広げ、少しでも地域の方々のお役に立つ為にも積極的に地域活動に参加しております。そして、近隣地域の方や我が子が通う学校、保護者の皆様から信頼に足りうる存在になれるよう、法を求めるべき方と出会う因縁を築けるよう、現在子供が通う小学校には数ヶ支部の法華講員の方が在籍し、妙眞寺にも度々参詣される姿がありますが、支部は違えども広布への志は同じである方々と共に、地域の興隆発展と広布の為に、力を合わせて参りたいと願うものであります。

 現在、日本乃至世界各国で自然災害がより顕著となり、新型コロナウイルス等の疫病の蔓延、精治経済の混乱、悲惨な戦乱が世界各地で勃発している今、大聖人様が『立正安国論』に、「世(よ)皆正(しよう)に背き人悉(ことごと)く悪に帰(き)す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所(ところ)を辞して還(かえ)らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼来たり、災(さい)起こり難起こる」との御教示が、結果として今日の惨憺たる五濁悪世の様相を呈しているものと拝します。よって私たちはこうした状況を拝した時、令和の法華講衆たる私たちの行業が、まだまだ広布への志や実践が御本仏様の御意に適ったものではないと受け止め、世の中の苦悩と混乱の浄化矯正は、大聖人様の正法正義によってのみ解決できること、正に大聖人様の「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽(ねが)ふ所、土民の思ふ所なり。夫(それ)国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて須(すべから)く仏法を立つべし」との『立正安国論』の御金言を身に体し、ただ口に広布への思いを語れども、広布実現の道理を学ぼうとも、実際に自らの自行化他に亘る行動に移して行かなければ、元も子もなく、何も変えることも出来なければ、私たち自身も次第に福徳が尽き果て「元の木阿弥」になってしまいます。

 畢竟とするところ、宗祖日蓮大聖人様の御意を身口意三業をもって拝し、七百数十年に及ぶ歴史と伝統を護り継承しつつ、令和の今私たちがどのような広布への折伏の方途があるのか、日々発展していく科学技術を駆使したり、連絡ツールの発展により、何かと稀薄になっている人とのコミュニケーション、近所づきあいなどの、直接人との対面対話の機会を大事にしていくなど、あくまでもお題目にお題目を累ね、その功徳利益をもって事に当たることが重要ではないでしょうか。更に、創価学会をはじめとする新興宗教ほか、他宗他派も少子高齢化の波には勝てない姿があり、私たちは同様にそのあおりを受けないよう、法統相続を徹底していく重要性を鑑み、大聖人様が『四条金吾殿御返事』に、「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。たゞ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず(中略)苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ」との御教示を拝し、一家和楽の信心、講中乃至家族が異体同心して信行の実践に励み苦楽を共にして、努力精進していくことが肝要であります。

 そして、皆様の弛まざる信力行力と御本尊様の仏力法力が合致しその四力が成就するとき、広大無辺不可思議にして最高最善の結果に導いて下さる御本尊様の力用を、世間では〝奇跡〟とも〝不思議〟とも表現されるでしょう。かつて、正月の箱根駅伝で順天堂大学の今井正人選手に継ぐ〝新・山の神〟として名を馳せた、東洋大学の柏原竜二選手は座右の銘として、「奇跡を信じても奇跡は起きない。奇跡を起こそうとする人に奇跡は起きる」との言葉を残しました。この言葉を聞きまして、私達の信心においても同じ事が言えるのではないかと思います。すなわち、世間では人智を超越した奇跡とも不可思議とも言える、一つの結果を出すのが信心の醍醐味であります。よって今こそ私たちは〝結果を出そう〟との強い一念心をもって、折伏成就、障魔の排除、諸難困難の克服、悪因を断ち切り善果を生じせしめる等、どこまでも御本尊様の御仏智を確信してあらゆる物事に望んで頂きたいと思います。

 妙眞寺檀信徒の皆様には、日々御多忙のこととは思いますが、世情の浄化矯正と自身の一生成仏福徳増進の為にも、率先して今自分に出来うる最大限の信行、意を決して今まで行じてこなかった信行の実践を志し、それらに挑戦していくことが、現在の皆様の境涯を更に大きく開いて行くきっかけになっていくことと思います。どうか、その意とするところをお汲み頂き、混迷極まる乱世を力強く進み抜いて頂きたいと心より願います。