貧すれば鈍する(令和6年5月)

貧(ひん) す れ ば 鈍(どん) す る

                      令和6年5月 若葉会御講

 むかし、インドに大金持ちの長者(ちようじや)がいました。家の敷地(しきち)はとても広く財産が詰まった蔵(くら)もたくさんあり、召使(めしつか)いも大勢いました。ある日のことです。長者は、若主人(わかしゆじん)である娘(むすめ)の夫(おつと)(婿(むこ))を呼んで、「一人で裏山(うらやま)に行って薪(たきぎ)をこの車に積んできなさい」と命令しました。長者は「自分が死んでしまったあと、この婿(むこ)にすべてを任せたい、そのためには婿の器量(きりよう)、人としての能力や人徳を知りたい」と思ったのでした。
 婿(むこ)は今まで薪取(たきぎと)りなどしたことがありませんでした。雑用(ざつよう)はすべて召使いがやってくれましたので、自分一人ではなにをどうやっていいのかわかりませんでした。
 次の朝、婿は牛一頭に荷車(にぐるま)を引かせて、斧(おの)を手にして一人で薪を取りに出かけました。せまい林に着くと、牛から荷車をはなして薪になりそうな木を拾い、また適当な大きさの枝を斧で切って、それから長さをそろえて縄(なわ)でくくるというように、教えられた通りに薪の束を作り、それを荷車に積んでいました。
 昼過ぎには荷車が薪でいっぱいになり、婿は荷車を引いて牛をつないだ場所に戻ってくると、つなぎ方がゆるかったのか牛がいません。婿はビックリして荷車をそこに置いたまま走って牛を探しにいきました。あちらこちらと探し回りましたが、牛は見つかりませんでした。
 婿はすっかり疲れ果て、荷車のところに戻って来ました。すると今度は荷車が無くなっているではありませんか。荷車の車止めをしなかったので坂道を転げ落ちたのか、それとも誰かが盗んでしまったのでしょうか。婿は、今度は荷車を探しに行きました。日も暮れかかり、もう夕方近くになっていました。あちこち探し回っていると、とある池に出ました。その池には白い大きな鳥が水遊びをしていて、その姿が夕日の中でとても輝(かがや)いて見えました。婿は「あんなきれいな鳥を捕(つか)まえて帰れば、牛と荷車をなくした言い訳になる」と思い、そーっとそばに近づいて池の中の白い鳥めがけて斧を投げつけました。しかし、斧は鳥には当たらず、ドブンと池に落ちてしまい、白い鳥は天高く舞い上がり逃げていきました。
 婿は斧を探すために、来ている着物をぬいで裸になり池にもぐりました。しかし、日も暮れまわりは薄暗く、いくら探しても斧は見つかりませんでした。婿はあきらめて池から上がってくると、今度は着物がありません。婿はやることなすこと失敗ばかりで、何一つ思い通りにいきません。
 婿は裸のままトボトボと屋敷に帰ってきました。もうすっかりあたりは暗くなっていて、牛も荷車も斧もなくし、長者にあわす顔がありません。ましてや裸です。玄関からは恥ずかしくて入れないので、裏口からコッソリ忍び込もうとしたところ、物音を聞きつけた召使いたちが、「ドロボーだ~」とさけび、みんなが手に棒を持ってかけつけました。暗いため誰かわからず、まさか婿とは思いません。召使いの誰もが裸のドロボーと思いこみ、婿が何か言っても聞いてくれず、召使いたちに棒でさんざんたたかれてしまい、婿は血まみれになって、片方の眼はみえなくなり手足の骨も折れてしまい、グッタリとしていました。そこへ騒(さわ)ぎを聞いた長者がきて、捕まえられたドロボーをよく見ると、それは帰りがおそいと心配していた婿の姿でした。長者は「なんという姿だ、どうしたんだ」となげき、がくぜんとしました。
 長者の後継ぎとして恵まれた立場の人が、どうして召使いの人から棒でたたかれ、手足の骨が折れ、眼も見えなくなるようなことになってしまったのでしょうか。
 婿がもっと責任感と使命感を持って、目先のことにこだわらずに、慎重に正々堂々(せいせいどうどう)と行動すれば、失敗ばかりしてすべてを失うことはなかったでしょう。そして、コソコソしなければ、ドロボーに間違われることもなかったでしょう。本当にかわいそうな婿です。
 婿の失敗はどんなことが原因だったのでしょうか。一つには、「長者がどんな気もちで一人で薪を取りにいかせたか、という長者の心を知ることができなかったこと」。二つには、「牛をきちんとつないでおくとか、荷車をしっかり止めておくとか、ひとつ一つの行動に、慎重さが欠けていたこと」。三つには、「後先のことを考えずに、目先のことばかりにとらわれて、失敗を取り繕(つくろ)うとしたこと」。四つには、「たとえ裸になっても、正直に長者に自分の失敗を報告することができなかったこと」などが考えられます。
 私たちは、「我見(がけん)」といって、後のことを考えずに目先のことや自分の考えや欲望(よくぼう)にとらわれて行動してしまうと、婿のように全てが悪い結果となってしまいます。
 むかしから、『貧(ひん)すれば鈍(どん)する』といって、生活が貧(まず)しくなると、その苦労のために頭のはたらきが鈍(にぶ)くなってしまい失敗ばかりしたり、楽をして何かをしても、かえってやることなすこと、すべてがうまくいかなくなってしまうことになります。婿の場合は、決して身分が貧しいわけではありませんが、心が貧しくあのような結果になってしまいました。日蓮大聖人さまは、『蔵(くら)の財(たから)よりも身(み)の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此(こ)の御文(ごもん)を御覧(ごらん)あらんよりは心の財をつませ給(たも)ふべし』と仰せになっています。
 皆さんは、せっかく尊い日蓮大聖人さまの信心をしているからこそ、毎日の朝夕の勤行や唱題を一生懸命行い、私たちにとって一番大切な「身や心の財」をたくさん積むことがとても大切なことであることを忘れないで下さい。そして、たとえお金持ちになったとしても、人の上に立つ立場になったとしても、皆さんが、「こんなことを言われり、されたりしたらイヤだな」と思うことは、周りの人や友だちにすることがないように気をつけて行きましょう。また、何か悩むことがあったり、どうしたら良いのか、わかないことがあったら、お父さんやお母さん、住職さんに相談して、決して自分一人で答えを出すことがないように、正直に慎重に行動して行きましょう。そうした心掛けを持てるようになると、自然と皆さんの毎日が楽しく穏やかになり、たとえ失敗をしても反省して、二度と同じ失敗をしないようになります。どうか皆さんが、心豊かにありとあらゆる人に対して思いやりの心を持って、御本尊さまから褒(ほ)められ、諸天善神(しよてんぜんじん)という大聖人さまの信心を行っている人を見守り、いざという時に護って下さる方々に助けて頂けるようになって下さい。