御報恩御講(令和6年2月)
令和六年二月度 御報恩御講
『唱法華題目抄』(しょうほっけだいもくしょう) 文応元年五月二十八日 三十九歳
末代(まつだい)には善(ぜん)無(な)き者(もの)は多(おお)く善(ぜん)有(あ)る者(もの)は少(すく)なし。故(ゆえ)に悪道(あくどう)に堕(だ)せん事(こと)疑(うたが)ひ無(な)し。同(おな)じくは法華経(ほけきょう)を強(し)ひて説(と)き聞(き)かせて毒(どっ)鼓(く)の縁(えん)と成(な)すべきか。然(しか)れば法華経(ほけきょう)を説(と)いて謗縁(ぼうえん)を結(むす)ぶべき時(じ)節(せつ)なる事(こと)諍(あらそ)ひ無(な)き者(もの)をや。(御書二三一㌻九行目~一一行目)
【通釈】末法には善(妙法の下種)を受けていない者が多く、善を受けた者は少ない。故に(ほとんどの者が)悪道に堕ちることは疑いない。同じく(悪道に)堕ちるなら法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁を結ばせるべきである。されば(末法の今の時は)法華経を強いて説き、謗らせて縁を結ばせる時節であることは、争う余地はないのである。
【拝読のポイント】
○妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり
大聖人は本抄に、「妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり」(御書二三〇)と仰せです。これは、お題目の功徳が考えも及ばない、勝るものなきことを示されているのです。
現在、私達が日々唱える題目について、総本山第六十七世日顕上人は「この題目こそ、末法に宗祖大聖人が弘通し給う本門の題目であり、また、末法の我等一切衆生が本門の本尊を信じて唱うる題目であります(中略)我等の唱える題目は御本仏の唱え給う題目と、寸分の違いもないのであります。本当に有り難いことであります」(大日蓮・平成六年五月号)と述べられ、御本仏と同じ修行をさせていただいているのだという、大変尊く深い意義を明かされています。
第二十六世日寛上人は、「たとへ授戒候とも本尊なくば別して力も有まじく候」(福原式治殿御返事)と仰せになられ、御本尊を安置して修行に励むことの大事を指南されています。本日参詣の皆さんは、御本尊に向かって真剣にお題目を唱えると、その功徳によって充実した毎日を送ることができる、と実感されているはずです。ですから、内得信仰の方は一日も早く我が家に御本尊をお迎えし、日々の信行に努め、揺るぎない幸福な人生を築いてまいりましょう。
○強い一念で、根気強く折伏を実践しよう
末法の衆生は、過去世に真の仏縁がなく、成仏のための仏種を具えていません。したがって、末法の御本仏・日蓮大聖人によって成仏の要諦である妙法の下種を受ける必要があるのです。
折伏によって妙法の下種を受けた衆生は、ただちに妙法を信じて仏縁を結ぶ順縁の人と、信受することができずに誹謗し、その悪業がかえって仏縁となる逆縁の人とに分かれます。逆縁の人は、不信謗法の罪によって地獄に堕ちて苦悩しますが、ひとたび妙法に縁したことによって、いつか必ず成仏することができるのです。よって拝読の御文に、「法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか」と示されるように、たとえ相手が素直に信受できなくても、謗法をきちんと破折し、正法を説き示して妙法受持を勧める、破邪顕正の折伏を行っていくことが最も大切です。
私達は、相手の方がこちらの話に耳を傾けてくれないからといって、早々に諦めてしまってはいけません。それは無慈悲というものです。折伏は〝なんとしても救いたい〟との強い一念で、根気強く継続しましょう。
○日如上人御指南
相手が思うように言うことを聞かないと一方的に断念して、折伏を途中で諦めてしまいがちであります(中略)相手がかたくなに反対しても、そのあと相手の心境が変わって入信に至ることはよくある話であり、折伏の縁を断ち切るのではなくして、根気よく折伏を続けていくことが大事であります。 (大日蓮・平成三十年五月号)
□まとめ
今月は、日蓮大聖人御聖誕の月です。大聖人は、世の中の不幸や苦悩の原因が誤った思想や宗教にあることを教えられ、正法受持の大事を説かれたのです。申すまでもなく、広宣流布は大聖人の御遺命であり、日蓮正宗七百七十年の悲願として、私達大聖人の弟子・信徒が片ときも忘れてはならない大目標です。大聖人の御意を我が心として、広布の歩みを一歩でも二歩でも前進させていくことが肝要です。一月の唱題行で積んだ唱題の功徳を、折伏実践に活かし、広布大前進につなげてまいりましょう。
□住職より
「令和六年能登半島地震」が発生して以来一ヶ月が経過しましたが、未だ安否不明、避難生活を余儀なくされている方々が数多くいらっしゃいます。そうしたなか、被災しつつも高校へと無事登校している学生のインタビューで、「自分はなんとか高校へ通うことができて有り難いけど、同級生が安否不明であったり避難していて登校できていないことを考えると罪悪感を感じてしまう」と話していました。また、「被災して初めて、毎日普通に生活できることの有り難さを感じた」という話もありました。
こうした大規模な自然災害による被災者の方々を見るにつけ、「明日は我が身」と感じつつ、平穏無事な日々の生活を送らせて頂けることに感謝申し上げると共に、いざという時に御本尊様の御照覧と諸天善神の御加護を享受できるよう、心して信行の実践に励むことがいかに肝要であるかを拝するところであります。
さて、大聖人様御在世当時も、毎年のように大地震、大雨洪水、干ばつ等の天変地夭、大火事や大風、大飢饉が日本全土を襲い、更にコロナ禍のような疫病の流行により、人々は塗炭の苦しみに喘いでいました。そこで大聖人様は正嘉元年の大地震の三年後、『立正安国論』をお認めなされ、文応元年(正元二年)七月十六日、時の権力者に奉呈し、世の中全ての人々を不幸にならしめる災禍の原因が、念仏・真言等の邪宗謗法の害毒にあり、特に法然の念仏を一凶と挙げられ、すぐさまこれら邪法邪義を排除して妙法の御教えに帰依しなければ、今後『自界判逆難』・『他国侵逼難』の二難が競い起こることを予証されました。
その八年後の文永五年には『宿(やど)屋(や)入(にゆう)道(どう)許(もと)御(おん)状(じよう)』に、「去ぬる正嘉元年丁巳(ひのとのみ)八月二十三日戌(いぬ)亥(い)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘へたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起こす所の災ひなり。若し此を対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之を撰し、正元二年庚申(かのえさる)七月十六日、御辺に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧す。其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之有る由風聞す等云云。経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり」と仰せになられております。
特に本年は浄土宗開宗、いわゆる法然が念仏の宗旨を開いて已来八百五十年の年を迎え、浄土宗の各寺院では大々的に法要を行うようであります。正に鎌倉時代の一凶である念仏宗の記念の年であるが故に、正月早々能登半島のおける大地震といい、羽田空港における飛行機接触事故といった災禍が起こる因縁を感ずるものであります。
しかし私たち日蓮正宗の僧俗は、コロナ禍であろうが、ありとあらゆる災禍が我が身を襲おうが、命ある限り、有り難くも当日本国に人として生を受け、末法唯一無二の正法正義に巡り合えた因縁宿習の使命と責務を果たす為にも、時の御法主上人の御指南のもと、本門戒壇の大御本尊様や各菩提寺外護のため、身軽法重死身弘法の御聖訓を身に体し、大聖人様が、「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽ふ所、土民の思ふ所なり。夫国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」と仰せの如く、いよいよ自行化他の行業に身命を賭して行くべき時を観じて頂きたく願います。
兎にも角にも、邪宗謗法の恐ろしさを改めて認識頂き、世の中の多くの人が娑婆世界における三毒煩悩に満ち溢れ、幸福の価値を外面に求めている姿を愍れみ、真の幸福が自身の内面にあること、御本尊様への確信と信心を持って、命の奥底に眠る仏性を開かしめて清く尊い人生を全し、あらゆる宿業や罪障、障礙を排除し、自らの境涯を大きく切り開いて行くことこそが、大聖人様説くところの私たちの幸福なる境界の確立であることを銘記して頂きたく、御精進頂きたく存じます。