サッカーW杯を終えて

 4年に一度のサッカーの祭典であるワールドカップカタール大会も、各大陸代表国のメンバーが国の威信をかけて1か月間に及ぶ激しい激闘の末、アルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナの再来と言われる、リオネル・メッシ擁するアルゼンチン代表が1986年のメキシコ大会以来、36年、9大会ぶりの優勝を遂げ閉幕いたしました。

 アルゼンチン代表は、35歳になるメッシを含め、数名のベテラン選手を除いて世代交代が進み、かつて子供の頃に若かりしメッシの活躍を羨望の眼差しで追っていた二十代の若手選手たちは、世界のサッカー界においてあらゆる栄冠を勝ち取ってきたメッシが、ただ一つ手にしていなかったワールドカップ優勝とその優勝カップであるジュール・リメ杯を獲得する為、正にメッシの為に若い選手達が一丸となって奮闘する活躍と、インフレ率99パーセントという、貧困に喘ぐ母国に勇気と希望を与えるために必死に戦う姿に非常に感銘を受け、また、そうした思いと姿が優勝後のアルゼンチン選手の姿から窺い知れました。
 通常なら優勝を決めた瞬間、選手たちは母国サポーターの前に走り出しその喜びを分かち合うでしょうが、今回は延長戦をふくむ120分とPK戦を勝ち抜いた瞬間、選手達はメッシの周りに集まり抱きしめ合い涙ぐむ選手たちを見て、これだけ若い選手たちに慕われ愛され尊敬され、なんとかメッシの為に優勝しようと、1ヶ月間による過密日程の7試合で、もはや体力の限界を超えた選手たちが感極まり涙する姿に、メッシという類い希なサッカーの才能を持ち、数々の栄光を手にしながらも、決して奢らず浮かれず人格をも兼ね揃えたサッカー選手の偉大さに、改めて気づかされた次第であります。

 このリオネル・メッシという選手が、アルゼンチンの英雄としてそれだけの人気を誇る理由は、彼の今日に至るまでの半生にその理由があり、ここでは割愛させて頂きますが、怪物キリアン・エムバペ擁する前回大会優勝国にして優勝候補筆頭のフランス代表との決勝は、近年希に見る試合となりました。優勝を渇望するアルゼンチンと満身創痍のフランスとの戦いは、俄然前半瞬く間に2点先取したアルゼンチンのペースで試合が流れて行きましたが、後半に入りエムバペの個人技が冴え渡り徐々にフランスが主導権を握り帰し、同点に追いつくこと三度、一進一退の攻防を広げ、アルゼンチンも最後までリードを守り切れずにPK戦へと突入した結果、最後に勝利を手にしたのはアルゼンチンでした。特に今回大会は、アジア・アフリカ諸国代表チームの台頭など、予想を大きく覆す結果が数多くあり、今までの組織的な作戦によるプレースタイルと違い、サッカーの基本とするドリブル、パス、そしてシュートがいかに正確なものであるか、個々の能力の正確さをここぞという時に発揮し、ちょっとした隙を見逃さず確実にものにすること、そうしたスタイルによって日本代表が大番狂わせを起こした結果になったと個人的には思います。また、フランスとアルゼンチンとの決勝では、アルゼンチン代表が苦しみに喘ぐ母国への思いと代表としての誇りと責務を持ち、今大会で年齢的に最後の大会になるであろう母国の英雄メッシ選手に、何とか優勝という栄冠を勝ち取らせたいという共通認識、そしてそれを現実にする為の一体感と一つ一つのプレーに全力を傾注し最後まであきらめない姿が、最後の最後で明暗を分けたのが非常に印象に残りました。

 私はオリンピックや各種スポーツの世界大会、正月の風物詩である箱根駅伝などの団体競技などはよく観戦し、選手たちが日ごろの鍛錬を発揮するにも、その時々の身体的精神的状況によって、本来の力を発揮できずに涙を呑む選手や、想像を絶する活躍を見せ誰もが予想だにしない結果を打ち出す姿から感銘を受けつつ、この信心に何か役立つべき姿を見出し活用できるよう、よくよく選手のインタビューや情報を把握して、その特筆すべきところに注視しております。特に今回のサッカーワールドカップは、私たちの信心に重ね合わせべきことが、多く感じることができる大会であったようにも思います。

 すなわち、私たち日蓮正宗の僧俗は、宗祖日蓮大聖人様が立教開宗以来八百年に向かう今日、ましてやこの娑婆世界、生じては滅することを繰り返してきた、仏教における久遠五百塵点劫という壮大な歴史を有する世界観と歴史の上で、私たちは今、令和の法華講衆としての誇りを持ち、その使命と責務を抱き全うしているかどうか、宗祖日蓮大聖人様が唱え出だされたお題目が世界各国へと弘め伝えられ、大聖人様が『諸法実相抄』に、「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや(中略)日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし」との御教示を、身をもって体現出来ているかどうかを改めて考えさせられます。
 つまり、人として生を受け値い難き仏法に巡り値えた因縁を、誇り高くまた有り難く感じているかどうか。様々な功徳利益の現証を賜ったものの、御本尊様への報恩感謝の念を忘れ去ってはいないかどうか。そして今、大聖人様の御遺命たる広布大願と、コロナ禍をはじめ、ありとあらゆる混迷の極みを増す世情の浄化矯正、自身はもとより世の中の人々一人ひとりの真の幸福を実現するためにも、志を共にしてその思いを重ね合わせ、異体同心一致団結してことに当たっているかどうか、因縁宿習はそれぞれ違えどもやるべきこと成すべきこと、果たすべきことは同様であり、互いに切磋琢磨し励まし合って、限りある命とその日々を有意義かつ清く正しく、功徳利益溢れる境界を目指し勇往邁進しているかどうかを、今一度省みるべきではないでしょうか。

 大事な事は、いかに過去からの因縁宿習によって進むべき道を阻まれようが、あらゆる障魔が競い起きようが、平和安穏なる日々を送ろうが、常に御本尊様への確信を持ち疑念を起こすことなく大聖人様の御聖意を我が身に拝し、強盛なる一念心を持って立ち上がり前進していく為にも、今こそ意を決して実践行動に励んでいかなければなりません。正に大聖人様が、「たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せのように、そうした信心即生活を心掛け、無為な人生、無益なことに執着せずに一年365日、与えられた限りある人生において、本当に大切なことに気づき、気づかせて行くことが肝要であります。

 そして、皆さんの慈悲に満ち溢れ勇気ある一言を必要としている人、待っている人が沢山いることを忘れないで欲しいと思います。つまり、大聖人様の尊い御教えを弘め伝え、何としてでも一人が一人の折伏を心掛け、決してあきらめることなく続け、その和を講中に大きく広げていくこと、いかに時代が変わろうとも何が起きようとも、私たちは命ある限り常に前進していくこと、その時代時代において順応し今何をしていくべきか、折伏においては何に留意し、行って行くべきか。そこのところを具体的に考え行って行くことが肝要であります。

 大聖人様は『諸法実相抄』に、「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」と仰せのように、強盛なる大信力によって御本尊様の御冥加と諸天善神の御加護を賜りつつも、皆さんが行学の二道に励むことも至極大切なことであります。いわゆる折伏を行うに当たり、何を学び何を心得、何を中心に行じていくべきか。当然、不断の唱題行が中心にはなりますが、ただ漠然とお題目を唱えるだけでなく、自行化他に亘るお題目、つまり折伏すべき人折伏したい人の魂に御本尊様の御徳を送り届けるべく、更に日ごろから相手の信頼に足りうる所作振る舞いと発言を心掛け、決して皆さんの心ない一言で相手を傷つけたり、嫌な思いをさせたり、怒らせることのないようありたいものです。そして、折伏に足りうる教学を学び、知識を貯えることも大事なことであります。

 例えば、折伏に役立つチラシや文書の内容も、多からず少なからず、難しすぎず簡略すぎないものであること。またその題名は、特に重要なウエイトを占めています。渡された方が、「これはちょっと読んでみようかな」、「これぐらいのものだったら、パッと読んでみようかな」と思えるものを渡せるよう、常に私も色々と考えを巡らしています。そこで前回、新しく入信した方々の御意見を取り入れつつ、半年の歳月をかけて作成した折伏文書が、妙眞寺に備え置いていると思います。折伏するにも、なかなか口で上手く伝えられない方、折伏に足りうる仏教の歴史や教え、末法令和の時代のいま、なぜ大聖人様の教えが唯一無二の正しい教えなのかを上手に説明することは、なかなか難しいかもしれません。ですので、どうか御活用下さるよう心よりお願い申し上げます。

 以上、最後にまとめてみますと、皆さんには明年『折伏躍動の年』を迎えるに当たり、①日蓮正宗の僧俗としての誇りと使命と責務を忘れてはならないこと。②折伏にせよ、自身の生活や仕事にせよ、どこまでもあきらめずに、全身全霊をもってお題目を唱え、結果がでるまで柔和忍辱の心にて継続すること。③講中和合して、折伏の志を一人ひとりが持ちその和を広め、その思いを共有していくこと。④世の中の流れに身を委ねることなく、染まること無く、ただただ大聖人様の御意のままに信行実践していくこと。⑤与えられた命を有意義に、その送るべき日々に油断怠り無きよう、また自身の所作振る舞い、発言行動にはよくよく注意していくこと。⑥宗祖日蓮大聖人様の御遺命たる、広宣流布という大目標に向かって心を一にして、その為にも確固たる一念心を持って、大きく前進することができるよう、皆さんの下種折伏を待っている人たちに、確実に巡り値い伝えることができるよう、あらゆる信行の実践に励み勤しむこと。
 以上の六項目を銘記し、どうか「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」との御教示のままに、皆様方の更なる信行倍増福徳増進と、罪障消滅所願満足を心よりお祈り申し上げ、その意とするところお汲み頂きますよう、お願い申し上げます。