妙眞寺初代住職祥月命日を迎えて

 今年も12月16日に、妙眞寺初代住職・一如阿闍梨廣生房日弘大徳(いちによあじやりこうしようぼうにちぐだいとく)(平山廣生)の祥月命日を迎え、講中の方々をはじめ有縁御信徒の方々、遺族親族の願い出により御塔婆を建立申し上げ、去る12月11日に、妙眞寺創立89周年記念法要と共に祥月命日忌法要を奉修申し上げた次第であります。
 初代住職であり、私の祖父でもある平山廣生房は、明治34年3月7日に宮城県にて出生し、その後、法道院信徒・阿部けい女史(自淨院妙䑓日鏡信女)の折伏により本宗に帰依しました。大正14年9月26日、25歳の時に宿縁薫発(くんぱつ)して妙光寺第二代御住職・大慈院日仁(にちにん)贈上人(有元日仁(ありもとにちにん)御尊能化)を師範として出家得度し、伊那の信盛寺、土浦教会等に在勤して仏道修行に錬磨し、その後、独立弘教を志し城南地域に土地を求め、昭和8年12月8日、八畳一間と須弥壇のみの小堂を建立し、妙眞寺の前身となる信行閣として、当時は周り一面草原が広がり、富士山をも拝することができたという、現在では想像もできないような緑が丘の地にて、東都弘教を開始されました。爾来46年、昭和53年12月16日に霊山へと旅立つまで、筆舌に尽くし難い険しく困難な道のりながらも、私財を投じつつ次々と誕生していった妙眞寺法華講衆の皆様方と共に、不惜身命粉骨砕身して折伏弘教と寺域の整備に尽力し、昭和37年には現在の妙眞寺本堂庫裡が完成したのであります。

 顧(かえり)みれば祖父は、私が誕生して3か月余りが経過した昭和52年4月8日に、長男であり私の父でもある憲廣房日明大徳(けんこうぼうにちみようだいとく)(平山憲廣)を亡くし、その時には「余りの悲しさに涙も出なかったよ」、「孫の憲雄が得度する迄は頑張らなくては」と述懐(じゆつかい)していたと、本葬儀の折の常義院日誉贈上人(じようぎいんにちよぞうしようにん)(秋山日誉御尊能化)の弔辞より拝しまして、大聖人様の「老少不定(ろうしようふじよう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ方も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、歎きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだにはかなき世の中」との御聖訓を思い浮かべつつ、世の中には様々な艱難辛苦(かんなんしんく)のなかでも、若くして長男に先立たれるという深い悲しみを迎えたとしても、立ち上がり前を向き、その苦難を乗り越えなければならないという因縁宿習の現実を、どんな思いでいたかと思うと、私自身、大聖人様が「事にふれ、をりに付けても後世を心にかけ、花の春、雪の朝(あした)も是を思ひ、風さはぎ、村雲まよふ夕にも忘るゝ隙なかれ。出る息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。総て過ぎにし方をかぞへて、年の積るをば知るといへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。臨終已に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし」また、「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし」との御聖訓を奉戴して、如何なる諸難困難が我が身を襲おうとも、障魔の用きが競い起きようとも、踏まれても踏まれても起き上がる雑草のように、全ての諸難困難を御本尊様への確信と、不惜身命の精神を持って乗り越え、たとえ挫けそうになるようなことがあったとしても、とにかく立ち上がり前進していく以外に道は無いと心得ることが、人として将又日蓮正宗の僧俗として、いかに肝要であるかを痛感いたすものであります。
 
 私自身、毎年12月に入りますと、8日の妙眞寺創立記念日、16日の初代住職の祥月命日を迎えるに当たり、今年も少しは妙眞寺の厚隆発展に寄与することができたかどうか、足下にも及ばないのは無論承知のこと、初代住職の広布への志を万分が一でも引き継ぎ果たすことができたかどうかを省みて、25日の自身の誕生日を迎えております。
 思えば12年前、御法主日如上人猊下の御慈命を賜り、妙眞寺第三代住職として赴任したところ、正信会僧侶の30年に亘る不法占拠によって、その毒気に染まり薄暗く侘しさを感じる境内、申し訳無いほどの御宝前、各法要に必要な仏具も揃っておらず、ましてや平成22年も中盤を迎えたなか、折伏に奔走しなければならない状況下、何から手を付けるべきかを暗中摸索するなかではありましたが、信心強盛にして帰命依止の道場を取り戻し歓喜に沸く妙眞寺法華講衆の皆様をはじめ、有縁の僧俗の皆様、親族の皆様の御厚情と赤誠によりまして、寺域の整備も無事整えることができました。折伏育成の面においても、講中の皆様の深信なる実践行動により、今日に至るまで多大なる結果をもたらして頂き、誠に有り難く存じ上げます。
 気づけば妙眞寺境内も、正信会による垢がすっかり払い落とされ御本尊様の御威徳溢れんばかりと明るくなり、今では妙眞寺御信徒をはじめ、あらゆる支部の御信徒が毎日昼夜を問わず絶え間なく参詣せられ、心底法悦に浸っております。

 もともと父を生後3ヶ月で亡くし、それ故忝くも多くの方々からの心温まる御厚情を頂きながら、今日まで過ごしてくることができましたが、そうした中、心打ちひしがれるような悲しみに暮れる出来事が、今でも深く心に刻まれ、また決して忘れてはいけないものと肝に銘じていることがあります。
 今でこそ私も3人の子供の父親として、家内に多大なる負担をかけながらも、妙眞寺赴任当時、生後1か月であった長女も12歳となり、更に間もなく10歳になる長男と7歳になる次女がおりますが、毎日御本尊様に子供たちの「信行倍増罪障消滅と身心健全にて法統相続し広布の人材になれるよう」御祈念申し上げております。
 講中の子供たちにも若葉会御講で常に申し上げておりますが、当然我が子にあっても同様、勉強はできるにこしたことはありませんが、それが全てではないこと、財産もあるにこしたことはないけれども、そこに固執することがあってはならないこと。大事なことは、これから成長して行くに過程において、令和の法華講衆として、来たるべき諸難困難に打ち勝つ為の御本尊様への絶対的確信と信行の実践、優しさと思いやり溢れる心根を持ち努力精進を怠らないことの大切さ、嘘や詐りの発言、行動があってはならないこと、限りある尊い人生を有意義に全うして欲しいことを願っています。

 今から20年ほど前のことになりますが、非常に近しい子供が突然命を落とすという痛ましく悲しい出来事に遭遇いたしました。今でもその当時のことは鮮明に覚えており、本当に「腰が抜ける」とはこのことであるかのような状況であり、「昨日一緒に遊んだのに、なんで、どうして?」という感情が拭えず、何事にも集中できずに、ただ涙ばかりが止めどなく流れ、悲嘆に暮れる日々が続きました。当然、その子供の御両親の悲しみはいかばかりかと思うと、更に悲しみの感情が抑えきれない状態が続きながらも、命の大切さとそれが有限であり、時には幼くして親を先立つ子供の姿もあり、どんなに辛く悲しい出来事に遭おうが、いつまでも悲しみに暮れていてはいけないことと、このような残酷なことが起きようとも、必ず日が明ければ翌日となるように、止まない雨がないように、未来に向かって、はってでも立ち上がり、なんとしてでも前進して行かなければならない時もある、ということを思い知らされ、また自分自身の今後の資糧にしなければならないと誓う出来事でした。それ以来、このことは片時も忘れず我が指針として心に留めおき、毎月の命日には必ず塔婆供養申し上げております。

 皆さんも、どうか令和の今日、コロナ禍で亡くなる方々、ロシア軍によるウクライナ侵攻によって尊い命が犠牲となっていること、世界各地でおきている自然災害などの悲しい現実から、命の大切さと清く正しく全うして行くことの大切さ、不幸の根源である邪宗謗法の害毒の恐ろしさと、少しでも多くの幸福な姿を築く為にもそうした謗法を破折し、正法に帰依せしめんとする覚悟と決意があるかどうか。それが、私たちが人として生を受け値い難き仏法に巡り値えた者の使命であり、その責務を全うすることが私たちの務めであることを感じているかどうかを今一度鑑みて下さい。
 大聖人様は、「過去遠々の苦しみは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」とは如来の教へ「所以に諸法は幻の如く化の如し」とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」との御聖訓を今こそ心肝に染め尽くし、いよいよ宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念総登山を控える、明年『折伏躍動の年』に向け、本年残す日々を無駄にすることがないよう、最後まで諦めずに折伏に奔走して、明年への明確な目標を掲げて大晦日を迎え、元日より決意新たに実践行動できるよう、大聖人様の「たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」との御教示通り、その身に油断怠りあって障魔に足下をすくわれることがないよう、あらゆる障礙を排除して残すところ2週間余り、皆様一人ひとりが本年の掉尾を飾る信心に深く住し、それぞれ御精進の誠を尽くして頂きたいと念願申し上げます。