真心の布施行 (令和4年11月)

真 心 の 布 施 行(まごころのふせぎよう)

令和4年11月 若葉会御講

 むかし、インドのコーサラ国の都(みやこ)の舍衞城(しやえいじよう)に、スダッタという人が住んでいました。彼はいつもお釈迦(しやか)さまやその弟子たちに真心(まごころ)の布施行(ふせぎよう)を行い、御供養(ごくよう)できる喜びを、身をもってありがたく思っていました。スダッタは「自分は長者の身としてあり余る財産に恵まれ、思う存分御供養をさせていただき、多くの功徳(くどく)を積ませて頂いている。この喜びをみんなにも教えてあげたい。もし、お金持ちだから功徳が得られ、そうでもなければ功徳が積めないということは不平等なことだ。裕福な人も、貧しい人も、男の人も、女の人も、老人も、若者も、みんな漏れなく仏さまに御供養して功徳を積んでもらいたいものだ」と思いをめぐらしていました。そして、このことを国王である波(は)斯匿王(しのくおう)に相談しました。
 波斯匿王は、「長者よ、お前が自分だけの御利益(ごりやく)だけではなく皆の御利益を考え、功徳を積ませたいと考えていることは私も大賛成だよ。お金持ちのお前は、信仰心さえあれば、いつでも何でも御供養できる。これはそなたの身の福徳なのだから、お前はもの惜しみすることなく、存分に御供養申し上げたらいいだろう。しかし、貧しい人たちはそれなりに精一杯の身分相応の御供養をすればいいんだよ。量の多い少ないよりも、真心の御供養が大切なんだよ。ただ、もし悪人に布施をした本人は悪事を行わなくても、悪に力を貸すことになって、悪の因業(いんごう)を積むことになる。ちょうど、石ころばかりの川原(かわら)に作物の種をまくようなもので、いくらまいてもその種が実ることはないということだよ。反対に、仏さまに御供養すれば、善徳を積むことができる。田んぼに種をまけば秋には稲穂がたくさん実るのと同じことなんだよ。すべての国民が正しい信仰心を起こし、仏さまに御供養して幸福になってくれることは、自分の願いでもある。お前が国中の者たちに呼びかけることを許そう」と言いました。
 こうしてスダッタの、「多くの人々に功徳を積んでもらいたい」という願いが国王に許可され、国内には「スダッタ長者が国中の人々と共に、仏さまに御供養して功徳を積むことを弘めている。これは国王の命令ではないが、このことはお釈迦さまの教えに準じた行いである」とのおふれが出されました。
 スダッタは日ごろ、貧しい人々に分け隔てなく財物を分け与えていたので、国中の人々から信頼されていました。ですので、「スダッタ長者さまと一緒に仏さまに御供養させて頂けるなんて幸せなことだ。私もぜひ御供養させていただこう」と、国民はこぞって喜び合いました。
 やがて、白ゾウに乗ったスダッタ長者が町に現れると、町中の人々はいろんな物を持って集まってきました。家宝の金銀や宝石を差し出す人、自分がはめていた指輪や腕飾りを出す人、着物や日用品まで、豊かな人も貧しい人も精一杯の気もちで、色々な自分の財物を仏さまに御供養しようと、スダッタの用意した荷車はみるみるうちに一杯になりました。
 そのような中、この様子を不思議な顔をして見つめている一人の老婆がいました。老婆は自分の前を通りかかった男の人に、「もしもし、あなたは長者さまの所へ行ってこられたのですか?そして、何をされてきたのですか?」と尋ねました。するとその人は、「はい、そうですよ、おばあさん。長者さまのところへ布施をしに入ってきたところです」と答えました。老婆は、「どうしてお金持ちの長者さまに布施をするのですか?逆ではないのですか?」と尋ねると、「おばあさんは王様のおふれを聞いていないのですか?長者さんは自分のために集めているのではなく、みんなが少しでも功徳を積めるようにと、お釈迦さまの教えに従って、布施行を呼びかけて仏さまに御供養する財物を取りまとめているのですよ」と、男は老婆に説明しました。
 老婆は耳が遠かったので、このことを知りませんでした。「あぁそうでしたか。よく教えて下さいました。私も参加いたしましょう」と、男に言いました。しかし、老婆は非常に貧しく、御供養しようにも財産も宝物もありませんでした。唯一あるといえば、今着ている着物だけで、この着物もつい先日3ヶ月間かけてやっと織り上げた着物でした。だからといって、「布施行を惜しむならば未来世はもっと貧しさに苦しむだろう」と思いました。老婆は、「自分にとって大切な物はこの着物だけだ。これを御供養すれば裸になってしまう。でも死ぬ時には持っていくことはできない。そうだ、自分の未来世のためにもこの着物を御供養しよう」と決意しました。
 老婆は、長者の一行が自分が住んでいる小屋の前を通りかかった時、その着物を脱いでポイッと投げました。すると長者は、使いの者に「これは本人が持参した物ではないのか?」と尋ねました。使いは、「はい、小屋から投げられた物です」と答えました。長者は、「小屋には誰かいたのか?」と使いに尋ねると、「はい、老婆が裸でうずくまっていました。そして、自分は貧しくてこれしか御供養できません。でも長者さまと一緒に仏さまに御供養できることの喜びで一杯です。未来世はきっとこの貧しさから救われることができるでしょうと喜んでおりました」と答えました。
 長者はこの報告を受けて、目から涙がこぼれ落ちました。長者は急いでその老婆が住む小屋にかけつけ、自分が着ていた着物を脱いで老婆に着せてあげました。そして、長者は「あなたは自分が着ている1枚しかない綺麗な着物を御供養されたことは、本当に尊いことです。きっとあなたは大果報を得られるでしょう」と言い、老婆は「長者さまの着物を頂けるなんて、もったいない、もったいない」と言って、喜びにひたりました。やがて老婆は亡くなり、この布施行の功徳によって、須弥山(しゆみせん)の頂上の帝釈(たいしやく)天(てん)の住む忉利天(とうりてん)という天界の世界に生まれ変わることができました。
 皆さん、いかかでしたか。いくらお金持ちであっても、心が貧しければ、世の中のどのような人よりも貧しい人となります。第二十六世日寛上人(にちかんしようにん)さまは、「身分が低いとか、貧しい、お金の余裕がないと言って、御供養の精神を忘れて身の貧しさをなげいてはいけませんよ。ひたすらに信心の貧しさをなげくように心掛けなさい」と仰せになられています。
 いま、世の中はコロナ禍に加えて、ロシア軍によるウクライナへの侵攻、全世界各地で干ばつや大地震、大雨などの自然災害が起き、そうしたことによって多くの方々が亡くなり悲惨な状況となっています。私たちの人生はいつ何が起こるかわかりません。だからこそ、毎日毎日を真剣に正しく送って行くことが大事なことです。
 そして、仏さまに御供養申し上げようという、布施行を行うことも日蓮正宗の修行のなかでも非常に大事なことです。そして、御供養というのは身の供養、法の供養、財の供養など色々とあります。例えば、お寺のお掃除を手伝ったり、太鼓を叩(たた)いてその音を御本尊さまにお供えしたり、折伏(しやくぶく)のお手伝いをさせて頂いたり、真心を込めた金銭をお供えしたりと、皆さんには御本尊さまに御供養させて頂ける様々な方法があります。とにかく、自分にとってできることを考え、御供養の気もちを持つことが大事なことです。また、金銭を御供養するときは、真心を込めて自分はこれだけの御供養をさせて頂こうと、心に決めて行うことが大事なことです。そして、御本尊さまに御供養すると、その姿を御本尊さまはお喜びになられ、また皆さん自身も大きな功徳を頂くことが出来ることになると思います。大事なことは、その志、思いを忘れず、常に御本尊様に何らかの御供養をさせて頂こうという心を持って、毎日の生活を送ることです。ただ、自分のことだけを考え、自分の楽しみだけを考え、貧しい心の持ち主にならないように気をつけましょうね。