パレートの法則より

 皆さんは「パレートの法則」を御存知でしょうか。これはイタリアの経済学者ヴィルフレド・パレート氏が発見した、世の中の自然現象、社会現象、人間関係から日常生活、経済活動に至るありとあらゆる物事において、総合的な結果を基に分析した結果、全体の数値の大部分が80:20の割合で生じていることをいい、つまり統計学的観測から得られる結果そのもので、「80:20の法則」、「8:2の法則」、「ばらつきの法則」とも言います。また、そこから派生して「2:6:2の法則」という法則も明らかにされております。
 「パレートの法則」は、「働きアリの法則」と同様に扱われ、要するに「アリの巣の大群の中での働きアリの割合が2割で、その他8割のアリはあまり役立つことをしない」ということであります。これを人間社会に当てはめますと、「都市の交通量の8割は、都市全体道路の2割に集中している」、「物事の本質の8割は、2割を見ればわかる」、「販売店における売り上げの8割は、全商品銘柄のうちの2割で生み出している」、「文章で使われる単語の8割は、全単語数の2割に当たる数の単語である」、「携帯電話を使用する8割は、その電話機の機能の2割である」、「仕事の成果の8割は、仕事の2割が占めている」などと言ったことを指し示します。
 実に面白い例は、「生活の8割の時間着ている服は、持っている2割だけ」という結果を理解すれば、自宅の「家具」や子供の「玩具」、「文房具」の使用率も必然的に、今流行の「断捨離」などで振り分けできるのではないでしょうか。
 更に、「2:6:2の法則」についても触れますと、例えば100人規模の会社があったとします。その中で、非常に優秀で会社に大きく貢献する社員は全体の2割の社員で、6割の社員は可もなく不可もなく働きそれなりの成果を生み出し、残りの2割の社員は会社的にはあまり必要とされない社員であるということであります。
 ここで、今流行している新型コロナウイルスの東京23区における令和4年9月14日現在の感染状況を見てみますと、以下の統計図のようになります。


 以上のように、東京23区や市町村部におきましても、大凡2割ほどの感染者をコロナ禍において記録しております。現在、東京都では感染者の減少傾向になっておりますが、都市部を除く地域では未だ感染状況が高い地域もあります。非常に残念ながら、いわゆる全国の感染状況が未だ2割に満たない状況を補う形になっております。この数値からしますと、かのスペイン風邪も約3年で終熄に向かったように、全国での新型コロナウイルスの感染者が、日本人口2500万人ほどに達すると、ようやくコロナ禍も終熄に向かうのではないかと思われます。
 ここまで、一般世間におけるあらゆる社会現象における状況を、あくまでも統計学的に数値が算出されたものであり、私自身、この東京23区の新型コロナウイルスの感染状況を見た時非常に驚いたものであり、皆さんもあらゆる物事に対してこの法則を当てはめてみると、自然とこのような結果になるのではと思います。

 しかしながら、私たちの行ずる信心の果報というのは、こうした「パレートの法則」は全く当てはまりません。御存知の通り、この信心修行の功徳利益は無限の可能性を秘めております。例えば、一般的に盲目の人の眼が見えるようになる確率は限り無く0パーセントに近いでしょう。しかし、かの元妙眞寺総代・北原鐡雄氏、鐡雄氏の長兄で歌人の北原白秋氏の御尊父である北原長太郞氏が、1日3回の勤行と1万遍の唱題を毎日決して怠ることなく継続して行った結果、見事その眼を開かしめたように、また大白法や妙教誌には各種体験発表が掲載されておりますが、その内容には余命1年乃至数ヶ月と言われた方が、見事その病魔を克服された経験、折伏経験や、その他の社会や学校における経験において断然無理と思われたことが、その信心修行の功徳利益の果報として、思わぬ結果に導かれた経験は沢山あると思います。
 当然、大病を患った方の余命率は、医師の経験値から判断されたものであり、それをもとに診断結果を出されたものと思いますが、ひょっとしたら、その診断結果自体も医師は意識せずとも、自ずと「パレートの法則」に当てはまっているかもしれません。しかし、私たちは御本尊様の仏力法力、諸天の御加護を信じる限り、あらゆる諸難困難を乗り越えるために、より一層信行の実践に励まれると思います。そして、その結果、医師をも驚く結果をもたらしたり、自分自身が驚くような、喜ぶような果報となって、その功徳利益の現証を目の当たりにすることと存じます。
 かつて、私と家内の結婚式の折、御法主日如上人猊下に御目通りさせて頂いた際、御法主上人より「夫婦となることは、1人から2人となるが、それが1+1=2ではなく、3にも4にも、10にもなるよう努めなさい」と御指南賜りました。つまり、私たちの信心は世の中の法則に当てはまらない、寧ろ世の中の常識を覆すことが出来うるような精進が肝要となってきます。
 その為には、どのように日々精進すべきか。宗祖日蓮大聖人様は、『唱法華題目抄』に、「妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり」、『得受職人功徳法門抄』には、「莫大の功徳を今時に得受せんと欲せば、正直に方便たる念仏・真言・禅・律等の諸宗諸経を捨てゝ、但南無妙法蓮華経と唱へ給へ。至心に唱へたてまつるべし」と仰せであります。とにかく、私たちの信行の実践の王道は、唱題行に尽きます。またその唱題行においても、「1日何時間唱題を続けて行こう」といった漠然とした唱題行ではなく、一つの目的観、目標を打ち立てて、その成就に向かった唱題行が大事大切なこととなります。やはり目的観のない唱題行は、一つの終着地が見えない空題目になりがちでありますからこそ、大聖人様が仰せの「至心にお題目を唱えることの大切さ」をその身に体するには、本当に心底真剣に唱題行に徹するためには、一遍一遍のお題目に万感の思いを込めて実践することが肝要であります。
 正に大聖人様が『法華初心成仏抄』に、「一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。(中略)譬へば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」と仰せのように、しっかりと仏性を開かしめる唱題行の実践が、ありとあらゆる、しかるべき果報を賜るべき我が身の仏性を開かしめる秘決になると拝するものであります。
 ましてや、私の御師範である総本山第67世御先師日顕上人は、出家得度させて頂いた後、総本山大石寺において中高生の小僧の時代、特に12日に1日丑寅勤行をお供した際に、丑寅勤行における私たちの勤行姿勢において、終了後、その姿について1人1人厳しく御指南されましたが、不肖住職歴17年余りになった今、その重要性を痛感するものであります。つまり、勤行・唱題は、身に油断怠り無きよう真剣に行うべき行業であり、決していい加減な義務感にかられた勤行・唱題であってはなりません。それこそ、勤行において、特に引題目については一文字三てんぽ置くぐらい、しっかりと行うことが肝要であります。どうしても日常生活の忙しさにかまけて早く行いがちかもしれませんが、朝勤行を行う時間が限られていると思ったならば、通常よりも早く起きれば良いことに過ぎません。睡眠時間が減ると言うならば、自我に執することを排除して余計なことや趣味嗜好に費やす時間を減らし、早く就寝すれば良いだけのことであります。重要なのは、信行実践を中心にした日々を送れば良いことに尽きます。これは、人生の面白みが無いと反発する方がいるかと思いますが、私たちの人生において何が大切なのか、何を全うすべきかを考えれば、自ずと信心中心の生活に変わって行くと思います。
 どうか、ここのところを重視して行けば、昨日よりも今日、今日より明日へ、限り無く境涯を開くきっかけになっていくものと拝します。そして、宗祖日蓮大聖人様の、『諸法実相抄』の「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし」と、令和の世情と同じく混沌とした情勢のなか、大聖人様が唱え始められた南無妙法蓮華経のお題目を、身命を賭して弘め伝えられた先師先達方に続き、令和の法華講衆たる私たちが広宣流布への御教示を少しでも前進させて頂く為にも、今生現世において受けがたき人としての生を受け、地涌の流類として逢いがたき正法正義に帰依することができた我が身の福徳を噛み締め、またその因縁宿習を有り難く拝し奉り、無量無辺不可思議偉大なる御本尊様の御仏智を拝して、無利益な時間を費やすことなく有意義な人生を全うして頂きたく、その意とするところをお汲み頂ければ幸いに存じます。

 そして、「パレートの法則」を大きく覆す信心修行の実践を深く身に体し、広布大願、コロナ禍の終熄と全世界の平和安穏を願いつつ、コロナ禍の今こそ真剣に信行の実践に励むべき時と鑑み、皆様方のより一層の信行倍増福徳増進を心よりお祈り申し上げます。