正直と思いやりの心(令和4年8月)

正直と思いやりの心 

                   令和4年8月 若葉会御講

 むかし、唐の国にある若い夫婦が都の近くに住んでいました。その夫の身分は低く、貯(ちよ)金(きん)もなかったので暮らしは貧(まず)しいものでしたが、とても正(しよう)直(じき)者(もの)でした。夫は、毎日道ばたでお餅(もち)を売って、そのわずかなお金で生活をしていましたが、そんなある日のことです。夕方になったので店をたたんで家(いえ)路(じ)につきました。しばらくすると、道ばたに汚(よご)れた袋が落ちていました。何(なに)気(げ)なく拾ってそれをそのまま家に持ち帰りました。
 家に帰った夫は、妻に「この袋が道ばたに落ちていたよ」と手渡しました。妻は何が入っているのだろうと、袋のひもをほどいて開けてみると、驚(おどろ)いたことに金貨が6枚も入っていました。妻は「あなた金貨が入っていますよ。落とした人はとても困っているでしょう。明日、役所に届けましょうね」と言うと、夫は「そうだね。きっと落とした人は必死に探(さが)しているだろうからね」と答えました。
 その頃、その財布の落とし主の男は薄(うす)暗(ぐら)い中で、必死に自分の財布を探していました。「どこに落としたんだろう。誰かがもう拾(ひろ)って持って帰ったのかな。戻ってきたら半分あげても惜しくないのに」とつぶやきながら探し回りましたが、とうとう見つかりませんでした。
 落とし主の男は次の日、念のために役所に届けに行きました。すると、落とした財布がちゃんと届けられていたのです。男はあきらめかけていたので、飛び上がって喜びました。そして、役所の計らいで金貨1枚をお礼に、拾って届けてくれた人に差し上げることになりました。
 やがて、餅(もち)屋(や)の夫婦が役所に呼ばれてやってきましたが、男はいざ餅屋の夫婦を見ると、金貨を1枚あげるのがとても惜(お)しく思えてきました。そして男は「拾ってくれたのはあなたですか。本当にありがとうございます。でも、財布の中には金貨7枚をいれていたのですが、6枚しかありません。1枚足りないのですが、もうすでに取られたのですか」と言うではありませんか。
 餅屋の夫婦は、財布の持ち主が見つかって、自分のことのように喜んでいたのに、1枚足りないと言われてビックリしました。夫は「いいえ。はじめから6枚しか入っていませんでした。それにお礼目的で届けたのではありません。もしもお金が欲しかったなら、はじめから役所には届けませんよ」と言いました。すると男は「では、どうして昨日のうちに届けなかったのですか。私は昨日遅くまで探し回ったんですよ」と言いました。すると夫は、「そうですか。でも役所はすでに閉まっている時間だったので、届けられませんでした」と言いました。
 さぁ大変です。落とし主と拾い主との言う事が違うのです。一人は7枚と言うし、もう一人は6枚と言うのです。係の役人は国(こく)司(し)に事情を詳しく報告しました。国司は、財布を落とした男、財布を拾った餅屋の夫婦の順に会って、くわしい話を聞きました。その中で国司は、餅屋の夫婦はとても正直者だと思いました。財布を落とした男も正直者のようでしたが、何か隠(かく)しているようです。
 国司は三人に、「確(たし)かな証(しよう)拠(こ)はないが、三人とも正直者で嘘をついていないことを前(ぜん)提(てい)に判(はん)決(けつ)を下す。落とし主は7枚の金貨が入った自分の財布をちゃんと探し出しなさい。この財布は6枚しか入っていないので別物だろうから、拾い主の餅屋が持ち帰るようにしなさい。以上、命令する」と命じました。それを聞いて、男は「今更、餅屋を見て金貨1枚手渡すのが惜しくなったとは言えませんし、言ってしまえば重い罪を受けるだろう」と思い、真っ青になってしまいました。
 この話を聞いた唐の人々は、「心が素直で行いが正直な人には、自然と天が裁(さば)いて宝を得るし、心がずるがしこくて行いが不正直な人には、天が裁いて自分の物をも失うのだ」、と言い合いました。
 正直とは正しくて嘘(うそ)いつわりのないことです。世間の言葉に「正直は一生の宝」とあるように、正直な心と行動は、一生を通して守らなければならない、大切な宝ものです。日蓮大聖人様は、正直について「正直に二あり。一には世(せ)間(けん)の正直(中略)二には出(しゆつ)世(せ)の正直」があると仰せになられています。
 世間の正直とは、日常の生活の上でのことです。家の中でも外でも、自分が得(とく)するから、損(そん)するから、褒(ほ)められるから、叱(しか)られるからという理由で嘘を言ったり、ごまかしたりしてはいけません。どんなにうまくごまかしても本当のことは一つだけですから、本当のことを話していかなければいけませんし、嘘はいつか必ずばれてしまいます。
 次に出世の正直とは、正しい信心のことです。「正直捨方便(しようじきしやほうべん)(正直に方便を捨(す)てる)」という経文がありますが、これはまちがった教えを捨てることです。そして、何を信じてもいいということではなく、正しい御本尊様のみを信仰することです。そうでなければ、仏さまの幸せな境界(きようがい)にはなれません。そして、正しい信心を行っていたとしても、いいかげんな心、形だけの心と行いでは決して幸せにはなれませんし、自分の祈りも願いもかないません。
 財布を落とした男が、1枚の金貨を惜しんで6枚を7枚と嘘をついて、結局自分の金貨を全部なくしてしまったように、目先の損(そん)得(とく)でごまかしたり、嘘をついても決して得することはありません。自分の心を中心とした、思うがままの執われの生活から、御本尊様がいつも私たちを御(ご)覧(らん)になられていることを確信して、正直で素直な心を持ち、自分を言うことや行動を注意していきましょう。
 もう一つ、2人の友だちが家で遊んでいたとします。友人の1人が、のどが乾(かわ)いたからコップに飲み物を入れ、飲んだあと机のはしの方にコップをおきました。もう1人の友人も何か飲もうと、机のよこを通った時、うっかり友人がおいたコップに手がふれてしまい、コップが落ちて割れてしまいました。すると、その友人は「キミがこんなところに置くのが悪いんだよ」と言いましたが、もう1人の友人は「いや、落としたのはキミだろ。落とすキミが悪いんだよ」と言い争っています。
 皆さんは、どう思いますか?こうした場合はまず、「大丈夫?ケガはない?コップのカケラが飛(と)び散(ち)っているから気をつけて」と、声をかけることが良いと思います。当然、友人たちが言い争ったように、コップを落とした友人に責(せき)任(にん)はありますが、落としてしまうかもしれないところにコップを置いた友人にも責任があるでしょう。しかし、こうした場合はまず「コップが割れてしまってケガをしたら危ない」ということを考えること、そのあとお互いに、「ゴメン、こんなところにコップを置いてしまって」、「いや、ぼくが机の上を注意していなかったから」と、言い合えるようになったら良いかなと思います。皆さんには、そんな気遣い、思いやりの心を持つことができるようになってほしいと思います。