臨 終 と は

 仏法では、過去、現在、未来の三世にわたる生命の因果を説いています。この三世の因果は仏法の骨髄であり、これを抜き去ってしまったら、仏法はまったくその存在が失われるといっても過言ではありません。
 日蓮大聖人様は「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書一四八二頁)、と仰せでありますが、この三世にわたる厳然とした因果の理法の上から、仏法においては臨終を重要視します。なぜならば、臨終とはその人の人生の総決算、また未来世への第一歩でありますから、その臨終の姿こそが、それまでに積んできた一切の善悪の行業(ぎょうごう)、死後と未来世の行く末を如実に顕わすのであります。要するに、臨終の相は非常に大切であり、死後の生命の状態が明らかに顕われた、決定的に動かし難い証拠となるのであります。
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は、黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は、設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」(御書一二九〇頁)と、大聖人様は臨終の時、死相が悪い者は地獄に堕ちた証拠であり、良いものは成仏した証拠であると断ぜられています。
 医学界においては、死後硬直、遺体の変色、腐敗臭等が定説となっていますが、信心強盛に一生涯を終えた人は、形も損せず、必ず生きていた時より色が白くなります。そして半眼半口で、黒目が下を向き、身体もやわらかく、死臭すらないのであります。
 逆に、仏様の正しい教えに強く反対した人(謗法の人)ほど、必ず色が黒くなって地獄の死相を現ずるのであり、社会的な地位や名誉、財産とは無関係に、正法を誹謗した者が、逃がれようのない無間地獄に堕ちる証拠であります。これらは医学的には到底説明できないことであり、そこにまた仏教で説かれる不可思議な現証として私達は拝すべきであります。
 以上のように、臨終は人生の一大事ですから、臨終に善相を示すことは万人の願うところであり、逆に悪相を現ずることは誰しも好みません。しかし、仏法が教える、この厳しい事実に眼をふさいではなりません。
 念仏、禅、真言等の宗祖・開祖と呼ばれる人々の死は、いずれも堕地獄の現証歴然とした悲惨きわまりないもので、とても普通の臨終ではありませんでした。そうした現証に眼をふさぎ、いくら本願寺や永平寺等で盛大な葬式を行ってみても、各宗祖・開祖達が手本を示しているように、結局は謗法の毒薬を飲んで無間地獄へ堕ちるのですから、まったく恐ろしいかぎりではありませんか。