日蓮正宗の教えについて

 日蓮正宗とは、今から七四九年前に日蓮大聖人が開かれた宗派です。「南無妙法蓮華経」と認められた御本尊に対し「南無妙法蓮華経」と唱えます。その目的は、ご利益ばかりを当てにする他力本願的なものではなく、みずからの人格の向上と、「生きていて本当によかった」と思えるような有意義な人生の構築です。
 以下に、日蓮正宗の教えについて簡略に述べます。まずは「このようなことを説く信仰だ」ということを理解していただければ幸いです。

 

【信仰を持つということ】

①私は「無神論者だ」という方へ
 「無神論」とは、神や仏の存在を否定する考え方です。しかし不思議なことに、そういう方であっても、お正月には神社に参詣して無病息災や学業成就などのご利益をお願いしたり、「結婚式はキリスト教会で行ないたい」ということを言います。このような日本人の態度は、善悪は別にして、外国の人々からは「何と不思議な国民だろう?」と首を傾げられるそうです。
 ところで、「無神論」を唱える人には、「信ずる人には神や仏は存在するだろうが、信じない人には関係がない」と言う人がいます。これを、神や仏は心の中だけに生きるといった唯心論といいます。たしかに、多くの宗教で説く神仏は、現実にこの世に出現したことはありません。その多くは、教祖の思いつきや一種の神がかり的な異常行動によって生み出された空想の産物です。そういった、いい加減な宗教の姿を見てウンザリし、「無神論」を唱えることも無理からぬことでしょう。まして、オウム真理教のような極端な排他的、暴力的な邪教を目の当たりにすれば「宗教は気が狂った人か変人のもの」と考えるのも無理ありません。これについておもしろい話があります。あるキリスト教会で、全知全能の神について話を終えた牧師に向かい、ひとりの少年が質問をしました。「何でもできる神様は、自分で持ち上げられない大きな石を作ることができますか」と。牧師は返答に困ったということです。

 この話は、現実を離れ、空想によって生み出された神が、いかに矛盾に満ちたものであるかということを、短いなかに鋭く指摘しているものです。
だからといって、「無神論」を肯定しているわけではありません。いい加減な宗教がはびこる反面、きちんとした論理と実証のうえに成り立つ正しい宗教も存在するのです。少なくとも、「仏は存在しない」とか、「宗教は麻薬だ」と言う方は、一方では「神や仏が存在しない」ことを立証することもできないはずです。ですから、簡単に決めつける前に、仏教に耳を傾け、経典をひもとき、少しでもその内容を検討してほしいのです。 

 

②今は別に幸せだから…という方へ
 “幸せ”という考え方は、人によって色々な捉え方があります。一般には、健康とか家庭円満とか、金銭的に恵まれているといったように、運がよく、心が満ち足りて楽しい状態にあることを、幸せというようです。ところが、こうしたことだけが本当の幸せと言えるのでしょうか。健康で、家庭円満、そして裕福に見える人たちが、必ずしも満足して楽しく暮らしているとは限りません。
 昔から「珍膳も毎日食えば甘からず」とか、「欲望に頂(いただき)無し」と言われるように、かえって恵まれた生活のなかからでてくる特有の倦怠感や不平不満、欲望のぶつかりによる人間不信や争いごとなど、様々な苦しみに悩まされているという例も少なくありません。稀に今の生活に満足している人がいたとしても、人生の無常からは誰も逃げることはできません。無常とは「常で無い」ということで、若くて美しい女性も年を重ねれば若々しい美貌が失われていく。健康な人も病気になることがある。どんなに円満な家庭であっても、あることがきっかけでバラバラになることがある、ということです。

 仏教説話に次のようなお話があります。
 昔、ある富豪が立派な屋敷を建てました。特に三階部分はたくさんの宝石で飾られ、まばゆいばかりに光り輝いていました。するとそれを見た隣の富豪は、自分もそれにまさる建物を建てようと考え、さっそく家来に命じて工事をはじめさせました。家来が基礎工事を行なっていると、富豪は「基礎や一階・二階はどうでもいいんだ。私は立派な三階がほしいだけだ」と命令したのです。家来が「立派な三階を作るには土台をしっかり作らなければなりません」と説明しても、富豪は最後まで聞き入れなかったということです。これを、「三重の楼(たかどの)富みて愚(おろか)の人」の譬えと言います。
 たしかに、幸福な人生には、懸命に働いて少しでも豊かな暮らしを求めることも必要です。しかしそればかりに目を奪われていると、突然、その人生が狂い、崩れ去ったときに、途方に暮れて生きる望みまでも失ってしまうことがあります。しっかりとした土台のうえにある建物は、どんなに強い風が吹いても簡単には崩れることはありません。それと同じように、正しい信仰を人生の基礎や土台としていくときにはどんな苦しみや不幸という逆風にも、けっして崩されることのない強い勇気と力を養っていくことができるのです。人生が終わりかけてから、先祖の供養だけをするために信仰があるのではありません。これから光り輝く人生を築くために、しっかりとした信仰を正しく実践することが何よりも大切なことなのです。

 

【仏教とは…】
 今、仏教の概略を言いますと、仏教は今から三千年ほど前にインドに出現した釈尊(お釈迦様)によって説かれました。釈尊は、生け贄をしたり、怪しげな呪いによって人々の願いを叶えるという「超現実的な神」を崇める土着の教えを「邪教」として排斥し、あらゆる生命の真実の姿を明確に示した仏典を説きました。 

①仏教以外の教えの矛盾
 仏教以外の教えでは、キリスト教や日本の神道にも見られるように、天地創造の神が万物を創造したということが前提となっています。ですからかつて、西洋で動物の化石が発見された時には、「神が作り損なった生物の残骸である」ということを信じていたのです。
 また、「地動説」(太陽や星が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回っているという説)と「ダーウインの進化論」(生命は進化して現在の姿形になったとする説)という現代の常識を、ようやくローマ法王庁が容認したという話が、つい数年前に新聞紙上を賑わしていました。
 なぜ今頃になって、ローマ法王庁がこんな馬鹿げた見解を発表したのでしょうか。
 それは、天地創造の神を絶対とするキリスト教では、これらの科学的な理論を認めることは即ち、絶対の神を否定することになるからです。ところが、現実の姿を直視せざるをえなくなり、これまで主張してきた見解を撤回する結果となったのです。これは単なる見解の変更などではなく、信仰の成立する根幹を、キリスト教の代表者が否定したことを意味する重大な問題であると言えます。

 

【守護霊やつきもの】
 最近、霊能者や心霊研究家と名乗る人が守護霊などに関する本を書き、そうしたものが注目をあびています。彼らの言いたいことは、人間にはどんな人にも背後に、守護霊や背後霊が備わっていて、一人ひとりの人間がどのような人生を送るかを見守り、霊界から助けるということのようです。そしてもしも、この守護霊をないがしろにしたり、感謝を怠ったり、また先祖の除霊をしないと、我が身や家庭内に不幸が訪れると言います。
 私たちには、自分の過去の姿をみることはできませんし、また死後の世界のことなどを実体験を通して明らかにすることはできません。ですから、ついそうした霊能者の言葉にまどわされてしまう人が多いのです。けれども霊能者が、どんなに不思議な心霊などの話しをしても、それはあくまでも原因があって結果が生まれるという因果の道理を無視した空想上の産物であり、仏法のうえからみれば、彼らの言うような、その人の運命を支配する守護霊や守護神などというものはまったく存在しないのです。したがって、実生活、現実の世界における守護の働きについては、くわしく過去・現在・未来を知り尽くす仏の教えをとおして、はじめて正しく知ることができるのです。
 
 一方、今日の医学では狐つきや蛇つきなどのつきものを、先天的な異常性格者や精神薄弱者に多く見られるヒステリー性の一種の精神の病と診断しています。しかし、実際にはそうした診断だけで説明のつく現象ではないようです。仏法ではあらゆる生命の本質を、十界論でとらえますが、狐や蛇などのつきものは、まさに人間の命や性格のうえにあらわれた畜生世界の姿にほかなりません。たとえるならば、他人を傷つけて他人のものを奪っても、何の罪悪感を感じない人がいます。これは、弱肉強食の動物社会では当然の行為ですが、人間社会では許されるものではありません。しかしこれは、姿は人間であっても、その人の命が既に動物のような性格を持ってしまっているという証拠です。ですから、狐つきなどは、その人の心身にそなわっている動物の命の働きが、間違った宗教によって誘発されて現れてきたものといえます。このことは、狐つきが代々稻荷などの畜生を本尊とする信仰をしてきた家庭に多く見られることからも分かると思います。つまり、信仰の対象とした狐や蛇などの畜生世界の命と、私たちの生命のなかに備わっている動物のような性格が呼応してあらわれた現象がつきものなのです。

 すなわち、正しい仏の教えに従って正しい信仰をすれば、仏の命と私たちの命が呼応して成仏への道が開けますが、狐などの畜生を信仰してしまいますと、その人の心や行動、果報などのすべてが動物のような姿となって現われてくるのです。要は、あらゆる苦しみは、守護霊や他人の責任ではないということです。ですから、こういった現象に悩まされている人がいるならば、祈祷師や神主などにお祓いをしてもらっても、責任は自分自身にあるのですから何の意味もありません。家族や本人が心から正しい御本尊を信じて信心修行を積み重ねることによって罪障を消滅し、根本的に問題を解決すること以外に、真の意味で、そういった苦しみから逃れることはできないと言えるのです。

②仏教の教えの基本
 仏教の立場はあくまでも「因果の法則」です。「因果の法則」と言えば難しいことのように思えますが、簡単に言えば「物事には必ず原因があって結果が生まれる」という考え方です。たとえば、酸素と水素をある一定の条件のもとに化合すれば、地球上であれば誰でも水を得ることができます。このようにあらゆる物質は元素がもととなり、それがある原因によって合体離散することで、結果として様々な物質が構成されています。「神が我らに万物を与えた」とする考え方が常識であった三千年前に、釈尊は「この世のものはすべて、地・水・火・風・空という五つの要素が、さまざまな因縁によって合体し構成されてできている」と、驚くことにすでに物の本質を見抜いているのです。ですから、形あるものはいつかは滅する。自然界の物質が寄り集まってできあがっている私たちの体や財産も、いつかは壊れてしまうのである。だから、目に見える物ばかりにとらわれて右往左往するのではなく、私たち自身の生命を磨き、徳を積んでいくことが大切である、と説いたのです。

③法華経という教え
 釈尊は以上のことを原則として、みずからの修行と思索によって悟りを究めた教えを四十二年間にわたって説法しました。この間に説かれた経典をもとに成り立っているのが、日本でも有名な念仏や真言、禅宗といった宗派です。ところが釈尊は、七十二歳になると突然「四十余年未顕真実」と説きました。これは「これまでの四十年余りに色々な教えを説いたが、実はその教えは人々を導く方便として説いたものであって、真実のものではない」というものです。 そしてその後、亡くなるまでの八年間に、「正直捨方便 但説無上道」(正直に方便の教えを捨てて、最高の法を説く)と示し、一期の総仕上げとして法華経を説きました。このように、日蓮正宗では、法華経を最高の法として崇めますが、これは、勝手に判断しているものではなく、経典を説いた釈尊の言葉によっているのです。

 法華経では、私たちの迷いの根元である「生命の在り方」を徹底(てってい)して説いています。その根幹となるものが「十界論」です。
 十界とは、地獄・餓鬼・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)・仏の十の世界ということです。皆さんはよく、「悪いことをしたら地獄へ堕(お)ちる」とか、「欲張りの人は餓鬼道で苦しむことになる」ということを聞いたことがあると思います。しかし、法華経の理論より言えば、地獄という世界も餓鬼道という世界も、どこか遠いところにあるのではなく、すべては一人ひとりの命の中に存在するものだというのです。たとえば、道の向こうから嫌いな人が歩いてきたとします。以前イヤな思いをさせられたことを思い出し、ムカムカしてきます。その時私たちの心は「修羅界(争いの心)」に埋め尽くされているのです。道を変えて歩いて行くと、今度は向こうから大好きな人が走ってきました。私たちは天にも昇るようなウキウキした気持ちになります。そのとき心の中には「天上界(歓喜の心)」が満ちあふれているのです。凶悪事件を起こすような悪人であっても、自分の子供のことを考えれば愛(いと)おしくなる。これは、悪人の命のなかにも「菩薩界(慈愛の心)」があるということです。砂漠で道に迷えば、親友の水さえも奪って飲もうとする。これは心の中が「畜生界(どん欲の心)」となっている証拠です。このように、地獄とか極楽とか、私たちが違う世界へ移動するのではなく、周囲からの働きかけや環境によって、先ほど狐つきで説明したように、私たち自身の心(命)の状態が瞬時に変化しているのです。そして同時に、心の状態ひとつで私たちの体調も変わりますし、住む環境も、見える世界も変化してきます。正しく物事を判断することができるかどうかということも、すべて私たち自身の心の状態によるということは、皆さんも経験されたことがあると思います。こうしたことを考えあわせれば、私たちの命のなかにも、仏の命、つまり自由自在に自分の持つ能力や可能性を発揮して、いかなる困難をも克服し、人々から慕われる人格を形成していくことも必ずできるはずです。
 これが法華経の根本思想である「一念三千の法門」と呼ばれるものです。

④日蓮大聖人の教え
 以上述べたように、釈尊が、もっとも優れていると語った法華経によれば、私たちの心のうちにも、仏の生命が存在します。これを仏性と言います。この仏性を常に表わしながらあらゆる物事に立ち向かっていくところに、他人を思いやる心と力強い勇気を発揮して、すべてを成し遂げていくことができるわけです。しかし、「仏の命を表わして自在に活動していく」とは言っても、簡単なものではありません。なぜならば仏の命というものは、なかなか努力で表われてくるものではないからです。私たちはいわば、自身の命に具わる仏性に色々な蓋をしてしまっています。それは欲望であるとか、自分勝手な我見、ひとりよがりな偏見といった様々な蓋です。そうであるならば、それらの蓋を一つひとつ取っていけばいいわけですが、それが容易にはいかないのです。現代に生きる私たちが、欲望を無くしたり、山奥にこもって断食をして精神を研ぎ澄まし、滝に打たれながら煩悩を断つなどということは絶対に無理な話です。

 ところで、篭の中の鳥に、どんなに「鳴け」と命令しても、たやすく鳴くものではありません。ところが空を自由に飛ぶ鳥がやってきて鳴き声を発すれば、篭の中の鳥もその声につられて鳴き声を出すことがあります。これと同じように、私たち自身の努力だけでは、命の奥底に具わる仏性を呼び起こすことは難しいのですが、仏の智慧と功徳が具体的に示された南無妙法蓮華経の大漫荼羅(御本尊)に向かって、「南無妙法蓮華経」と声を出して唱えることにより、篭の鳥が空飛ぶ鳥の鳴き声につられて声を発するように、私たちの命の仏性もおのずと表われてきます。このために、日蓮大聖人は、ご自身のお徳とお命をそそいで南無妙法蓮華経の御本尊を示され、私たちにお残しくださったのです。その御本尊が、日蓮正宗の総本山大石寺に厳護されている本門戒壇の大御本尊です。
 私たちは、この本門戒壇の大御本尊を教えの根源とし、また日蓮大聖人のご法魂と仰いで信仰しています。

【釈尊と日蓮大聖人との関係】
 釈尊は、一生にわたって人々の幸福を願い、様々な教えを説かれました。そして最後に法華経を説いて、いっさいの人々をことごとく救っていったのです。ところが釈尊は、自らの言葉として、「私が死んだ後、二千年間は私の徳によって人々は救われていくであろう。しかしその後、末法という時代に入ると、私の力は及ばず、人々はさらに苦しむことになる」と説いています。それでは、釈尊が亡くなった後、二千年年以降の人々は、仏教によって救われないのでしょうか。
 その答は、「否」です。なぜなら、法華経のなかに、末法の人々を救う真の仏が出現するということが予証されているからです。その仏とは、「太陽や月がよく暗闇を照らして明るくするように、その人は、よく人々の心の闇を滅するであろう」と法華経に説かれた上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)のことを指しています。その予言通り、末法という混乱した時代に出現し、古今東西、はじめて法華経を弘められた方が日蓮大聖人です。ですから私たちは、日蓮大聖人を法華経に説かれた上行菩薩の再誕と仰ぎます。

 さらに一歩深く考えると、釈尊は自分の生きている間と、その後の二千年間に限り利益を与える力の限られた仏であることが分かります。これに対して、末法という時代は万年と言われ未来永遠に続きます。ですからその時代の人々を救う上行菩薩は、釈尊よりも偉大な力を持つ真実の仏であると拝することができるのです。このことから日蓮正宗では、日蓮大聖人を末法のご本仏と仰ぎます。それに対して、インドの釈尊は、既に力を失った過去の仏なのです。去年のカレンダーは、去年の生活に利用することに意義があるのであって、年が変わっても去年のカレンダーに頼る人はいません。それは、今年には用をたさないばかりか、去年のカレンダーにいつまでも頼っていては支障がでるからです。それと同じように、既に力を失ない、上行菩薩に一切を譲った仏である釈尊は、過去の仏として考え、今の私たちにとってもっとも縁のある仏は日蓮大聖人であると拝するのです。

【日蓮正宗と創価学会の関係】
 かつて創価学会員は、創価学会に所属することと同時に、ひとりも漏れなく日蓮正宗の末寺の信徒でした。それは、創価学会に入会する大前提として、日蓮正宗の寺院に参詣して御授戒を受け、日蓮正宗に入信することが決められていたからです。
 つまり、平成三年までは、創価学会とは、独自の教義を持つ宗教団体ではなく、日蓮正宗の信徒が信仰を深めていくうえで便宜上に設けられた組織であったのです。そもそも創価学会の初代会長である牧口常三郎氏は、異教徒の熱烈な信者でした。牧口氏は昭和初期のある日、日蓮正宗常在寺(東京都・池袋)の法華講信徒であった三谷素啓氏と信仰の正邪について論争し、それに破れました。そこで牧口氏は、三谷氏の紹介で常在寺の法華講信徒となりました。その牧口氏が折伏し入信せしめたのが戸田城聖・創価学会第二代会長です。その後、日蓮正宗の教義をともに学び合うために、牧口氏を中心に数人の信徒が信仰のサークルを結成しました。そのサークルが六十年経過し、現在の創価学会となったのです。

 創価学会では、現実の生活に即して日蓮正宗の信仰を弘め、多くの人々を導きました。ところがその強大な力を悪用したのが、戸田城聖氏亡き後の跡目争いに勝利し、第三代会長となった池田大作氏です。池田氏は、強大な権力を元として、傍若無人に振る舞うようになっていきました。
 そしてついに、昭和四十七年十月、日蓮正宗の僧侶、法華講員、創価学会員の真心からの御供養によって正本堂が建立されると、露骨に日蓮正宗を乗っ取ろうと画策をはじめました。正本堂とは、日蓮大聖人が末法の一切の人々を救済するために残された本門戒壇の大御本尊を安置していた大殿堂です。池田氏は、時の総本山第六十六世御法主・日達上人に対して「これだけの建物を建立してやったのだから、これからは学会の考えを中心に布教していく」「正本堂の鍵を学会に管理させなさい」と迫ったのです。

 本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の仏法の根源中の根源です。日蓮正宗では、七百年間にわたって、いかなることがあろうともこの大御本尊を守りとおしてきました。いかに功績があっても、これ以上池田氏の横暴を許すことができないと判断した日蓮正宗では、その後、池田本仏論を称えるような創価学会の誤りを指摘するようになったのです。昭和五十三年、池田氏は自らの誤りを認めて責任をとり、創価学会会長を辞任して引退を表明しました。ところが平成二年にいたって同じ誤りを繰り返すようになったのです。こうした創価学会の度重なる教義の逸脱に対して、総本山第六十七世御法主・日顕上人は、平成三年十一月末、創価学会を破門されました。まさに、「一度目の過ちは過失であり、二度目の過ちは故意である」との論理からです。現在では、池田氏は「御本尊といってもただの物だから、そんなものにこだわることは馬鹿げている」等と発言するような不心得者となっています。

 創価学会がすでに日蓮正宗から破門され、無縁の団体となったとはいえ、今なお、学会が社会に大きな影響を及ぼしているその責任は日蓮正宗にあります。ですから、現在、日蓮正宗ではその誤りを常に指摘しつづけ、日蓮正宗寺院を攻撃している創価学会員の方々を救済するために、覚醒の活動に全力を傾けています。同時に、社会に対しても学会の悪辣な謀略体質を示しつつ、創価学会の解散をめざして活動をしているのです。

【おわりに】
 日蓮大聖人は、
 「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(聖人という者は、過去・現在・未来という三世の流れをよく知る人を指していうのである)
と示されています。現代に息づく仏として人々を導く日蓮大聖人は、遠い過去から遠い未来へと永遠に続く生命の営みを覚知せられているのです。ですからかつて、夫に先立たれて悲しみのなかにある女性に対して、「三世常恒の相なれば、なげくべきにあらず。おどろくべきにあらず」と、生命は永遠のものであるので、先に亡くなった夫も、必ず生まれ変わってくる。だから、人の死、特に身内の死は家族にとって誠に悲しいことであるが、嘆いてばかりいてはならないと示されているのです。

 大昔よりたくさんの川が、海へ水を運んでいます。ところが、いまだかつて海が溢れたという話は聞いたことがありません。これは、海の水が太陽の光に熱せられて水蒸気となり、天にのぼっては雲となり、そして再び大地に降り注いでいるからです。このように水は、絶え間なく流転していますが、水その物は、一滴も増えたり減ったりしているのではないのです。これと同様に、この世のあらゆる物質は絶え間なく流転輪廻して、無常の相(どんな物もいつかは形を変える)を示していますが、本質的には変化して動いているだけであって、消え去っているわけではありません。

 仏法では、私たち人間の体を含めたすべての物質は、地・水・火・風・空の五大によってできていると説いています。草木などの「心」を持たない生命も、人や動物などの感情を持った生命も、すべてその実体は地水火風空によって組織されているということです。私たち人間も、肉体的な面から見れば、この五つの要素が結合してできています。ですから人の死とは、この五大が離散して元の元素に帰ることを言うのです。このように考えれば、生まれることも、死ぬことも単なる変化であることが分かります。特に法華経では、器としての肉体は滅しても、生命の実体には変化がない。生命は三世にわたって一貫して常住不変であると示されています。仁王經というお経には、「響きの如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復 是くの如し」とあります。明るい部屋で書いた文字は、部屋が暗くなれば私たちの目には見えなくなります。ところが見えないからといって、文字が消えて無くなったわけではありません。これと同様に、亡くなった人の命も、単に私たちには見えなくなっただけであって、決して消え去ったわけではないのです。ですから、私たちの肉体が死を迎えたとしても、その命は永遠に生き続け、悪いことを行った果報も、良いことを行った果報も消え去ることなく、私たち自身に具わるのです。

 イヤなことがあったからといって、そこから逃げ出したり、極端な例をあげれば自殺というばかげたことをしても、悩みや苦しみが消え去ることは絶対にありません。何度生まれ変わろうとも根本的な解決を考えなければ、同じ苦しみに悩み続けなければならないのです。そうであるならば、いかなることがあろうとも決して逃げることなく、困難に立ち向かい、努力と勇気で克服していくことが大切です。そのために、私たち自身が強い精神を持ち、勇気を持ち、希望を持つために、仏法の教えがあると言っても過言ではないのです。もちろん、先祖供養も大切です。悩みを解決するために信仰に頼ることも悪いことではありません。しかし、何よりも大切なことは、「今」という時を、いかに有意義で悔い無く過ごしていけるか。そのために、日蓮大聖人の信仰がある、ということだと思います。