苦も楽もともに人生の宝物

 人は誰でも辛(つら)い事、苦しい事は無い方がよいと思う。もしどうしても避(さ)けられないなら、出来る限り軽く、そして早くやり過ごしたいと願うのが人情。反対に好きな事、楽しくて得になる事なら、いつでもいくらでもウェルカムです。
 そう、私達は苦と楽とを別々に分けて考えているのですね。でもそれは仏様の眼(め)から見ると、とても不自然なことのようです。
 日蓮大聖人のお言葉に、
『苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱(とな)えいさせ給え。これあに自受(じじゆ)法楽(ほうらく)にあらずや』と。
 当時、四条金吾(きんご)という御信者が主君とのトラブルでエリートコースから一気に窓際へ飛ばされた、その失意の中で頂いたお手紙です。
 聖人の説かれるには、苦と楽は決して別個のものではなく、一本の樹(き)のようなもの。地面の下に深く根を張らなければ、地上の幹(みき)も成長できないのです。人の苦しみとは、樹が根を下(お)ろす時に生まれるもので、それを避けて楽だけを求める(地上の幹だけ伸びる)のは無理な話。もし根が不十分で幹だけドンドン育ったなら、樹はじきに倒れてしまうでしょう。例えば四条さんは仕事に有能で、ボス(殿様)のお気に入り。自分を特別な人間と信じて疑わず、他者を見下ろし、出世の途中で多くの人を傷つけたかも知れません。何故(なぜ)なら彼の失脚(しつきやく)を多くの同僚が「笑い、喜んだ」との記述が見られ、彼らから殿様への告(つ)げ口も後を断たなかったからです。窓際へ追われた四条さんに、更なる苦難が続きます。領地召(め)し上げ、地方への左遷(させん)話、果ては火災による自宅の類焼(るいしよう)、何者かの闇(やみ)討(う)ち事件まで。この苦難の連続を、氏は聖人の教えを守り、南無妙法蓮華経のお題目を唱えて、地を這うように耐え抜いたのです。
 数年後、思いがけず殿様の命を救う事で奇跡的な失地回復となるのですが、氏の得た大切な物は領地や身分ではありません。一度すべてを失ったことで、心の根を地中深く下ろし、心の眼(め)を開いて人の傷みを知る。自分が少しも特別な人間ではない事を知る。人を深く敬(うやま)う。これこそ本当の宝物ではないでしょうか。