三世(さんぜ)の因果(いんが)について
およそ、世の中の物事で、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果が生じない、などということは何ひとつありません。
私達の人生における苦・楽や幸・不幸も、また偶然によるものではなく、何がしかの原因が招いた結果であるはずです。
仏法では、私達の人生の幸・不幸が、三世(過去・現在・未来)にわたる因果の理法によって定まることを説き明かしております。
たとえば、『心地観経』という経典には、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」とあり、また中国の賢人、天台大師は「今、我が疾苦は皆、過去に由る。今生の修福は、報・将来に在り」と説いています。
すなわち、自分自身の過去からの善悪さまざまな行いの集積が、宿業(善業と悪業とがある)となって生命に刻みつけられ、それが現在の人生に苦・楽や幸・不幸という果報をもたらしている。そして、また現在に作っている原因は、新たな宿業として生命に刻まれ、必ず将来にその果報が現われる、というのであります。
この因果の理からすれば、生まれついての病や貧富の差などは、今生に生を受ける以前、すなわち過去世において原因が作られており、また、今生で果報を受け終わらなかった宿業は、死後、未末世へと持ち越すことになります。仏法では、そうした三世にわたる生命の因果と流転の相を、「十二因縁」という法門として次のように説いています。
一、無明…我々の生命が元々もっている煩悩のこと
二、行… その煩悩によって過去世で作った、善悪それぞれの宿業のこと
三、識… 過去世の業により、現在の母親を定めて、その胎内に宿る(受胎する)こと
四、名色…名は心、色は身で、胎内で身心が発育しはじめた状態
五、六入…身心に眼・耳・鼻・舌が具わって六根すべてが揃った状態
六、触… 生まれたばかりで、分別がないまま物に触れて感ずるだけの状態のこと
七、受… やや成長し、苦・楽などを識別して感受する状態のこと
八、愛… さらに成長して、事物や異性に愛欲を感ずる段階のこと
九、取… 成人して、事物に貪欲すること
十、有… 愛や取などの現在の因により、未来世の果を定めること
十一、生… 未来世に生を受けること
十二、老死…未来世において、年老い、死ぬこと
以上のうち、一と二は過去世の因、三から七までは現世の果で、八から十は現世の因、十一と十二は未来世における果を指しています。私達の生命は、このように十二の因縁が三世にわたって連鎖しながら、生と死を繰り返していくのであります。
さて、こうした三世の因果を踏まえた上で、釈尊は、不幸の宿業を形成する原因について、爾前経(法華経が説かれる以前のお釈迦様の四十余年間の教え)で種々に説いていますが、法華経に至ってすべての不幸な宿業は、正法に背く行為(謗法)が根本の原因となって作られたものである、と明かしています。
これについて日蓮大聖人様は、「高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は、常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に(中略)此の八種の大難に値へるなり」(御書五八二㌻)と説かれています。
つまり、高い山に登った者が必ず山を下らねばならぬのと同様に、たとえば過去に自分が人を軽易(バカに)したから今度は他人から自分がバカにされる等々、悪い行為が因となって必ず悪い結果が生ずるという世間においては当然の因果関係をまず仰せられ、さらに「日蓮は此の因果にはあらず」として、このような因果はまだまだ浅い因果であり、じつは、かくのごとき不幸の悪因を招きだした根本の原因こそ、過去の謗法の罪業によるのである、と示されているのです。
このことは、きわめて重要です。大聖人様は、「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥病は倍増すべし」(御書一〇六七㌻)と仰せですが、不幸の起こりを知らぬ者が、いかに不幸を取り除こうと努力しても、結局、何ひとつとして解決できなかったり、また一時は解決したかのように見えても、また他の悩み苦しみが起きてきて、不幸を免れることはできません。
たとえば、病気になる原因についても、種々考えられましょう。しかし、それらの原因の奥に、さらにそれを招き起こした根本原因―正法誹謗の宿業―があったならば、いかに病院を訪ねまわっても、また、いかなる良薬を求めても、これを治療できない場合が多く、さらには病気の再発や他の苦しみが起こってくる場合すらあるのです。
したがって、大切なことは、まず、不幸のよって来たる真の原因が、過去からの謗法罪障にあることを知り、その悪業を消滅させることであります。さすれば、そこに、あらゆる人生の苦悩と不幸を解決していくことができるのです。
その具体的な方途としては、大聖人様が「人の、地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し」(御書一三一六㌻)と仰せのように、過去に正法に背いた謗法の罪は、正法たる日蓮大聖人様がお認めになられた大御本尊様に信順することによってのみ消滅できうるのであります。
幸いにして正法を受持できた私達は、三世の因果を知らずに不幸から抜け出せないでいる人々に対し、抜苦与楽(慈悲)の実践(折伏)をしてまいろうではありませんか。