自分の臨終を想像してみよう

 日蓮大聖人様は「人の寿命(いのち)は無常なり。出づる気(いき)は入る気(いき)を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と仰せです。生老病死(しようろうびようし)は世の習いです。人として生まれた以上、その瞬間(しゆんかん)から死に向かっている訳でもありまして、その間にどんなに壮健(そうけん)を誇(ほこ)っている人でも、病気にもなるし、年も取るし、必ず死を迎えるのです。
「丈夫(じようぶ)は棺(ひつぎ)を覆(おお)うて事定(ことさだ)まる」と云う故事(こじ)がありますように、如何(いか)にその人の生きてきた道が、世間的に名声(めいせい)を得、称賛(しようさん)されるような人生であったとしても、最後臨終が惨(みぢ)めな姿であったら、その人の人生の価値は一体何だったのでしょう。
 例えば百姓の出身ながら天下を窮(きわ)めた豊臣秀吉を立派で羨(うらや)ましく思うかもしれませんが、最後臨終はどうだったでしょうか?息子秀頼(ひでより)の身を案じ、徳川家康などの他大名への猜疑心(さいぎしん)に呵(さいな)まされ、名誉や地位、そして生への醜(みにく)い執着(しゆうちやく)の中での最期でした。果たして此処に真の幸せが存するでしょうか?
 皆さんが何か物を買うときには、何枚もチラシを見て何件も店を回って、金額が高い物であればあるほど、あれこれと思い悩み検討(けんとう)するのに、一番高価な人間の命を左右する宗教を選び取らないというのは、本末転倒(ほんまつてんとう)も甚(はなは)だしく無関心を装(よそお)う不正直者(ふしようじきもの)であります。医者も選ぶ時代、ある意味、お寺もお坊さんも選ぶ時代であるのです。少なくとも、自分の葬式は何処(どこ)で誰にどんな風にしてほしいのか、そんな準備をするだけでも、死への意識と今の生への取り組み方が変化するのではないでしょうか。
 臨終から翻(ひるがえ)って、現在の人生・生き方を考えていくことが、真の臨終を知ることであります。即ち、常日頃より、正しい仏様に向かい手を合わせられる環境を整え、僅(わず)かの時間であっても実践をすることにより、有意義な人生を送ることが可能となるのです。同じ80年の人生、如何様(いかよう)に生きるかは、あなた次第なのです。一度、真剣に考えてみましょう。