いじめはどこから生まれるのか ~ 十界の生命 ~

 私達の心には、十界といわれる十の境界(きょうがい)(生命の状態)が具わっています。下は地獄界から餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間、天上(ここまでが六道といって私達の日常生活の範囲です)。更にその上には宗教的な境地として声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)、仏の四聖があります。
 日蓮大聖人はこれについて、
「瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろ)かは畜生、諂曲(てんごく)なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。(中略)四聖(しせい)は冥伏(みょうぶく)して現れざれども委細に之(これ)を尋ぬれば之有るべし」(御書六四七頁)と言われています。
 平常な心の状態が人間界ですから、人間以下と人間以上の世界、と考えると分かり易いでしょう。
 さて、特に最近クローズアップされている〝いじめ問題〟です。
 自分より弱い者をいじめてみたいという欲求はどこから来るのか?
 日蓮大聖人は、
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」(御書五七九頁)と言われています。
 畜生とは犬やネコなど、人間以外の動物一般を指しますが、そこは強者に諂(へつら)い、弱者をいじめるという卑(いや)しい世界です。つまり、いじめを行う人は人間以下、犬やネコと同等の卑しい魂の人です。
 昨今、様々なメディアで「何故いじめがなくならないのか」を論じますが、社会的背景をいかに分析しても無駄なことです。
 いじめは面白いから無くならないのであり、その黒い喜びは人の心の中の畜生が喜んでいるという事、私達はこれを子供達にしっかりと教えなくてはなりません。
 繰り返し繰り返し、いじめは卑怯で恥ずべき行為である、と。
 それでも尚、人間に畜生の生命が具わっている限り、いじめが無くなることはないでしょう。しかし、正しい宗教、信仰によりそれを抑制、緩和することは可能です。私達心弱い凡人が菩薩や仏の生命を躍動(やくどう)させ、慈悲溢(あふ)れる境界を開いていく、その為にこそ、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の教えを示されたのです。
 法華経に「世間の法に染まざること、蓮華(れんげ)の水に在(あ)るが如し」(法華経四二五頁)と。
 多くの方がこの仏様の教えに縁を結び、人として本来あるべき姿を示して頂きたい、と私達は願っています。