仏 教 説 話 にがくなった果物

 昔、インドのベナレスの国を治めていた王様がいました。王様はとても心のやさしい人で、思いやりのある政治を行っていましたので、国も栄え国民も平和に暮らしていました。しかし、王様は「自分はこれでいいのだろうか?自分にも至らない所があり、必ず欠点はあるはずだ。誰か自分を正しく導いてくれる師はいないものか」と常々考えていました。
 ある日、王様は決心して旅人に変装し、自分を教導してくれる師を求めて旅にでました。
 ところが、都を離れ片田舎(かたいなか)に行っても、「我が国の王様は大変立派な方だ」と皆が口をそろえて言います。それでも王様は、皆に誉められれば誉められるほど、「自分にもきっと至らないところがあるはずだ。それを誰かに教えてもらわねば」という思いを強くしました。
 次に近隣(きんりん)の諸国を回ってみようとヒマラヤの山中に入って行き、一人の修行僧と出会います。僧は疲れた王様に、「このマンゴーの実を食べて元気を出して下さい」と言います。そして王様がそのマンゴーを食べてみると驚くほど甘いのです。王様はもう一つもらって食べてみると、これもとても甘くおいしいのです。修行僧は満足そうに「どうです。おいしいでしょう。この国の果物はみんな甘いのです。何故(なぜ)かというと、この国の王様がとても徳の高いお方で、その慈悲深い政治によって安穏(あんのん)な国を維持しているからです」と言いました。王様は自分を指導してくれる師を探し求めていたのに、修行僧からも「王様は徳の高い立派な人だ」と言われてとまどいながらお城に帰り、今迄通り国民の幸せを願い国を治めました。
 ところがある日、王様に、「自分は善政を行っているから果物までも甘くておいしいというのなら、悪政を行ったらどう変わるのだろうか」との疑問がおこりました。
 そして、その日から王様は大臣達に道理に外れることを次々と命令し、国民からは高い税金を取り、今迄と正反対のことをしてみました。大臣を始め国民は、「王様は気が変になってしまったのではないか」と困り果てました。
 数日後、王様は再び旅人に変装して修行僧へ会いに、ヒマラヤの山中へ行きました。そして「あのマンゴーがもう一度食べたいのですが頂けませんか」と尋ねました。修行僧はだまってマンゴーの実を差し出しました。王様はそれを口に入れてみると、以前食べた味とは全然違う、とてもにがくてまずいものでした。修行僧は「このマンゴーだけでなく、この国の果物はすべてまずいものになってしまいました。それは王様が慢心(まんしん)を起こして、ひどい政治を行っているからです」と言います。王様は、自分の浅はかな行いによって国民は困り果て、果物までも甘さを失ったことを恥じます。そして、修行僧に本当のことを明かし、「あなたの言ったことを試(ため)してみようとわざと悪政を行ってみたのです」と打ち明け、深くお詫びをしました。
 お城へ帰った王様は、国民一人ひとりの幸せを守るべき王様としての立場と、王様になるべくして生まれた自分の徳をしっかりと自覚し、決して自分を卑下(ひげ)すること無く、自分の成すべき事をしっかり全うして国を治めたということです。
 王様は国民の頂点に立つ人であり全ての国民を守り、幸せにしていく責任があります。そして王様になるということは、過去世においての善行の徳があったからです。そのような王様の責務と因縁を忘れて、身勝手な政治を行えば国は傾き、王様が清く正しい政治を執ればその国は繁栄し、平和を維持することができるでしょう。
 しかし、その政治の根底には土代となる、しっかりとした宗教が必要なのです。
 日蓮大聖人様は、『立正安国論』に、
 「大集経に云はく「仏法実に隠没(おんもつ)せば…樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽(つ)きん。…七味・三精気(しようけ)損減して、…生ずる所の華菓の味(あじ)はひ希少(きしよう)にして亦美(うま)からず」         (御書二三五)と、お経文を引かれ、誤った宗教が盛んな国は、穀物まで精気を失うと御教示されています。
 今の我が国に、この憂いが全く無い、と言える人がいるでしょうか?今こそ正しい宗教である日
蓮正宗の信仰が必要なのです。